難易度は高いですか?


はじめに…この投稿の動機


 世間の人々の具体的なあれこれの言葉遣いに不満は無い、という人はほとんどいないだろうと思います。

 筆者などは、片っ端からケチを付けたくなり、それが年齢を重ねるにつれてますます嵩じて、今や一日中、言葉遣いに関するボヤキのやむ時がありません。高島俊男さんならずとも『お言葉ですが』と言いたくなります。(あんなにわかりやすく明瞭にはとても語れませんが。)
 現時点で抱えている不満を全部述べようとすれば、人生が何回あっても足りず、しかもその何回もの人生の間には、今抱えている不満の何百倍もの不満を抱え込んでしまうでしょう。言葉遣いの、気に障るあれこれについていちいち訴えるのは、諦めるほかありません。

 にもかかわらず、先頃、「線状降水帯」という気象用語についての異議を本noteに投稿しました。(『用語 「線状降水帯」に異議あり』

 これも、とりあえずは「線状降水帯」という用語の使用に疑問があったからですが、あえて一文を投稿するに至ったのには理由がありました。
 その第一は、これが気象や天気に関する素人の用いる単語ではなく、れっきとした気象の専門家によって呈示された用語であるにも関わらず、その言葉としての成り立ちがそもそも未熟であり、そのせいで意味の不明瞭さが避け難い、と思われたことです。
 理由の第二は、 この用語が気象学術用語としての使用範囲を超えて、マス・メディアの天気予報にも広く使われる予報用語となっていて、一般の人々への影響が少なくないと考えられるにも関わらず、予報内容の重要さがきちんと伝わる用語とはいえないことです。
 この用語については、問題点を明瞭かつ適切に指摘する人が続々と現れて然るべきだとかねがね思っていたのですが、表立った批判が一向にメディアに現れて来ないため、見かねた筆者がたどたどしい投稿をする羽目になりました。

 さて、今回のこの投稿は「線状降水帯」に比べると、言葉遣いとしての罪は無きに等しいと思われるものです。至る所で見られる、言葉のうっかりミスが定着しただけの事例と見過ごせる類いです。なるほど、こんなふうに言葉の誤用は定着するのか、と納得できるような事例であり、おそらく、そのような思いでこれをやり過ごしていらっしゃる方も多いことでしょう。こんな重箱の隅を突っついて何の意義があるんだ、とお叱りを受けるかも知れません。
 しかし、本稿は、言い間違いそのものではなく、その間違いの出どころと出かた・拡散と定着の仕方に、看過し難い問題がある、というのが投稿の動機です。内容の些末さはご容赦を願いたいです。(本音を言えば、 重箱の隅をつっつくプロセスに付き合ってみて頂きたい、という動機も強いです。こんな単純なわかりきったことを述べるのに、この記事の膨大な字数は、当節異様の眺めであることは重々自覚しております。筆者にあってはもちろんのこと、おそらくお読みくださる方々にとっても、結論は単純明快でわかりきっています論拠とする事柄も、目新しかったり専門的であったりするものは何一つ無く、みなさんよくご存知の事ばかりです。しかし、昨今の、自分の見解の結論だけを放り投げるように呟いて批判対象を罵倒し、もって意見を言ったつもりになる風潮は、筆者にとって頗る残念な光景と見えます。意見というのは、採用されるために発表するものである以上に、反論してもらうためにこそ発表するものだと言いたい思いが筆者にはあります。わかりきっているはずのことを見落とさず拾っていく、この愚直のプロセスをこそ、点検いただけるとありがたいです。それでも、こんな書き方じゃ話にならない、とお考えになる方々は、どんどんお手本をご公表いただければ筆者としては望外の喜びです。)

「難易度」は「高い」ものか

難易度という語

さて、ここ20年ほどで顕著になった現象と観測しますが、世上、「難易度」という語が盛んに使われるようになっています。
 この単語そのものに問題がある、とまでは、あえて言いません。「難易度の点では」とか「難易度が問題になる」とかの使用例にまで目くじらを立てようとは、とりあえず思いません。

難易度が 高い/上がる?


 しかし、体操競技やフィギュア・スケートの中継放送に、また入試問題や大学受験を語る際などに、「難易度が高い」とか「難易度が上がる」という表現の頻出を見ると、どうしても穏やかではいられません。
 曰く、「これは非常に難易度の高い技になります」/「今回は難易度の高い4回転ジャンプに挑みます」/「かなり難易度が高い問題と言えます」/「技の難易度をさらに上げたいと思います」/「もっと難易度が上がることになります」等々……と。

 この表現にクレームが寄せられない理由が、筆者にはどうしても分かりません。

「難易度」とは?

 冷静に「難易度」とはどのような意味かを確認してみましょう。

「難易」という熟語においては、もちろん「難」は「難しい」意、「易」は「易しい(た易い)」意ですから、「難易度」とは「難しさ・易しさの度合い」即ち「どのくらい難しいか易しいかという度合い」の意味になるのは明らかでしょう。

熟語「難易度」の異様さ

 ただし、このような相反する性質・様態の漢字二文字をくっつけ、その後にさらに「度」をつけた熟語というのは、実は非常に稀であることを、まず確認しておきましょう。
 例えば、「強弱」という言葉はありますが、「強弱度」とは言わず、通常は「強弱の度合い」や「強弱の程度」などと用いるでしょう。「長短」・「高低」・「多少」・「多寡」・「老若」・「新旧」・「寒暑」・「寒暖」・「親疎」・「軽重」・「疎密」・「濃淡」・「大小」・「細大」・「緩急」・「深浅」・「硬軟」・「剛柔」・「清濁」・「明暗」・「美醜」・「顕密」・「長幼」・「遅速」・「早晩」・「安危」・「賢愚」・「貴賤」・「精粗」・「精疎」・「聖俗」・「善悪」・「正邪」・「正誤」・「遠近」……と、思いつく例を挙げていってみても、これらに「度」をつけた熟語は、少なくとも一般的には、用いられていません。
 すなわち、「難易度」という言葉は、この点で極めて異例の語であり、非常に新しい発明の語であると言えます。もちろん、この語が希少例だからと言って、その意味が通じにくいということはおそらくないでしょう。いかに希少でも、意味がわからなければここまでの流通を見ることはないでしょう。
 ではなぜ「難易」だけが「度」をつけて用いられることになったのか?これについては後ほど検討してみることにします。

辞書に見る「難易度」

 筆者が常用するデジタル版の『精選 日本国語大辞典』(以下、この辞書を「辞書①」または単に「①」と呼びます)にも「難易度」の見出語はちゃんとあり、もちろんその語義も載っています。

「物事のむずかしさとやさしさの程度」              

と。驚くほどそっけない記述は、この語の来歴が浅いことを物語るかと思われます。
  他の辞書はどうでしょうか。
 『広辞苑』第七版(以下、この辞書を「辞書②」または単に②と呼びます)にも同じように見出語として「難易度」はあります。しかし、その語義解説には辞書①のそれとは決定的な違いが見られます。すなわち②の語義解説は

 「むずかしいか、やさしいかの度合。むずかしさの程度。」

となっています。さらに用例も載せています。

 「難易度に差がある」「難易度が高い」

この2例です。いずれも私たちが今日よく接する用例です。

 お分かりでしょう。
 辞書①は、「難易度」とは、要するに「難易の度合い」だと言っているように見えます。然るに、②は、その「難易の度合い」の意味に加え、「難しさの程度」という意味を挙げています。
 しかし、②の挙げる二つ(2文)の語義説明は不思議なものではないでしょうか?
 1文めの「むずかしいか、やさしいかの度合い」というのは、①とほぼ同一見解と言え、すらすら納得出来ます。
 しかし2文めの「むずかしさの程度」というのが「難易度」という語の意味なら、なぜ「易」と言う文字が入る必要があるのでしょうか?この語義では文字「易」は不要なはずであり、ということは、この語義において「易」の字の意味は無視されていることになります。
 ここで反論の声が上がるかもしれません。「いや、難易度、と言わないと、むずかしさの度合いだということがわかるはずがないではないか」と。

まさにここが問題
です。 

 ある程度年齢の高い人ならご存知のはずですが、「むずかしさの度合い」という意味を表すのに『難易度』という言葉は要りません。つまり、ここに「易」の文字は不要です。

 そんなはずはない、とおっしゃるでしょうか?

 では、先に列挙した、反対の性質の意味を表す漢字熟語をもう一度見てください。
 例えば、人口の「混んでいる度合い」をいう時に人口「疎密度」などとは言いません。人口「密度」です。
「速さの度合い」を言う時に「遅速度」とは言いません「速度」と言います。
「高さの度合い」を言うのに「高低度」とは言いません「高度」です。
 写真の画面で「奥行きがどこまでくっきり写っているかの度合い」を言う時に被写界「深浅度」とは言わず、被写界「深度」と言います。
 例えば色の「明るさの度合い」を言うのに、色の「明暗度」とは言いません。色の「明度」です。
 溶液などの「濃さの度合い」を言うのに、溶液の「濃淡度」/「濃希度」などとは言いません。溶液の「濃度」です。
「硬さの度合い」を言うのに「硬軟度」とは言わず、「硬度」と言います。
 情報や計器による測定の「正確さ詳しさの度合い」を言う言葉は「精粗度」ではなく「精度」です。

 こんなことは誰でも知っているはずです。では、辞書②は、なぜ「難易度」の解説に、「むずかしさの度合い」という語義を加えたのでしょう?
 それは、実は②が挙げた用例に関わるからです。②は二つめの用例に「難易度が高い」を挙げています。これこそ私たちが今日浴びせられている「難易度」の頻出使用例です。「難易度が高い」という表現を誰も「間違っている」とは指摘せず、NHKのスポーツ中継でもごく普通に繰り返しこの表現が使われている以上、仮にどんなにこの言葉がアヤシイとしても、これを誤りと判定するわけにはいきません。言葉は多数決のものです。ところが、②が最初に挙げた「むずかしいか、やさしいかの度合い」という語義では、「難易度が高い」という文の意味が理解できません
 え?そんなことはないでしょう?と思われるでしょうか。
 では、きちんと書いてみましょう。「難易度」とは、「むずかしいか、やさしいかの度合い」だとします。そうすると、「難易度が高い」というのは、

むずかしいか、やさしいかの度合いが高い

ということになります。上の文の意味はわかるでしょうか?おそらく、わからないというのが正しいでしょう。が、もし、あえてこの文が解釈可能だとすれば、それは「むずかしいかやさしいかという度合いの幅が大きい」という意味になるはずではないでしょうか。
 つまり、もし、「難易度が高い」が、まともな伝統的日本語に沿った表現として意味をなすとすれば、「難易の分布幅の程度が大きい」という意味以外にあり得ないのではないか、と考えられるのです。
 何を馬鹿なこと言ってるんだ。「難易度が高い」というのは「難しさの度合いが大きい」という意味に決まっているじゃないか。
 そうおっしゃる方が多いのかも知れません。
 確かに巷では、そのような意味で使われています。ですから、辞書としては、その意味で解釈できるように語義を定めざるを得ません。
 だから、辞書②は「むずかしいか、やさしいかの度合い」だけで済ませず、「むずかしさの度合い」という語義を加えざるを得なかったわけです。すなわち、この二つめの語義は、「難易度が高い」「難易度が上がる」等の意味が解釈可能になるために挙げられたものと判断できます。
 辞書①は、使用されている「難易度」という言葉が、日本語として意味をなすとすれば熟語構成上どのような意味になるか、を説いています。①に掲載の語義では「難易度が高い」の用例は解釈できません。それは辞書編纂者もおそらく自覚しているでしょう。にも関わらず「難しさの程度」という語義を加えなかったのは、「難易度が高い」という語法は日本語上誤りである、との判断を暗に示しているように思われます。
 翻って、辞書②は、「難易度が高い」という表現が「難しさの程度が大きい」という意味で用いられている以上、「難易度」の語義にそれを反映しないわけにはいかない、と考えたものでしょう。

「〜度が高い」とは?

 ここまで、筆者の考える問題の所在は理解されたでしょうか?
 理解はしたが、「難しさの度合いが大きい」という意味は「難易度が高い」としか言えないのだから仕方ないじゃないか。と、おっしゃる方があるかも知れません。
 ところが、実はそんなことは全然ありません。

 もう一度、確認しておきます。
 「高いか低いかの度合い」という意味を表そうとすれば、「高低度」という言葉ができるかも知れません。しかし、単に「どのくらい高いかの度合い」は、「高低度」ではなく「高度」と言います。「高度が高い」は「高さの度合いが大きい」ことです。「高低度が高い」という文に意味があるとすれば、それは、「高いか低いかという度合いが大きい」すなわち「高低の分布幅が大きい」の意味になりそうな気配なのです。
 「硬いか軟らかいかの度合い」と(あえて)言おうとすれば、「硬軟度」という言葉になるかも知れませんが、単に「どのくらい硬いかの度合い」をいうには、「硬軟度」と言わず、「硬度」と言います。「硬度が高い」は「硬さの度合いが大きい」意味です。「硬軟度が高い」は意味がわかりませんが、もしあえて解釈すれば「硬軟の度が高い」すなわち「硬さ軟らかさの分布幅が大きい」の意味に解釈されそうなのです。「明度」「密度」「濃度」等々、同様に考えてみてください。

 これを要するに、「高い」や「上がる」など、一方向の語で程度の大きいことを意味しようとするとき(あるいは逆に、「低い」や「下がる」など、一方向の語で程度の小さいことを意味しようとするとき)は、正負のうちの正の方向のみを指示しないと意味がわからない、ということなのです。言い換えると「どちらを正の方向に取っているのか」を「〜度」の「〜」の部分で示す必要があるわけです。「高い」という時、どちらの方向に程度が大きいことを意味するのか。明るさの方向か、暗さの方向か。「明暗度」と双方を示すとどちらが正の方向かわかりません。「より明るい」という時には「より明暗度が高い」ではなく「より明度が高い」と言わなくてはならないのです。

「難度」

 だがそれでは「難易度が高い」ことを表せない?そんなことは全然ありません。

 実は、「難易度」という用語がここまで普及する前は、「難度」という言葉が普通に使われていたのをご記憶の方はまだまだ多いはずです。

 体操競技では、技の難しさが「難度」で表されています。「難度Dの技」/「高難度の技」/「難度の高い技を次々に披露」等々と言った表現がつい20年ほど前までは普通に使われていたと記憶します。体操競技だけではなく、フィギュア・スケートなどでも同様の表現を耳にしていたと記憶します。

 これらを文字で見て、「難度」ではなく「難易度」とすべきだと主張する方はどのくらいあるでしょうか?そして、その主張の根拠はどのようなことでしょうか?これらには今日普通は「難易度」という言葉が用いられている、ということ以外に、はっきりした根拠はあるでしょうか?

「難度」の難点!

 この「難度が高い」という表現は、少なくとも文字で見れば、意味はよく通じました。ただ、少しおさまりの悪い印象は確かにあったのです。

 おさまりの悪い印象の要因はいくつか考えられますが、その一つに、「ナンド」という発音の扱いにくさがあるように思います。この発音自体が、日本語の音韻体系の中に比較的おさまりにくいのではないでしょうか。
 いや、それよりも、日頃私たちが「むずかしさ」を感じて「ムズカシイ」という時の口腔の動きが、比較的引き締まっていて、思わず口をぎゅうっと結ぶ身体反応に連動している感があるのに比べ、「ナンド」という発音は比較的緩やかに楽で穏やかな感じがあり、「むずかしい」という感覚に結びつきにくい、という事情があるように思われます。
 この点では、「つよい」という意味を漢字「強」を用いて「キョウ」と発音するのとは大いに違うと思われます。「強力」「強烈」などをついつい使う気になるのは、使用場面が多いせいも確かにあるでしょうが、この「キョウ」という発音が、如何にも「つよい」感じを(もしかすると「強い」よりも強く)表してくれるせいも大きいのではないでしょうか。「強度」という言葉は、「難度」という言葉に比べて、使う時の「安心度がはるかに高い」ように思います。(「安心度が高い」は、「安心の度合いが大きい」意味です。この時、「安心不安度が高い」と言ったら、すなわち「安心か不安かの度合いが大きい」と言ったら何のことかわからないことをご確認ください。)
 おそらくはそのせいもあって、「むずかしい」という単語と「ナン」という音との結びつきが、あまり頻繁に日常語に現れない、という事情もあリます。確かに「難問」「難解」「難題」「難関」等の言葉はありますが、広く使われる「むずかしい」という形容詞に比べ、使用場面が限定的であることは否めません。おそらくそのせいもあって、「ナン」という音で反射的に「難」という字が思い浮かびにくいのです。そして「難」という文字を思い浮かべることが出来ない時には、「ナン」の意味はほぼわからないのです。
 要するに、「むずかしさ」に「難度」を用いること、いや、そもそも「むずかしい」意味で「ナン」と発音することが、日本語世界では「難点」(!)を抱えているのです。

「難易度」の出現

「難度」/「難易度」の需要

 しかし、だからと言って、「むずかしさの程度」をいうのに「難易度」という異形の語が登場して来るとは何事でしょうか?ここに、「難易度が高い」という表現への微妙で決定的な行程が潜んでいます。

 そもそも、「むずかしい」という意味を表すためになぜ「難」などという厄介な文字を使った熟語が要るのでしょうか?

 言葉を用いる時の大切な心得として、「易しい平明な言葉で、わかりやすく」というのは、常に言われるところです。「ナンモン」とか「ナンダイ」とか言うから何のことかわからない。「むずかしい問題」といえば小学1年生にもわかるではないか。これは、(特殊な意図の場合を除き)筆者ですら(なかなか信じてもらえないかも知れませんが)常々心がけているところです。

 しかし、「世界で1番入学するのがむずかしい大学」と言う、大変易しい言葉だけ用いた表現は、逆にまどろっこしくて面倒でわかりにくい、と言う場面があります。例えば、大学受験の指導の場面でこんな表現をしていたら、効率が悪いばかりか、逆にわかりにくくさえあるかも知れません。そんな時は「世界最難関の大学」と言う方が、使っている単語自体は難しくても、全体としてはストンとわかったりする場合があります。とりわけ文字で書かれた場合はそうでしょう。そして、これこそ、一見わかりにくいように見える漢字熟語が日本語から消えない最大の理由だろうと思われます。漢字熟語は、それを使った方がわかりやすい場面でこそ使うべきだし、実際にそのような場面で使われていると思いたいです。

 では、「難度」(や、「難易度」)という言葉が、「むずかしい度合い」/「むずかしさの程度」と言うよりもわかりやすく効率が良い、と言うのはどのような場面でしょうか?

 実は、この「難度」という言葉は、本当は成り立ちからして不審な点があります

 それは、この語を他の「〜度」の語と比較してみると見えてきます。
 まず「速度」・「人口密度」・「密度」・「濃度」・「高度」・水の「硬度」などは、「測定値」や「統計値」といった「数値」を用いて客観的に記述できます。(材料・材質の「硬さ」は、専門用語でも「硬さ」という語を用いる場合が多く、「硬度」は部分的にしか用いられていないようです。)
 それに対して、「強度」・「明度」などは、仮に数値表現できるとしても専門家でなければむずかしいでしょう。ただ、これらは、比較対照などによって、その度合いを素人でもある程度客観的に把握することが容易だと言えます。

 しかし、「むずかしい」というのは、本来、多分に心理的反応であり、そもそも客観的記述に馴染みにくい感覚だと言わねばなりません。例えば書道における筆使いで、「はね」と「はらい」と「縦画」のどれが難しいか、そんなことは人それぞれ違うでしょうし、またどの程度の達成が要求されるかによっても違って来るでしょう。
 それでも、難しさの度合いを問題にする必要に迫られる場合があります。
 その一つが、先に述べてきた「技の難しさが問われるスポーツ競技」でしょう。実は、こうした競技は、採点により優劣がつくこと自体が非常に不思議なものなのですが、何事にも「できるかどうか/どこまでできるか」を競いたくなる心理が人間には生じるもののようです。このような競技で、技の難しさの度合いはどのようにして判断できるでしょうか。
 例えば100人が試みて、80人が100回中75回以上成功させられる技Aと、75人が100回中90回は失敗する技Bとでは、Bの方が難しい、と判定することに誰も反対しないでしょう。このとき、実は、Bは80回以上成功するけれどもAは30回ほどしか成功しない、と言う人が100人中に15人いたとしても、それは難しさの度合いの判定に反映はされないでしょう。
 例えばそのように判定したとして、技の難しさを「難しさ」と言い表すのは非常に不便です。「技Aは技Bよりも難しく、技Cはそれよりさらに2段階難しい技になります。ですから、甲選手は乙選手に比べ、難しさで遥かに勝る演技をしたことになります。」などと言っていてはわかりにくくもあり、まどろっこしくもあります。この場合、「高度」や「密度」や「温度」のように数値などでは表せないけれども、程度・度合いを表す「度」という語を用いて、「難度」と言えば、もやもやしたものがあたかも整然と可視化されたような気分になれます。「技A、これは先ほどの甲選手の技Bよりも難度が2ランク上になります。」などと言えれば、表現がすっきりするし、評価の仕方に説得力も出ます。
 というわけで、「難度」という簡潔な単語は、「数値」で表現できない「技の難しさ」を競うスポーツの採点や解説の救世主になったわけでした。「ナンド」という音の馴染みにくさを差し引いても、採用の利点が断然大きい言葉だったわけです。

 そして、この時点で「難易度」という言葉は、少なくとも意味の上からは必要無かったはずです。
体操競技における技の進歩は凄まじいものがあり、1964年の東京オリンピックでは難度が「A」「B」「C」の上に「ウルトラC」があっただけですが、今日では難度「F」(女子平均台では「G難度」)まであるそうです。それでも難しさは7段階で収まります。そこに「難易度」などという奇妙でややこしい言葉が必要になるとは思えません。
 事態はフィギュアスケートでも似たようなものでしょう。典型的な「ジャンプ」で言えば、同じ「ルッツ」なら3回転よりも4回転の方が難しいのは素人でも推測できます。技の「易しさ」が問われることはなく、あくまで「難しさ」(と、「出来ばえ」)が問題になる競技において、究極でも4回転半であるとすれば、「難易度」という言葉がそれほど必要になるとは思えません。

「難易度」の発生

 では、「難易度」という面倒臭い言葉は、どこから、なぜ出現したのでしょうか?

 筆者が初めて「難易度」という言葉を見聞きするようになったのは、1990年代ぐらい(もしかすると一部ではもっと早くから使っている人々がいたかも知れませんが)からではなかったか、と思います。
 この言葉は、体操競技の技やフィギュアスケートなどとは比較を絶して小刻みで複雑煩瑣なランク付けの必要な場面で登場して来るでしょう。

 AよりBは難しいのか易しいのか、難しいならどのくらい、易しいならどのくらいなのか、CはAとBの間なのかそれともAとBより難しかったり易しかったりするのか、CがAとBの間だとして、同様にAとBの間だとわかっているDは、AとCの間なのかそれともCとBの間なのか、あるいはDはCと同じむずかしさなのか……難しさと易しさが微細複雑に検討されなくてはならない局面では、「難しさ」と「易しさ」の両方の語が目まぐるしく交錯することになるでしょう。しかも、「より難しい」ものが求められる時もあれば「より易しい」ものが探される時もある、そんなときは、「難しさ」という一方向ではなく、「難しさ」と「易しさ」の二方向を常に視野に置くことになるでしょう。常に「難易」を検討し、「難しさの度合い」はどのくらいか、「易しさの度合い」はどのくらいか、と問う場面が生じるでしょう。もはや単なる「難度」という言葉は不便になります。達者に言葉を使いこなすことに長けた人たちは、「難易」という言葉を、さらにはそこから「難度」と「易度」を同時に扱う「難易度」という表現をつい自然発生的に(ほとんど「われ知らず」)用いている「頭の良い」自分を発見するでしょう。

 そう、受験、とりわけ大学受験の受験指導です。
 「模試」による「偏差値」を算出し、志望大学の志望学部(ときには学科まで)に合わせて有利な科目選択の仕方による有利な受験の型を割り出し、「合格判定」をする。いや、模試どころではありません。古くは「共通一次」や「センター試験」、新しくは「共通テスト」、などの実際の入試得点から、受験生は難易の度合いと合格可能性のデータを駆使して出願校を決めます。
 このような「得点」や「偏差値」「入試倍率」「合格率」などの「数値」が、本来漠然として捉え難い感じを鮮やかに序列付けてくれる局面こそ、「度」という言葉の出番です。筆者が子供の頃によく聞かされた、誰々教授に憧れて志望大学を決める、などという話は、筆者が受験する頃ですら既に遠い伝説の世界でした。受験生は、同じ系統の学部で(いや、しばしば学部などどうでもよくて)、少しでも「難しい」大学を受けようとします。そして、それと同時に、確実に合格できそうな「易しい」大学を「滑り止め」として確保したりします。
 大学進学率が上昇し、大学の数も増えるのにつれて、「受験産業」がみるみる肥大したのは周知の事実です。当初は、学力の伸ばし方や合格可能性のあげ方に主眼をおいているように見えた受験産業でした。しかし、今や、受験産業の核心的業務は、現学力のままで、どの大学のどの学部がどのくらい受かる可能性が見込めるかのデータを提供することになっている、と言えるのではないでしょうか。

「難易度ランキング」の出現

 このような状況の中で必然的に登場した言葉こそ、「難易度」でした。
 受験産業の従事者たちは、ある程度受験の実態を知っている人たちでしょう。それだけでも一部世間の目には、しばしば知的印象を与える場合があります。そんな人たちが、「むずかしさ/やさしさの度合い」を、端的に「難易度」と表現すると、表現した本人も周囲の人も、如何にも「知的な」現場にふさわしい表現であると錯覚しがちでしょう。
 国・公立大学と私立大学、文系と理系、それぞれに膨大な数の各大学・学部の「難易度」が、見やすい形で示されることが求められます。かくて、「国公立大学文系」「国公立大学理系」「私立大学文系」「私立大学理系」あるいは「医療・看護系」などと分類された「難易度ランキング表」が作成されます。
 もはや、受験生も受験指導者も、「難易度ランキング」を度外視して受験を考えることなどできないし、そんなことは許されなくなります。細部までは頭に入ってはいなくても、「難易度」で細かくランク付けられた「難易度ランキング表」の概形は頭の中に刷り込まれています。その表では常に、1番上が最も難しい大学・学部で、下の方へ行くほど入りやすい、すなわち「難度の低い」大学・学部になります。

そして「難易度」は「高」くなった

 「建築学科志望で、A大学とB大学のどちらに行こうかと迷っているんですけど」「ん?何言ってるんだ!AとBじゃ難易度が全然違うんだぞ」「え?そうなんですか?」「当たり前だ。難易度で言ったら、Bの方が断然上だ。でも、君の今のこの偏差値じゃ、Aでも全然届かないよ」「え?どっちもそんなに難しいんですか」「そうだよ。Bよりはかなり下だけど、Aだって建築学科の中ではけっこう難易度が高い方だからね」
 と、そんな会話がつい交わされることになるでしょう。
 この時、ぼんやりとでも「難易度ランキング表」が意識されている両者は、「難易度が上」/「難易度が高い」という言い方の日本語としての誤りをつい見過ごすことになるでしょう。
 やがて、この受験産業の関係者、とりわけ予備校や進学塾の受験指導担当者たちは、受験生やその保護者やを前に、「こういった難易度の高い大学は」とか「この分野の出題は、難易度がかなり上がってきている傾向にあります」と、得々として語るでしょう。「難易度が上がる」・「難易度が高い」という高級な言い回しを駆使できる、受験指導の専門家としての自分がとても知的な人間だと錯覚しながら。

正しさを競う人々の駆使する「難易度」!

「難」より「難易」

 こうして現れた「難易度が高い」という表現はしかし、速やかに受験業界の外へ浸透して行きます。
「難易度」という言葉自体、「難度」という言葉の使いにくさに絶えず困っていた人々を救ってくれるもので
 「ナンド」という音を「難度」という漢字に翻訳するのは、かなり「難易度の高い」脳作業ですが、「ナンイド」となると、これを「難易度」と変換するのは飛躍的に「難易度が下がり」ます。「コウ」と言っても何のことかわからなくても、「コウテイ」と言えば「高低」かな、と絞り込めます。「エン」だけでは何のことかわからなくても「エンキン」と言えばほぼ「遠近」だとわかるでしょう。同様に、「ナン」よりも「ナンイ」の方が遥かに意味が捉えやすいのです。「難度」という言葉の使用を強いられて来た人々が、心理的モヤモヤからの脱却を求めて「難易度」へ走ったのは情状酌量の余地が大きいと言うべきでしょう。「難易度」へと流れたマスコミ業界を軽々に批判することには、筆者も「多少」のためらいを禁じ得ません。

「知的な人々」の誤用自覚の「難度の高さ」

 問題は、「難易度が上/下」や「難易度が高い/低い」という、本来意味の通らない表現の無反省な使用です。具体的場面での単語の発しやすさと、受け手側のわかりやすさ、という点では、「難度」より「難易度」の方が遥かに抵抗が小さいことは確かです。しかし、「難度」よりも「難易度」の方が使い勝手がいいからといって、「難度が高い」を「難易度が高い」と言い誤ることが許される訳ではありません。「難度が高い」は、「難しさの程度が高い」意味ですが、「難易度が高い」は「難しさ易しさの程度が高い」という、意味のわからない言葉だからです

 「難易度が高い/低い」・「難易度が上/下」/「難易度が上がる/下がる」という表現は、受験産業界から出たものだろうと筆者は憶測しています。
 受験の現場は、解答の「正誤」が問われる場です。こともあろうに、受験指導を謳う人々が、訳知り顔で得々と、この誤った語法を平然と繰り返している様は、世にも情けない光景と見えて仕方がありません。
 かつて、某家庭教師派遣業者のTV CMで、「MOTHER   Mを取ったらOTHER  他人です」というのがありました。(母親が学習指導するのでなく、他人にその指導を委ねればいい、と暗示するものと思われました。)“other”という単語から「他人」へと連想をはたらかせることは不可能ではないかも知れません。しかし、「他人」という意味にしたいのであれば、“other”ではなく“others”と言うべきでしょう。このCMの罪は、英単語の用法を誤ったこと以上に、それが家庭教師派遣業者の、一見いかにも知的に見えかねないCMだったことだというべきでしょう。私たちは、このような家庭教師派遣業者を信頼すべきでしょうか?

 おそらくは「正誤」にうるさいはずの受験業界に端を発した「難易度が高い」という表現は、瞬く間にマスコミ業界を浸潤してゆきました。
 言葉の使い方の範を示すと自負するNHKをはじめ、放送業界その他各種メディアに、スポーツ報道を中心としてこれが広まってゆく浅ましいありさまを耐え忍ぶのは、筆者の如き愚直な人間にとって、実に「難易度が高い」のです! 

最後に一言

「難易度が高い」と言って恥じない人々や企業を、筆者は、深く深く、軽蔑します。

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