言葉に関しての恥①



 これから言葉を巡る恥について(主として自分がかいた赤っ恥ですが)について、思い出せる限りのものを綴ろうと思います。

 言葉で恥をかく、というのは、無知から来ます。その中には、文字経由のものがかなりあると思います。
 初めに挙げる例が自分の経験した恥ではないので申し訳ないのですが、例えば字数の多いカタカナでよく間違える例に出会います。
 学生の時に聞いた二つの例ですが

 ある友人の述懐①
 「ツァラトストラ」を「ツァラトラ」「ツァラトラ」と言っていた友人がいて、俺はその間違いに気づいたんだけど、なんか訂正してやるのが憚られてそのままにしたのは、とても罪深い事をした。

 別の友人の述懐②
 「ドストエフスキー」を友達が「ドフトエスキー」と言ってて、自分もそれを聞いて、ドストエフスキーの名を見た時、あ、ドフトエスキーだ、と思った。

 これらの例は、ひとえに文字をきちんと拾って読む習慣が築かれていないことから来るのだろうと思います。カタカナの人名地名では頻繁に起こる間違い例です。

 文字をきちんと拾って読む、というのは実はちゃんとやれている人が意外に少ないです。これは就学時前後の頃に、必要な読みのスピードにのせるために文字をきちんと追わず大体の見え方で捉えてしまうからではないか、と、小さな子たちを見ていて思いました。
 カタカナ以外の例としては、「膣」(ごめんなさい)を「つち」と発音している人をみた事があります。当人が余りに堂々と発音しているので、恥ずかしくて訂正してやれませんでした。(ところが、筆者が「バタくさい」という単語を使った時、その誤用を指摘したのはその「つち」さんでした。恥ずかしながら、バタくさい、は西洋っぽいという意味だということを18歳の筆者は知らなかったのです。)
 この、文字をきちんと拾わない、ということには、なかなか深刻な問題もあって、その一つが、英単語の読めなさ、です。こちらは、英語特有の、文字の配列と発音との関係の難しさにも一因があるのですが、例えばthrough、 though、 thought、 tough、 taught、などの単語を見て正しく(もちろん英語的に正しくなどではなく、日本人英語的に、でいいのですが)読めている受験生は驚くほど少なく、大学受験生でも低学力層では実際にこれらを読めないためにこれらの意味の識別が出来ないということが起こります。

 次回から、自分のかいた恥、あるいはかいても不思議ではなかった恥について書きます。初回は、何やら啓蒙的な雰囲気に見えた向きもありましょうが、このシリーズは、基本的に単なる無駄話です。ただ、自分が言葉でかいた恥というのは、なぜか何十年経っても忘れる事ができないのです。

本日ここまで。

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