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一つのゲームに人生を変えられた男②


日本に帰国

僕は毎年夏休みになると、母親と父親に会いに、おばあちゃんに連れられて中国から日本に帰ってきます。

僕のいた小学校の夏休みは6月23日から8月31日まででした。春秋の2学期制で、春休みというものはなく、冬休みも二週間程度で、長期休暇と呼べるモノは夏休みくらいでした。

このような理由があるので、夏休みは僕が最も楽しみにしていた期間なのです。

上海では、小学校は5年生までで、小学校6年生は、「中学予備学年」と呼ばれ、厳密には中学校として分類されます。また、呼び名は、小中学校通して、一年生、二年生・・・九年生となります。

例年と同じように、小学校5年生が終わり、夏休みに入り、おばあちゃんに連れられて日本に帰ってきました。いつもと違うことは、中国に帰る予定だった日に起きました。

「どうしても母親と父親と暮らしたいから、日本に残りたい!」

トランクに荷物をまとめていたおばあちゃんは、普通にしているだけで大きい目を、更に大きく見開き、驚いた様子を見せました。


そのような意思を見せた僕に対して、両親は反対するはずもなく、約6年越しの三人の生活が始まりました。日本の夏休みがあけ、地元の小学校に、小学校6年生として、二学期から転入することになりました。



日本での生活

毎年7月に入ったばかりの頃に日本に帰ってくるので、日本の小学校が夏休みに入るまでの約2週間だけ、近くの小学校に通ったりしました。その頃は自分のナショナリティーに関して疑問を抱いたり、日本、中国のどちらからも排斥されたりしましたがそれはまた別のハナシ。

 いざ本格的に日本での生活が始まると、大変なこともまぁまぁありますが、あなたがたが想像してるほど大変ではありませんでした。もとから日本のゲームやアニメが好きで、中国でも日本語によく触れていたので、コミュニケーション面でストレスを抱えたことは一度もなかったです。


中国で当然のように家庭教師と塾に行かされていた僕は、日本に帰ってきても塾に通うことになりました。早稲田アカデミーです。ワーセアカワーセアカ。

当時、母親は中学受験をさせるかどうか悩んでいましたが、僕の社会と理科に関しての知識があまりにも乏しかったので、見送ることにしたそうです。

抽選でぎりぎり学区外の中学校に補欠の一番として入学し、中学生活が始まりました。



親友との出会い

 中学校で選んだ部活は卓球部で、理由は中国で卓球を習っていたからです。楽そうだったからじゃないです。ラクそうだったからジャナイデス。大事なことなので二回i

そこで僕はM君と出会いました。

彼と仲良くなったきっかけはすごく単純で、

2年生のある日、部活動のみんなでゲームの話をしているときに、僕が興味本位で

「パソコンでゲームしている人っている?」

と聞いたのが始まりでした。


日本ってパソコンでゲームしている人って少ないですよね。小学校はおろか、中学校でもほとんどいませんよね。最近は増えてきているようで嬉しいですね。

日本に来て2年ほど経ったので、僕もそのことにはうすうす気づいていました。この国で一緒にパソコンのゲームをする友達は作れないんじゃないか。そう思っていました。

ところが一人だけいたのです。

M君です。

話を聞くと、彼はCSOをよくやっているそうです。CSOは僕も中国にいたときに少しやっていました。ゾンビゲームオンラインかなっていうゲームですね。

CSOに関しては大して興味はなかったのですが、中学校の友達と一緒にパソコンでゲームできる、それよりも嬉しいことはありませんでした。そして彼は、よく一緒にゲームをしている友達を紹介してくれました。

彼らは、もともとM君の兄の友達で、住む地域もばらばらでした。九州、関西、関東だけど自分からは少し遠い場所などなど。

「あぁ、日本にもこういう集まりがあるのか!」

僕は感動しながらそう思いました。


LOLとの再会

 彼らと知り合って間もないある日、みんなでできるゲームはないかということで、僕はLOLを話に出しました。

「中国で今結構流行ってるゲームがあって、LOLっていうんだけど、みんなでやらない?」

興味があればすぐ手を出すような人たちだったので、自然に実際にプレイしようという流れになった。

楽しかった。

なんでだろう。前は全く面白くなかったのに、その時はとても楽しく感じた。


中国では中国の生活があり、日本では日本の生活がありました。あたりまえですが、それは住む国が変われば容易に変わるものでした。いわゆる国民性とか、その時の環境に起因するものが自分のアイデンティティーを培ってきたので、しばしば自分とはなんだろう、という疑問を抱いていました。

中国では座学がとても好きでしたが、日本に来ればそんなことはなくなりました。中国では学校のサッカーのチームに入って、運動が得意と周りに持ち上げられていたが、日本のクラスメイトや友達からしたら、インドアの人、って認識されていたと思います。



みんなでLOLをしたとき、Warcraft III をやっていた時期を想起させられ、人とゲームをすることが好き、ということは自分を定義する上で必要不可欠な要素だと気づいたのだと思います。中国でも、日本でも、僕は友達と話しながらゲームをする。その時の自分にとって、これは自分でいることと直結していたのだと思います。

そして、LOLは自分という存在を教えてくれたゲームになったのです。


今なら上記のことについて考察できるので、興味がある人は読んでください。

座学についてですが、座学が好きなのは優越感を感じさせられることに起因していたと思います。僕のいた小学校では、テスト返却は、点数が高い順に名前を呼ばれ、教卓まで歩いて行って、返却してもらう、というプロセスがありました。いつも最初に呼ばれたい、そんな思いから、モチベーションを保てたのだと思います。つまり、根源にあるのは、座学が好きというのではなく、優越感を満たす手段としての座学が好きだったのです。
運動については、初期の段階でそう印象付けられてしまったから、そういう風に演じるしかなかったのだと思います。日本に来たばかりで、不安を抱えたまま、中国語じゃない言葉でコミュニケーションを取りながら運動をする、というのは普通の人にとっては難しいことだと思います。そこで控え目な立ち回りをずっとしていたら、周りは運動が好きじゃない、苦手なのだろうと思うのはとても自然なことです。一度そのような環境に陥ってしまえば、変えるのは難しいですよね。サッカーでうまいプレイをしようとするものなら、下手なのにそういうことするなと非難されるのを恐れてしまうのは、幼かった僕にとって仕方のないことだと思います。そして多くの同級生は、そのまま同じ中学に入りました。そこでも同じでした。高校に入るころにはもう根付いてしまっていたと思います。つまり、僕は、周りの「こいつならこうするだろう」という空気に対して敏感で、できるだけ答えたい人間なのだと思います。

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