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思い出す都市計画(上)

レッチワース

計画都市と言われて真っ先に想起される都市の一つに、レッチワース(Letchworth)があります。世界最初の「田園都市」であり、創建から100余年を経過した今でも、世界中の都市が割拠する中で独自の存在感を放つ場所となっています。
1903年に建設が始まったレッチワース。そう、もともとある街ではない、自然発生的に、段階的に、宗教的に、歴史的に生まれた街ではない、ニュータウンの嚆矢でした。

パーカーとアンウィンが著したレッチワースの都市計画図

1940年頃のレッチワース

現在のレッチワース

レッチワースの地図。ロンドンから北へ60km。ちなみにレッチワースに着くまでに、ハワードが計画した都市、ハムステッドとウェルウィンを通過する

エベネザー・ハワード

レッチワースはエベネザー・ハワード(1850-1928)が著書『明日の田園都市』で提唱した構想を、バリー・パーカーレイモンド・アンウィンが具現化した都市です。

レッチワースが建設され始めた頃のイギリスと言えば、産業革命以降の都市部への人口流入が著しく、特にロンドンでは多くの深刻な都市問題が発生していました。
そんなロンドンの普通の小売業者の家(階級社会の中で言えば下のほうと言える部類)にハワードは生まれました。ロンドンの住環境は本当に悲惨なもので、それなりの資産がある富裕層は郊外へと移住してしまい、都心部に住んでいた人々は、仕事のためにそこに住まざるを得なかった、と言った方が適切なのかもしれません。

15歳で彼は独立しました。事務員として働いたり、農園を開くために友人と渡米し自由の国の風を受けたり。
まぁ、今風に言ってしまえばフリーターや起業失敗者ですが、決して楽ではない経験をした後イギリスに戻り、速記者として頭角を現します。議会・法廷記者としての仕事や、当時のロンドンの劣悪な住環境が彼の中に大きな問題意識を芽生えさせ、それが大いなる理想的な都市の追求の道へと誘い、強い原動力になりました。
レッチワースは彼の原体験とインスピレーションを基に生まれた、社会問題解決のための新都市だったのです。

数多くの名声を獲得すれど、田園都市建設においては第一線から退き、研究者でも建築家でもなく市井の中の住民の一人であり続けたこと、生涯を通じて裕福だったとは言えなくとも、私生活においては幸せな家庭を持っていたことが、より一層彼の魅力を引き立てます。

ハワードは理想主義者か

人々を土地に戻すにはどうしたらいいかという問題――あのわれらが美しき土地、空の天蓋、そこに吹き寄せる大気、それを暖める太陽、それを濡らす雨露――まさしく人類に対する神の愛を体現したもの――こそが、まさにマスターキーなのである。なぜならそれは、ほんのすこししか開いていないときであっても、不摂生や過剰な労働、いたたまれぬ不安、どん底の貧困といった問題に、光を大量に投げかける戸口への鍵と見なせるからだ。そして政府介入の真の限界、さらにはさよう、人間と至高の力との関わりといった問題に対する鍵にすらなりうる。『新訳 明日の田園都市』より

「それ(新都市)は、思慮深い人々によって、社会学や心理学、経済学、衛生学、物理学、造園学などの様々な科学を用いて建設されなくてはならない。そしてそうなれば、我々の誰しもが持つ、誠実で利益を度外視した性質に訴えかけることができるのである。」(The Master Keyと題されたダイアグラムの注釈より)

彼はよくユートピアンだと批判されることがあります。しかし、それは誤解に基づく批判であると思うのです。結果論で言えば、まぎれもなく、彼は3つの革新的な都市を作ってしまったという事実そのものがこれを否定し得ますし、また、彼の思想としても、その著書の中では紙面の殆どを都市の形態ではなく有機性(財務や組織運営、土地の調達方法)に割いており、実に堅実かつ現実的に都市をつくろうとしていたことが伺えるからです。

また、田園都市は今日的には「地価が暴騰し住む人がいなくなってしまう」、「高齢化により人のいない寂しい街になった」というような評価もなされていたりします。これについても、彼自身が作った田園都市の土地は、すべて一協会・一財団が管理し、居住者は借地権を持って住まうという方法により、ごく普通の人々が住める場所にしましたし、計画都市内に産業機構を配置し、職住近接を実現していたことからも、上述の批判が彼の理念や実績に向けられたものではなく、その理念を模しきれなかった別の街に向けられたものであると思われるのです。

マスターキーのダイアグラムでは、子女老人に配慮した協同社会の実現と、土地住宅等社会問題の解決を目指すことを原動力(The Lever)とし、これに倫理学、経済学、物理学、建築学、造園学などの科学を応用し(The Barrel)、自然や社会を愛する都市と農村の結婚が実現(The Wards)されるとあるように、ハワードは自身の能力を過信するようなことはなく、むしろ他人や科学の力を信じてボランタリーな都市を目指していたはずです。

彼はエドワード・ベラミーの小説『顧みれば』の影響を受け、社会主義的ユートピアを作ろうとしたという言もあります。しかし、彼自身は農業分野での起業で一度失敗し、一方で、速記者として活躍していたときは議会政治の緩慢で煮え切らない動きにも直接触れているわけですから、現実を俯瞰する力に長け、常に最適解を求めていたのではないかと思うのです。
ただ、技術者でもあった彼は、先端科学には大いなる期待を寄せていたようですが(笑)。

田園都市とは

さて、彼の言う田園都市とはどのような都市なのか。原語では”The Garden City”と言いますが、そのコンセプトは。
詳しく見ていきたいと思いますが、長くなってお疲れかと思いますので、原著の有名なダイアグラムを紹介し、説明は次回に回したいと思います。予習は不要です。

3つの磁石

ガーデンシティ

ガーデンシティの街路と中心部

スラムと煤煙のない都市群

参考文献

 エベネザー・ハワード著、山形浩生訳(2016)『新訳 明日の田園都市』鹿島出版会
 越沢明(2004)『都市をつくった巨匠たち―シティプランナーの横顔』ぎょうせい
 ジョナサン・バーネット(2000)『都市デザイン―野望と誤算』鹿島出版会

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