言葉に関する恥④ …「国語」という統制

 ③の「勇姿」は熟語の読み方に関するものでした。
 単漢字の訓みはともかく、熟語の訓みが出来ないというのは普通に考えるとそんなにありそうには思えないのですが、それでも一国の首相や首相経験者が「云々」や「未曾有」といった頻出熟語を訓み誤ったりするケースがあるように、なかなか油断出来ません。 猛ふぶきの犯してきた訓み間違いは、先にもいくつか例を挙げましたが、それはそれは夥しいものです。が、そんないちいちは今回は省きましょう。

夕陽のガンマン

 「勇姿」もそうでしたが、小学生から中学生になると、言語活動の幅も広がるので、間違いも多くなります。とりわけ、③で紹介したように、かつては小学校で習得すべき「教育漢字」が881字と少なく、それ以上の「当用漢字」は、中学終了時点でその多くを書けることが望ましいが最低限訓めるように、とされていたため、中学校では俄かに多数の漢字の訓みが現れることになりました。
 中学の漢字ドリルで衝撃だったのは「夕陽」の訓みです。もちろん、私たちは「夕陽のガンマン」などの映画のタイトルでこの熟語にはよく馴染んでおり、誰もが得々として「ゆうひ」と答えてバツをもらいました。正解は「せきよう」。これは衝撃でした。いったいこの国に、「夕陽」を「せきよう」と訓んでいる人が1人でもいるのだろうか、と(浅はかにも)思ったものです。ただ、学校でやらされる漢字ドリルは文部省指導要領に準拠した問題であり、当時の文部省の「当用漢字音訓表」には「陽」の字に「ひ」の訓みはありませんでした。したがって、「夕陽」の訓みが「ゆうひ」となるのはありえないことだったわけです。
 いずれにせよ、「夕陽」を正解できなかったのは、「陽」の問題であるよりも、僅か三画の漢字「夕」の音訓みを知らずにいた、という問題と認識すべきで、これは大きな衝撃でした。
 「夕」の音訓みが「せき」だと知ると、「夕風」の訓みは「ゆうかぜ」と「せきふう」の両方があるとわかります。佐藤春夫の『秋風一夕話』というエッセーのタイトルを見て「しゅうふういっせきわ」とごく自然に訓めたのは、実にこの「夕陽」のおかげでした。15歳の時に猛ふぶきの書いた『ちりめんかえで』という文章の冒頭と末尾、「冷たい風の吹く夕刻でした。庭のちりめんかえでが、融けるような夕陽を背に静かに燃えておりました。」の「夕陽」は、作者のつもりでは「せきよう」でした笑。

行政の「国語」統制

 「夕陽」は、自分が訓めなかった悔しさはありましたが、周囲の誰ひとり正解できなかった問題だったこともあり、屈辱感はさほどではなかったと記憶します。

 むしろ、「ゆうひ」という慣用訓みを許容しない文部省に不信感を抱くことになりました。「せきよう」という訓みに罪はありません。しかし、「ゆうひ」という言葉を「夕陽」と書きたがるのは、一種のこだわりと工夫であり、賛否はさておき、たとえそれが軽薄な感傷にせよ、言葉に思いを込めたい心情の現れと見ることができます。これ以後、文部省、そして後の文部科学省の勝手な「国語」のいじり方決めつけ方に不信感が募って行きました。(猛ふぶきが小学校で「魚」という字を習った頃、世間でごく普通に「さかな」と訓まれているこの字の訓みは「うお」と「ぎょ」で、学校では何と「さかな」とは訓めなかったのです!これは一種の復古主義的な観点に立つ統制であり、確かに一つの見識であったことは認めなくてはなりません。しかし、「さかな」という語は、その原義は確かに「酒菜」であって「魚」という文字は「うお」を表す文字ではあっても、現実には「さかな」という語がほぼ「うお」の意味以外で使われることなどなくなっているという変化に余りに鈍感ではないでしょうか。)その後、数々の近代文学作品を読む中で、文部省の規定(というより行政が「国語」をコントロールするという発想)に批判的にならざるをえませんでした。(文部省、文科省が統制するのは教育関係や行政文書やマスコミでのことであって、国民の自由な言語活動を制限しようとするものではない、としても、用字や表記や読みに「正しさ」を求めることに問題は無いでしょうか?)どう見ても、文部省の役人よりは作家詩人たちの方が遥かに真摯に日本語に格闘しているのが明らかだったからです。もちろん、彼らの用字や表記には往々にして無神経なものや不注意な例も多かったでしょう。それでも、その無神経さや不注意ぶりには、そのような表記がなされる書き手の心理的事情が納得されるケースがほとんどでしたし、それが正されたからといって「良い」文章になるとは言えない例もあまりに多いように思われました。

 大学受験が迫った頃、ある受験雑誌に答案の書き方に関する指南が載っていて、そこに感動的な一節を見つけました。それは「送り仮名」に関するコメントです。曰く、「送り仮名に関しては、必ずしも正しいとされるものにとらわれる必要はないが、ただ、同じ答案の中で送り仮名がばらばらで不統一なのは避けるべきであろう。」と。これは嬉しい言説でした。考えてみれば、採点する大学の先生の国語に関する見解が文部省や国語審議会の出している見解と一致しているとは限りません。そして、指導要領自体にも矛盾と判断できる要素が少なくないのです。文部省の指導要領や当用漢字音訓表に唯々諾々と従う必要はない、という大学受験の世界は、言葉に関する一個の自覚的批判主体としておとなになることを認められている世界だ、と思われました。送り仮名について言えば、教科書や問題集などでは「鮎くれてよらで過ぎ行く夜半の門」と表記される与謝蕪村の句は、蕪村自身は「鮎くれてよらで過行夜半の門」と表記した(『蕪村句集』)のです。「過行」というのは別段蕪村の工夫や個性ではなく、当時はこの種の表記がごく普通で(つまり送り仮名が無いと訓めないなどとは思われていなくて)、俳句に親しんでいる人達の間ではこの表記でなんら不都合は無かったわけです。「過ぎ行く」と「過行」にはそれぞれの良さと欠点があるでしょうが、同じように「すぎゆく」と訓めるのであれば、実は「過行」の方が優れていると思われます。(「過ぎ行く」は「過行」に比べ、過ぎて行く行為が時間がかかりその分もたついた遅い動きに感じられてしまいます。「よらですぎゆく」はもちろんこの句の生命で、ほとんどあいさつらしい言葉も述べずに「鮎獲れたから少し置いてくぞ。食べてくれや」などと言って立ち去ってしまう、この無愛想スレスレの爽やかな親愛の表現が何とも心にくく、作者にも読者にも余情を残すわけです。訓めさえすれば、断然「過行」がいいでしょう。)もしここで、「過行」は送り仮名の使い方が間違っている、と(あの蕪村に対して)言う役人がいれば、それこそ天下に恥を晒すものと言えましょう。
 この蕪村句に関しては、述べてみたいことがたくさんあるのですが、ここでの話題からはズレるので慎みます。

害を被る

 さて、中学1年の6月でした。5月の「勇姿」に続き、2ヶ月連続で屈辱感を味わうことになりました。「実力テスト」と称するテストの国語試験問題でした。

 「被害を被る」…この「被る」に傍線が引かれ、訓みを問われたわけです。

 もちろん正解は「こうむる」です。しかし、当時の猛ふぶき君、この「こうむる」が答えられませんでした。要するに、救い難いまでに無知だったわけです。
 この問題に遭遇した猛ふぶきは、2つのことに着目しました。

 一つは、これが「訓よみ」問題であることです。訓よみは、猛ふぶきの幼いプライドに直結するものでした。当時の猛ふぶき少年の観察によれば、国語の力は最も大きく漢字の力に現れ、そして漢字の力は畢竟訓読みの力に現れるものでした。訓読みがわかるということは、その漢字の意味がわかり、かつその漢字の意味を表す大和言葉を駆使する能力がある、ということです。「被る」が訓めない、そんなことがあってはいけません。
 「こうむる」という単語は知っていました。使われる場面ではその意味はもちろんわかりました。しかし、12年間、文化の僻地に暮らしてきた猛ふぶきは、日常の中で、「こうむる」という単語に出会う頻度が極めて低く、もちろん自ら使うことなど無かったのです。初めて出会う「被」の訓よみに、うっ、とつっかえ、この字が「こうむる」という音声とスパークすることはありませんでした。

 もうひとつ気になったのは、「被害を被る。」というセンテンスのアヤシさです。
 この文はまともな日本語文と言えるのだろうか?と、解答の困難をよそに考えてしまいました。「被」という字が続けざまに現れるこの文は、見るからにあやしく見えました。……「被る」という語がある以上(「被る」の訓みはわからずとも)、「被害」とは「害を被ること」であるか、あるいは「被る(または被った)害」の意ではないだろうか?だとすれば、「被害を被る」は「害を被ることを被る」か、または「被る害を被る」という文になっていないだろうか?例えば「頭痛が痛む」とか「苦痛を苦しむ」などの類ではないと言い切れるのだろうか?確かに日常的には「被害を被る」と言うのだろう。だからと言って、国語試験問題がその言い回しを追認することは、適切と言えるのだろうか?もし、「被害を被る」が他に言い換えの利かない表現なら致し方無いとしよう。しかし、「被害を受ける」・「被害が及ぶ」・「害を被る」・「被害に遭う」など、幾らでも他の表現が可能ではないか。もし、「被る」を試験問題に出題したいのであれば「損害を被る」などの文を用いるべきではないのか?
 ひとは、12歳の子供のこの疑問を、屁理屈だと笑うでしょうか?確かに猛ふぶきは幼時からこの種の屁理屈を捏ねてやまない子でした。問題用紙の字面を睨みながら、問題の解答もそっちのけで、この文の怪しさに拘っていました。これは、試験が終わってから、国語の先生に文句を言うべきではないだろうか、などと悩みました。答案が返却されてからも、長い間、この疑問を先生に質すべきか否かを迷いましたが、最終的には諦めました。所詮、まともに相手にしては貰えないだろうと判断したからです。
 この場合、「まともに相手にする」とは、ひとりの日本語使用者の抱く日本語についての疑問に付き合って、一緒に考察してくれる、という意味です。猛ふぶきは、自分の主張を通したかったわけではありません。「被害を被る」と言う言い回しが、日本語使用上問題が無いかどうかを一緒に検討してほしかったのです。疑問を訴えるのを断念した時、猛ふぶきは、自分の教わっている先生にそのように検討する能力が無い、と見放した訳でした。生意気にも、先生を見限った訳です。「国語」の例にとどまらず、子供時代に似たような経験をした人は少なくないだろうと思います。子供に接する全ての大人が心すべき問題でしょう。

 さて、では「被る」の訓み仮名を何と答えたでしょうか?
 猛ふぶきは、この訓みは変だ、多分間違っている、絶対にもっと適切な訓みがある、と思いつつ、「かぶる」と解答しました。実は、このような事例でこれを「かぶる」と訓むのはこの時が最初ではありませんでした。小学校時代に新聞で「侵水を被る」などの「被る」を密かに「かぶる」と2度か3度訓んでいた記憶があります。

 テスト後に掲示板に張り出された模範解答例によって、正解「こうむる」を知り、おお、そうだったか、なるほどこれは「こうむる」だ!と感嘆しました。(が、その感嘆は「被害を被る」という表現への疑いを帳消しにはしてくれませんでした。)
 しかし、その感嘆以上に、自ら辞書を引いて考え込まされたのは、「被る」には実際に「かぶる」という訓みが(当用漢字音訓表外で)普通に存在することでした。「損害を被る」は「そんがいをこうむる」ですが、「帽子を被る」は「ぼうしをかぶる」です。
 猛ふぶきは、なぜここで「かぶる」という訓みを思いついたのでしょうか?というのも、猛ふぶきが「かぶる」と解答したのは、この字が「帽子を被る」などの「かぶる」だと思ったからではなかったのです。実際のところ、「帽子を被る」という文を見れば、これを正しく読むことはもちろん出来たでしょう。しかし、このテスト問題を見た時、「帽子を被る」などの「かぶる」だとは全く思いませんでした。では、なぜ「かぶる」という訓みが準備されていたのか、ということになります。
 実は、この「被害をかぶる」の背景には、ひとつの方言的語法があります。

 例えば、台風の大雨で、低い土地にある田の稲がそのほとんど頭部まで水に浸かるような事態があったとします。こういう時、「あの田んぼの稲が頭まで水に浸かってしまった」というのは、おそらく全国的に通用する表現でしょう。しかし、筆者の周囲では、こういう事態をしばしば「あの田ァの稲、水かぶってしもて」などという表現を用いることがありました。「稲が水をかぶる」という表現は、どうでしょう?多少違和感を覚えるという人が、全国的には多いのではないでしょうか。
 もちろん、違和感は覚えるけれども言われている事態はわかる、という人が圧倒的に多いかと思います。「彼はバケツの水を頭からかぶった」と言うのとは違い、「稲が水をかぶる」は、方言とまでは言えないにせよ、やや方言性を帯びている、と言うべきかも知れません。この「かぶる」には能動の意味が無いだけではなく、「頭まで浸かる状態になる」との意味合いがあるのです。
 では、次のような表現はどうでしょうか?

 例文①「この一大プロジェクトは走り出した途端に想定外の国際情勢で頓挫させられ、あとに巨額の負債だけが残った。そして、その巨額の負債のほとんどを、一弱小自治体がかぶる羽目になったのである。」

 例文②「A村の農協が初めて設立され、その初代組合長に就任したが、その年、米価が暴落して農協は大きな赤字を出してしまう。責任を感じた組合長がその損失を1人でかぶった。」

 いずれも、意味内容は誰にでも通じるかと思います。例文②は①に比べてやや能動的ニュアンスが感じられるでしょう。例文②のような組合長の娘であった、猛ふぶきの母は、「学校の先生に『女学校を受けんか』と言われたれど、父親が農協の損かぶったが知っとったもんで、親に『女学校行きたい』言えなんだ」と何度も述懐しました。
 稲が水をかぶる、自治体が負債をかぶる、組合の損を組合長がかぶる……これらの例の「かぶる」には、「好ましいものではなく、可能ならば関わらずに済ませたいようなものや事態に全身丸ごとすっぽり見舞われ、それを我が身に引き受けさせられる憂き目に遭う」ようなニュアンスがあると言えるでしょう。猛ふぶき少年は、そんな「かぶる」という言葉遣いの環境で育っていました。
 すなわち、「被害をかぶる」と訓んだのは、「帽子を被る」の「かぶる」だと思ったわけではなく、「稲が水をかぶる」「負債をかぶる」「損をかぶる」の「かぶる」として訓んだのでした。それが、方言っぽいまたはやや幼稚な言葉遣いであり、あまりちゃんとした表現ではないと思っていたが故に、これはテスト問題の正解ではない、とわかっていたわけです。

「かぶる」と「こうむる」

 テストの後に、猛ふぶきには二つの引っ掛かりが残りました。

 一つは、先に述べた「被害を被る」という文の妥当性です。テストから何十年も経た今も、この字面を思い出すだけで居心地の悪い思いが蘇ります。少なくとも自分では「被害を被る」という言い回しは避けよう、と、中学へ入って2ヶ月目の猛ふぶきは決めたのでした。

 さて、もう一つは、「かぶる」という訓みが本当に誤りと言えるのか、という疑問でした。
 この疑問や拘りが生じてきたのは、猛ふぶきが小学生時代に、戦前や昭和20年代に出版された本や文学全集を何冊か読んでいたのが影響したかも知れません。つまり、所謂「旧漢字・旧仮名」の用いられている本を読んでいたわけです。ご存知のように、旧仮名遣い(すなわち「歴史的仮名遣い」)では、「そういう言い方」は「さういふ言ひ方」と表記されます。
 それがどう影響するかというと、そもそも「こうむる」と「かぶる」は本来同一の語ではないだろうか?という疑いを生じさせるわけです。「こうむる」は旧仮名だと「かうむる」です。「かぶる」という語はこの「かうむる」が変化した形ではないかしらん、と思えてきたのです。「かうむる」→「かうぶる」→「かぁぶる」→「かぶる」。いや、あるいは、元は「かうぶる」のような動詞があって、それがかたや「かうむる」→「こうむる」へと、かたや「かぁぶる」→「かぶる」へと変化したのではないか、と思われました。
 「かぶる」と「こうむる」はきっと元は同じ語だ、というのはしだいに確信にまでなり、何の証拠も裏付けもなく、いつしかそう信じこんでいました。

 今、例えば手元の『広辞苑』を引くと、「かぶ・る」[被る]の項には、まず第一に《他五》として、「カガフルの転」とあり、

①頭や体の上からおおう。かむる。②(水・粉状のものなどを)頭上から全身に受ける。あびる。また、物の全体がおおわれる。③身に受ける。背負いこむ。こうむる。

『広辞苑』第7版

 とあり、①②③それぞれの用例が載っています。
 ②では「頭から水をかぶる」「火の粉をかぶる」「古書がほこりをかぶる」の用例があります。
 ③では日葡辞書の「バチ(罰)ヲカブル」と滑稽本、続膝栗毛の「目をあくと今夜の奢りをかぶるのだが承知かね」が載っています。

 同じ『広辞苑』で「こうむ・る」[被る・蒙る]カウムル の項を引くと、やはり《他五》として

(カガフルの転。鎌倉時代まではカウブル)(目上や強力な物の動作を)身に受ける。いただく。また、身にふりかかるものとして受ける。

『広辞苑』第7版

として用例に、平家物語(11)「東国北国の者どもも随分重恩をこうむつたりしかども」。「損害をこうむる」「御免をこうむる」が載っています。

『広辞苑』以外の辞書も引用した方がいいのでしょうが、大筋ではほぼ同様の記述が見られると言えます。
 すなわち、中学時代に猛ふぶきが見当をつけた通り、「こうむる」も「かぶる」も、元は同じ語(かがふる)であるわけです。のみならず、辞書の「かぶる」の説明によれば、「かぶる」には「こうむる」と同じ意味もちゃんとあります。「稲が水をかぶる」や「負債をかぶる」「損をかぶる」などの言い方が、たとえ今は方言的に聞こえるとしても、元は由緒正しい日本語であるというべきでしょう。(方言がしばしば伝統的な言葉遣いの残存形であるケースがあるのは誰もが知るところでしょう。)
 とすると、「被害を被る」というアヤシい文の訓みは、「ひがいをかぶる」でも、あながち間違いとは言いにくくなります。もちろん、猛ふぶきは、当時も今も、「被害をかぶる」という訓みを正解扱いにしろと主張する気はありません。言葉遣いは所詮、多数決のものです。誰も使う人のいない「被害をかぶる」は、正解にする必要は無いでしょう。
 ただ、日常生活の中で、「損害をかぶった」という言い回しを誰かが用いたとした場合、その言葉遣いは、多少の違和感はもたらしても、意味上は許容の範囲内だと言うべきでしょう。少なくともそれを間違いだと糾弾する権利は誰にも無い、と猛ふぶきは主張したいです。

 この時、「国語」の試験問題とは何か、という問が改めて問われてもいいのではないでしょうか。
 「国語」という教科について、しばしば「算数は答えがひとつしか無いのに、国語はそうじゃないからいやだ」という不満が聞かれます。しかし、実際にはむしろ問題は逆で「いろんな答えがあるはずなのにひとつしか正解が無いとされることが許せない」ケースの方が多いのではないでしょうか。
 


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