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夏の記(上)

夏という季節を好ましいと思ったことは一度もなかった。快適な気候とは程遠いし、あれをやれこれをやれと押し付けがましい気もする。だが、そんな屈折した感情とは裏腹に、まとまった休みがあるという理由から毎年自分は夏に外出している。今年の8月5日、自分はいわゆる第二の故郷である札幌に向かった。

2年ぶりに会った大学の同期は、大学院でインド哲学を修め、8月からとある外資系企業で働き始めたのだと言った。それも、国総(国家公務員採用総合職試験)の合格有効期限を迎える3年後までには辞めるつもりらしく、先方もそれを承知の上で採用しているということだった。そういう生き方もあるのかと自分は感嘆した。
「僕の収集している『生き方ファイル』の中でも、一二を争う特殊な事例だね」と自分は言った。大学を卒業してから2年が経ち、修士に進んだ友人の多くもこの春から働き始めた。自分と違って現役で大学に進み、会社人生活3年目を迎えた知人たちの間からは、ちらほらと転職の話も聞こえるようにもなった。もちろん、博士課程に進んだり、いろいろと寄り道をして働いていない知己もいる。高校から直接就職したケースも含めれば、自分周辺の人々の「生き方」は、これまでにないほど多様化しつつあった。頻繁な札幌入りの背景には、大学を卒業したまま札幌に残る(あるいは帰ってくる)という、ある種自分とは異なる選択をした人の「生き方」を覗いてみたいという事情もあった。昨年の暮れ、オホーツク海沿岸の紋別に住む友人を訪ねて行ったのも同様の理由からであった。こうした人生見学の積み重ねで、自分の「生き方ファイル」は分厚く、豊かになる一方だった。ただしそのことによって、自分の人生が豊かになる兆しは今のところない。

就職して以来の悩みの種は、本を読む時間や考えを深める時間、そして文章を書く時間が以前と比較して、格段に減っていることだった。もちろんその要因は、自分が少なからぬ時間を労働に捧げていることに違いなかったが、なまじ理想的な大学生活を経験してしまったということも原因ではあった。理想的といっても、大学年間を「人生の夏休み」と形容してはばからない、いわゆる放蕩学生だったわけではない。友人に恵まれつつも、むしろ寡黙に学業に没頭する類の学生であった。余暇においては活力に乏しく、最低限の賃労働で得たわずかな金を細々と使う「省エネ型」の日々を送っていた。しかしその分時間は豊富にあった。そうした環境下で、思索に耽り、時にその成果を文章にすることが自分の中で重要な営みへとなっていった。負担であったはずのレポート課題も、定期的なインプットとアウトプットの習慣を与えてくれるという点で、自分の思索に多大な貢献をしていた。大学は思索を好む自分にとって理想的な環境だったのである。夏休みとはいかずとも、冬休みくらいではあったことを認めなければならない。その特異な大学生活がこの上なく自分にフィットし、それを理想としてしまったおかげで、今もなお自分は冬休み明けのギャップに苛まれているのである。「パーリ語の1単語のために1日をかける日々はもう来ないんだなって」と同期は言った。何でも立ち止まって考えたがる者にとって、労働の日々はあまりに忙しなかった。
「高校から直接就職していたら、これほど悩まずに済んだかもしれない」と自分は言った。もちろん時間は不可逆的であって、そうした結論に辿りついたところで、現状が好転する見込みが立つはずもない。



そうしたことを話しながら、自分は同期の「彼氏の車」に乗せてもらって夕張のシューパロダムに行った。帰りに寄ったカフェは夕張に似合わず洒落ており、1,000円で高品質なパスタとサラダのセットが食べられて、しかも空いていた。東京なら30分待って1,500円支払うことになるだろうという店だった。札幌近郊に住んで、週末にマイカーでこうした店を訪れる生き方も悪くないなと、珍しく確信めいたことを思った。

翌日は研究室の後輩と面会し、その後輩が博士課程に進む方針であることや、退官も近いかつての指導教員が結婚したことを知った。その翌日は高校以来の同期と会って、円山までコーヒーを飲みに行った。彼は今でも理学研究院の博士課程で研究を続けていた。夕方は大学書道部の同期数名で飲み屋に行き、市役所勤務の同期に「『何者かになりたい』という流行り病に冒されていないのは、現代において稀有なことである」といった内容を語ったりした。もちろん自分のことは棚に上げてである。

それから自分は、書道部の同期であるO君と共に彼のアトリエへと帰り、昼間買った冨田勲のレコードをプレーヤーに掛けて聴いた。書家を志す彼はいわゆる定職には就かず、祖母から引き継いだマンションの一室で教室を開きながら、創作活動に励んでいた。自分はその部屋(アトリエと呼んでいた)を滞在中の宿として使わせてもらっていた。彼は安定を求めず、書道によって自らが何者かを証明する道を選んだ。そして自分は安定と引き換えに、かつて割合に気に入っていた自分を売り渡していた。

「週4くらいの労働にするって手はないのかな」自分の悩みを知るO君は言った。
「アルバイトにするってことかな」
「そうだね」
自分はしばし考えてから言った。「一度正規雇用で働くと、非正規雇用に戻るってのはなかなか難しいよね。同じ労働でも、時給労働と月給労働じゃ密度が違うんだ。また時給労働をするなんて考えられない」──「フルタイムで働いていないからわからないだろうけど」と言いかけて、自分は踏みとどまった。そうやって差異を強調して何になるというのだろう。学生時代が終わり、たしかに我々は多様な道を歩み始めた。だからといって、「彼は自分と違って公務員だから」「彼は自分と違って残業代がちゃんと支給されるから」「彼は自分と違って同棲しているから」と線を引いていけば、やがて世界は自分だけになってしまう。ある意味、それはその通りなのかもしれない。自分を救えるのはおそらく自分だけである。とはいえ、そうやって「異なる人」の言葉に耳を貸さなくなることが得策だとは、自分には全く思えなかった。それに彼の提案は自分の悩みの解決策として、実に真っ当であることに疑いはない。

だけれども、身の回りのさまざまなことが定まりつつある昨今、自分の中で「共感」できないことが徐々に積み重なりつつあるのも事実だった。たしかに自分はまだ若いかもしれないが、この先自分が一般的な日系大企業に勤めることはないだろうし、子供を欲することもないだろうことは「確定」しつつある。だから自分には大組織の中で出世競争に明け暮れる人々の悩みに「共感」できないし、子育ての悩みにも「共感」できない。理解はできても「共感」できない。はたしてこれは普通のことなのだろうか。

気づけば夜は更けて、そうした込み入ったことを考えるには眠気が過ぎる時間になっていた。終始爽やかさとは無縁の曇天だった札幌で、自分の夏休み前半が終わろうとしていた。
「とりあえず何でもいいからまた何か書いてくれよ」とO君は言った。
「この旅が終わったら、夏休みの日記を書いてみるよ」と自分は言った。

に続く)



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