言葉に関しての恥② 「バタくさい」考

 自分の恥について書く気満々なのですが、その前に、前回(①)カッコ内に記した「バタくさい」についてちょこっと語らせてください。

 この「バタくさい」の意味を自分がなぜ勘違いしたのかを、何度も考えました。(それだけ、この勘違いはショックが大きかったのです。)そして勘違いするだけの十分な事情があったと納得するに至りました。今回はそれについて語り、語義の思い違い例の複合的背景を詳細に考えてみたいと思いました。一応、自分では展開の順序を考えて取り掛かったつもりでしたが、何せアドリブ主体の文章ですので、途中で道草や迂回が生じ、人様に読んでもらうのが申し訳ない有様になってしまいました。読み易く編集整理することも一度は考えましたが、その作業の余りの煩雑さに諦めることにしました。奇特にも目を通してくださる方には、本当に申し訳ありませんと予めお詫びしておきます。次回は本当に自分の書いた恥について記します。

(1)表記と発音(アクセント)の問題

 もちろんこれが「バターくさい」だったら、その意味を、たとえ正しく理解はできなかったにせよ、大きく捉え損ねることはなかったでしょう。しかし、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』に「乳油ちちあぶら(洋名バタ)」とあるそうで、「バタくさい」という言い方が現れた頃には、「バター」の表記が未出現だったのかも知れません。(因みに、『安愚楽鍋』には、その直前に「乾酪(洋名チーズ)」とあって、カタカナ長音表記はしっかりと用いられているようです。魯文にとっては、cheese
は「チーズ」でbutterは「バタ」だったようです。)*
 次に、アクセントの問題があります。日本語「バタくさい」は、どの音節にもアクセントを置かずフラットに発音されます。仮にこの「バタ」が、英語のbutterを発音するように「バ」にアクセントが置かれれば、筆者にもこれがbutterを意味すると了解できたかも知れません。(筆者もその程度には英語ができたのです笑。)しかし、もちろんのこと、「バ」にアクセントをおいて、「バタくさい」を「バタフライ」のように(ちょっと違いますが)発音することは、おそらく日本語のどこの方言のアクセント体系を以てしても無理で、仮にその「バタ」がバターの意味だと理解されたとしても、「バターっぽい匂いがする」という意味の方向で形容詞として機能するのは無理で、せいぜい「バターは臭い」というセンテンスと理解されるのがオチでしょう。筆者の誤解は、実に英語と日本語のアクセントの体系の違いがもたらした悲劇の一例でもあるかと思います笑。

(2)語の指示対象への理解

 そして、原因はさらに考えられます。筆者の成長過程において、この語が周囲で使われた例がほとんど無く(つまり、この語が既に廃れつつあったか、さもなければ筆者が文化的僻地で育ったということでしょう)、いや、それどころか、この語の基底にあるバターそのものすら、筆者にはさほど馴染みのものではありませんでした。(この辺りで、筆者の成育環境の経済的貧困を想像していただくことが、ある程度可能かと思います。)さらに筆者は、生来の貧弱な嗅覚のせいで、butterを食したときにその「臭さ」を(たとえ感じていたとしても)意識することはほぼ無く、況や「バタくさい」などという言葉が生じうるなどとは想像だにできませんでした。今、「バタくさい」という表現を聞いたことの無い身近な人に、この言葉をどう思うか尋ねてみると、「バターの匂いがする」ってことかな?それ以外考えられないけど、という答えが返って来ました。やはり、筆者は、この言葉を理解するのによくよく向いていなかったようです。

(3)言語における意味了解可能性とその自覚(「ゆきげする」の事例を含む)

 と、長々と拘っていますが、この執拗な拘り方を訝るむきもあろうかと思います。筆者が拘るのは、自分は日本語に関してわからないことは何も無い、との妄信がぐらついた経験の一つだからです。この妄信は、まさに妄信と呼ぶのが相応しいことは、大きめの国語辞典を開いてみれば忽ち自覚されることですが、しかし、日頃知らず知らずこうした妄信に囚われている人は案外多いのではないか、と筆者は密かに思っています。そして、それにはそれなりの理由がある、と筆者は考えます。

 その理由とは、一般に自らが母語とする言語の範囲内では、初めて出会う単語でもほとんどの場合その(少なくともそこで用いられている文脈における)意味がわかるものだ、ということです。これには忽ち多くの反論も出るでしょうが、例えば筆者が読書したり会話したりしていて、初めて見聞きする言葉に出会うことは枚挙に暇無いにもかかわらず、そうした時に辞書を引かなければその文の意味が理解出来ない、ということは極めて稀です。これが10歳の子供なら事情は異なるでしょうが、その言語が人並みに(?)習得されたということは、初めて接する単語が文中に現れても文の意味がわかるようになるということだ、という言い方がある程度可能ではないでしょうか。
 辞書というものが必要であるというのも言語の現実ですが、そしてまた私たちが自らの母語に関して驚くほど無知であるのも厳然たる言語の事実ですが、辞書というのは日常生活では滅多に使われないものである、というのもまた言語の重要な現実であると言えるでしょう。(ついでに言えば、外国語学習の際に「文章を読んでいて知らない単語に出会ってもいちいち辞書を引くな」という言説があります。この主張の当否はここでは考えませんが、いや、そもそも筆者にそれを考える資格があるかどうかも問題ですが、こうした言説の背景にあるのも、「言語とは、初めて出会う単語でも文脈の中で意味がわかるものだ」という認識でしょう。すなわち、ことは母語に限らないわけです。)

 筆者の亡き母が、ある晩、「明日の朝は冷えて、ちょっとゆきげするらしいよ」と言いました。(母のイントネーションでは、「ゆきげする」の「き」と「す」が高く発音されていました。念の為に言うと、筆者の母のアクセント体系は関西系で、「雪」と言う単語は「ゆ」にアクセントが来ます。)この、「ゆきげする」という表現をご存知の方はどのくらいいらっしゃるでしょうか?筆者は、何十年も付き合って来た母の口から「ゆきげする」という言葉を聞くのはこの時が初めてでした。(母はそんなふうに、筆者が何十年も一度も接したことのない言い回しを、突然ごく自然な滑らかさで口にすることが、特に晩年、何度もありました。その度に筆者は母に「え?そんな言い回しあるの?昔からそういう言い方使ってた?」と尋ねたものでした。)そのような表現が日本語にあると知ったのも初めてでした。(その後も含めて、筆者が「ゆきげする」という表現を他で耳にしたことは一度も無いので、果たしてこれがある方言圏なり生活圏なりで一般に用いられていた表現なのか、それとも母が無意識に独自の表現を発明してしまったのか、いまだに詳らかにしません。ただ、母にそのような造語能力があったとは思えません。)
 それでも、筆者にはこの「ゆきげする」の意味は紛れようもない明瞭さでわかりました。すなわち、「雨にみぞれが混じったり、あるいは雪が少しちらついたりするような空模様になる、またはうっすらと雪が地表を覆ったりする時間帯が少しあるかも知れない、しかし本格的に雪が降ったり積もったりすることはない」ぐらいの意味であるはずです。(今ふうに言えば、雪っぽい天気になる、ぐらいの感じに近いでしょうか。)そして、そのような天気状況を言うのに、「ゆきげする」を凌ぐような、簡潔ではっきりと意味を伝えてくれるばかりか、そのような天気の時の生活感覚皮膚感覚を如実に伝えてくれる表現は、筆者にはいまだに思い浮かびません。「ゆきげ」は確かに日本語に有って、漢字表記するなら「雪気」です。この単語は辞書を引けば見つかります。が、「ゆきげ」を辞書でひいても、「ゆきげする」の適切な意味把握ができるとは限りません。が、冬季に雪が降ることが普通である地域の人なら、筆者の母の発した一文は、どんな辞書を読むよりも先にその意味が鮮やかに感得されることでしょう。
 そう、筆者のように浅はかな者には、日本語は「わかる」言語としてあります。初めての単語や言い回しでも、出会えば「わかる」つもりになってしまう言語です。
 にもかかわらず、いや、だからこそ、と言うべきでしょう、「バタくさい」は、その意味の理解を誤ったわけです。それはどんないきさつによるのか、と、筆者は拘り続けているわけです。

(4)形容詞「〜くさい」の理解

 さて、バタくさい、に戻ります。この語の意味を捉え損ねた原因は、おそらくまだまだあります。
それは、日本語に「〜くさい」という接尾語のついた形容詞がたくさんあり、ところがそれらの形容詞と「バタくさい」は微かにその成立原理が異なることです。たとえば「邪魔くさい」「めんどくさい」「辛気くさい」「年寄りくさい」「インテリくさい」「嘘くさい」「古くさい」など。これらの形容詞の接尾語は、実際の「匂い」の意味を有するわけではなく、いわば「くさい」を比喩のように用いて、「そういうふうに感じさせる何かがある」というニュアンスを添えます。そして、その場合ほとんどは、好ましくない状態を表す、と言えるでしょう。(一方で、「こげくさい」「ニンニクくさい」「黴くさい」のように、それの匂いがする、という使い方があります。「水くさい」という語は、これらの例に比べて、少し「〜くさい」の抽象度?が高いですね。)
 しかし、バタくさい、はおそらく違います。(その証拠に、「くさい」をつけずに、「邪魔だ」「面倒だ」「辛気だ」「インテリだ」「嘘だ」と言っても意味は伝わりますが、「バターだ」と言っても「バタくさい」の意味内容を表すことはできません。この点では「黴くさい」や「水くさい」も同じです。)これは元々「バターの匂いがする」意味から転用された、またはそれを比喩として用いた語でしょう。「バターの匂いがするような、いかにも西洋っぽい(から馴染みにくい)印象だ」ということでしょう。この「馴染みにくい」の部分はカッコに入れましたが、「バタくさい」は肯定的と否定的の両評価の用い方がある(あった)ようですし、さらにはその両方を同時に含意して使い手のアンビヴァレントな姿勢を示す場合もありそうです。重要なのは、この語の「〜くさい」は、一般的形容詞の「〜くさい」と同様、名詞について形容詞を形成しているにもかかわらず、他の「〜くさい」とは意味表現の原理が異なっていることです。(かなり近いのは比喩的に用いられる際の「黴くさい」や「きなくさい」でしょうかね。)

(5)日本語の「ばた」

 しかし、そうだとしても、「バタくさい」の意味を取り違える、どんな「バタ」の意味があるのでしょうか?

 筆者が、この語を眼前の人が口にするのを初めてはっきり耳にしたのは、高校のサークルの部室においてでした。このサークルは、年刊誌と別に月刊の「アプラクサス」という小さな部誌を出していました。この誌名はヘルマン・ヘッセの『デミアン』に出てくる次の文章から取られていました。

 鳥は卵の中から抜け出ようと闘う。生まれようと欲するものは一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという。

 そういうわけで、このサークルでは、ヘッセは非常に馴染みの作家でした。ある時、このサークルの部室で、釈迦についての本が議論にあがり、ヘッセの『シッダールタ』が話題に上りました。その時、1人の部員が「私も『シッダールタ』読んだけど、いいことはいいんだけど、なんか、バタくさい感じがして」と少し嬉しげに微笑みながら言いました。(この発言をした部員はのちに歌集を出版しました。)すると、別の部員(仏教系のある団体に入っていました)が、我が意を得た、という表情で微笑み、「そうだね、確かに、バタくさいね。バタくさい、って感じ、すごくわかる」と言ったのでした。この2人は同じ中学の卒業生でしたが、その中学校に通う層では、「バタくさい」という語が流通するような文化土壌があったわけでしょう。

 その「バタくさい」を初めて聞いた筆者はこの言葉をどのように理解したかと言えば、西洋っぽい、という意味だとはこれっぽっちも思いませんでした。それは、この語の「〜くさい」を他の形容詞形成の接尾語と同列に捉えたからです。
 当時の筆者の生活圏の日常には、「バタバタする」「バタつく」「バタバタになる」「バタバタだ」といった語がありました。これらは、一つ一つ微妙にニュアンスが異なるのですが、いずれも「乱雑で収拾困難な、困った状態」を含意する語です。
 そして、さらに「ばた屋」という、今では見かけなくなった語が(当時の筆者の生活圏ではほぼ使われていませんでしたが)本などでは流通していて、筆者にはとても親近感の湧く語と感じられていました。例えば「くず拾い」とか「くず屋」よりも、(その仕事内容は明瞭に語られてはいないけれども)遥かに生活感が感じられました。(この「ばた」が何に由来するのかは筆者にはよくわかりませんが、日本語の新語誕生の機微を考えさせるに十分な、その意味で興味深い言葉だと思います。さらに、この「ばた屋」という呼称に果たして差別的な心性が働いていなかったのかどうかも、慎重に検討する必要はあると思います。)仮に自分が、くず拾いを生業とする境遇にある場合、自分の職業を「くず拾い」というよりも「ばた屋」という方が遥かに開放感や自己肯定感が得られるような気がしたものでした。(自己肯定感、という言葉は当時ありませんでしたから、筆者がこの言葉でそう意識したわけではなく、当時の感覚を言葉で表現すればそのようなものになる、ということです。)
 「バタくさい」という言葉を耳にした時、咄嗟にイメージしたのは、上で述べたような「バタ」の複合したものだったわけです。そして、ここで「くさい」という表現が用いられるのは、これらの「バタ」の根底にある、あちこち破綻や取りこぼしや不行き届きや欠陥があって使い物にならない感じ、を短くまとめるのに、「くさい」という接尾語が重宝なのだ、と感じたわけでした。

(6)感慨

 ヘッセの『シッダールタ』は、釈尊を語る書として「バタくさい」かどうか、残念ながら未だにこれを読んでいない筆者には分かりません。(実は、あの時2人の部員が「バタくさい」との評言を吐かなければひょっとすると読んでみていたかも知れません。)当時の筆者は、「釈迦の思想について色々優れた理解知見はあるものの、あちこちアラが目立ち、トータルに釈尊の優れた思想を捉え語り得てはいない」といった意味合いと誤解してしまいました。しかし、これを「バタくさい」と評した人は、ヘッセが釈迦に関して把握していた内容なり記述の整合性なりを問題にしたというよりは、釈迦を膚で感じ取る際の感得のあり方(または釈迦をテーマにする際の問題意識のあり方)や、あるいは記述の語り口といったものが気になったのではなかったかと今にして思います。

 それからほぼ2年後ぐらいに、「バタくさい」の意味の思い違いを指摘され(筆者があきらかに誤用しているとわかる使い方をしたものでしょう。その間違いが何を語った時のものだったかは覚えていません。)国語辞典で自らの思い違いを確認した時のショックは大変大きいものでした。その後何度も辞書を手に取って読み直したほどでした。
 それからさらに数年後(だったと思います)、筆者は、『シッダールタ』事件(!)以来初めて、「バタくさい」の正しい使用例にテレビで出会いました。それはある番組で、歌手ディック・ミネさんの『ダイアナ』という歌がヒットした当時を回想して鶴田浩二さんが語ったシーンでした。「とにかく、ディックさんて、バタくさくてねぇ」と。なるほど、これがバタくさいという語の使い方か、と納得したものでした。

  *魯文の『安愚楽鍋』は、デジタル版の『精選版 日本国語大辞典』の見出し語「バター」の項に拠ります。「ちちあぶら」のひらがなは小さい文字になっていますが、本稿では対応できませんでした。その他、この辞書を随所で援用させていただいていることをお断りしておきます。なお、同辞書によれば、田山花袋の有名な『東京の三十年』に「イヤにバタ臭い文章だな」というのがあるようです。

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