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タダという関係

”タダほど怖いものはない”

こんな言葉を聞いたことはあるが、私はこの逆の経験をしたのだ。
何かと言えば、オーストラリア へ来てから知り合った人に私がピアノを弾けるというと「子どもにピアノを教えて欲しい」とお願いされることが多々あった。現地で生まれ育った子なら現地の先生につけばいいのだが、留学で来ている子は英語もままならないので母国語で教えてくれる人を望み、現地オーストラリア の人件費が高いので子どもに教えるといえどレッスン代平均1分$1の計算となる費用が少し高いせいもあり二の足を踏んでいる人が多い。
そこへ母国語を喋る知り合いの人がピアノを弾けると聞けば、是非知り合い価格で教えて!となる。
私も知り合いの子なので「私で良ければお役に立ちたい」と思うのだが、如何せん私の場合ガーディアンビザなので働くことができない。すなわちお金を貰えないのだ。
なので、今まではそれを理由に断ってきたのだが、それでも頼まれるのでお世話になってるし一度引き受けてみよう!と、とりあえずタダで引き受けたのだ。(正式には他の形で対価を頂くことになった)
いくらタダでもいい加減な指導ではその子が可哀想なので、事前にあれこれ考えて万全な用意はしていたのだった。
そして初レッスンを迎えたのだが、驚いた事にレッスンを受ける子ども自身にピアノを習いたい意欲が全く無かったのだ。なのでレッスンにならない。
親は子どもがピアノを弾けるようになって欲しくて習わせたい、習えば自然とピアノを弾けるようになるものだと思っていたようだ。
ピアノだけではなく英語もスポーツも絵を描く事も同じだが、全て一朝一夕で上達しない。何事にもそれに費やす時間と努力が必要だ。そして何よりも本人のやる気があってこそなのだ。

そこでやっと気づいたのだ。

タダでしてあげると言った私がバカだったことを。

人はタダもしくは安価となるとそれの本当の価値を見極めようとしなくなる。
百均で物を買う時など良い例かも知れない。
見た目はすぐにも壊れやすそうな粗雑な作りなのに、100円だからいいかと価値よりも金額の安さに目を奪われて安易に買い物してしまう。しかし、やはり粗雑なものはすぐに壊れ、結局数倍以上の値段の物を買い直したりすることがある。
(断っておくが、百均にも値段以上の物はある・・・)


もし私がレッスン代を現地の先生と同じ価格に設定していたなら、親は子どもにやる気を確認して、値段との対費用効果を真剣に悩んだのだろう。

そして、今、長男がゲームのアプリをダウンロードしてと頼んできたのだが、その理由は「そのアプリをダウンロードすればタダでレアキャラがもらえる」とのこと。

世の中そんなにタダでもらえる物に溢れていると、私たちはタダが当然のものだと意識がタダに慣れてしまい安易に購入またはダウンロードしてしまっている。

しかしタダで企業が儲かるわけがない。必ずカラクリがあるのだ。

”タダほど恐ろしいものはない”

それを激怒しながら息子に説く私の愚痴である。


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