あいまいな自分も大切にしたい

※こちらは、以前はてなブログに掲載したものをリライトした記事です



先日、たまたまバーで隣に座った年配の男性と、「ジェンダー」について語り合いました。


その方曰く、

日本で「ジェンダー」を振りかざす人間は、まったく世間のことが分かっていない。

 確かに、国内の企業における女性役員の比率が、先進諸国の平均よりも低いという事実はある。

 しかし、日本の学校教育において「女だから」という理由で虐げられた人が、どれだけいるか。ゼロに近いだろう。

とのこと。

 


これは、男側の勝手な解釈かもしれませんが、確かに、身近で男女格差を実感したことは、あまりありません。

高校入試、大学受験、就職活動、昇進のどれを思い出しても、「男女平等」は実現されていたように思えます。

 


もちろん重労働や、危険が伴う仕事においては、男性が優遇されるでしょう。

反対に、化粧品やアパレル業界には、女性が求められるはずです。

 

なぜならば、それが合理的であるから。
筋力のある男性が重労働を行い、化粧をする習慣のある女性が化粧品を扱うのは、社会として理に適っているから。


よもや、そこに「ジェンダー」を持ち込む人はいないはず。

 


更にその方は、このように続けました。

インドに生きる女性が、どんな扱いを受けているかを知っているか。

ヒンドゥー教において女性は「男性よりも下、男性を惑わして社会をダメにする物である」と定義されているんだ。


 

正直、これが100%事実かどうかは分かりません。

たしかに、イスラームにおいても「美しい髪や身体の曲線が男を惑わすため、女性はヒジャブによって、それを覆い隠さなければいけない」という考えもあるため、あながち間違いでは無いでしょう。


 

「女性はレイプされても仕方がない」という世界があることを知ってもなお、日本に男女格差が存在すると、声高に主張出来るのか。

インドに生きる女性に比べたら、日本の女性はどれだけ恵まれているか。
それを知らない人間が「ジェンダー」を振りかざしているんだ。

 

 

この時、私の頭には、いくつかの考えが浮かびました。


日本には、本当に男女格差は存在しないのか?


「男女格差なんて無い」と思い込みたい男性側が作り上げた、虚構なのではないか?


たしかに、女性の平均年収が男性に比べて低い、という統計もある。

だがそれは、インドのような厳然たる「男女格差」のせいでは無く、単に日本の女性が、年収の高い仕事を求めなかった結果に過ぎないのではないか?


 

残念ながら、今の自分には事実を検証する力が無く、全ては憶測でしかありません。

 

だからこそ、


男女格差は、ある。

男女格差は、ない。

どちらも正しく、どちらも間違っている。


で良いのではないか。

なぜそこで断言する必要があるのだろうか、と思ってしまうんです。

 


欧米の思想が入ってきた結果、日本でも、白黒ハッキリ付けたがる人が増えたように感じます。

確かに、善悪二元論的思考は、ある場面では絶大な力を発揮します。

殊、ビジネスにおいては「断言すること」が肝であり、曖昧な答えは許されないことが、ほとんどです。

 


けれども、今回の話に限っては「断言すること」に、どれ程の意味があるのでしょうか。

 

男女格差はあるかもしれないし、無いかもしれない。

けど、もしもどこかにあるのならば、それが無くなるように、皆で協力していこう。


という姿勢で、良いのではないでしょうか。

 

 

そして、もう1つ大事なこと。
それは、「ローカル」で生きる人々にとって「グローバル」は重大な関心事では無い、どころか全く関係が無いという事実も理解しておかなければいけない、ということです。

 

たまに聞く「君の悩みなんて、アフリカに生きる人にとっては、ちっぽけなことさ。」といった励ましの言葉が、全くもって効果的でないのと同じように、「インドの女性が虐げられている」という事実は、日本国内で生活する多くの女性にとって、なんら関係はありません。

 

なぜなら、グローバル化が進んだとは言え、大半の人は今まで通りローカルな日常を生き、ちっぽけなことに一喜一憂するからです。


トランプ氏の大統領就任や、Brexit、ヨーロッパ諸国におけるポピュリズムの台頭などは、まさに「ローカル」で生きる人たちの考えが形となった結果でした。

 

そこを理解せずに「世界的には○○だから、あなたもそれに従いなさい」と言ってしまうのは、それこそ、あまりにも世間を知らなさ過ぎる気がしてなりません。

  


インターネットが成熟した結果、グローバル化は加速しました。
不正や過ちは、たちまち明るみに出て、白黒ハッキリ付けられる社会にもなりました。
そういった意味で、インターネットがもたらした恩恵は、計り知れません。

 

しかし一方で、加速するグローバル化に追い付けていない社会があることも事実です。

 

白黒ハッキリ付けられるのは、確かに気持ちが良いです。

最近は特に「炎上覚悟」で発言することが、一種の「スター性」すら帯びています。


けど実際は、そんな簡単に白黒付けられる問題ばかりではありません。



「ロヒンギャ問題」は結局、どちらが正しいのか。

「森友学園問題」は、いつまで議論し、どう着地させるべきなのか。

「ボコ・ハラム」自身が悪なのか、それとも、彼らを生み出した環境こそが悪なのか。



「ああでもない、こうでもない」と、慎重に言葉を選びながら議論していくべきグレーな事案が、世界にはまだまだ数多く残っています。

そこを間違えてしまうと、議論の目的が「相手を打ち負かすこと」になってしまわないでしょうか。


「60億の人間がいれば、60億通りの考えがある」という、当たり前な事実を忘れずに、丁寧な議論をして行かなければいけないと思います。

 


そして、最後にもう1つ付け加えておかなければいけない、大事なことがあります。

それは、「今回お話しさせてもらった方の意見に100%賛同は出来ないけど、意見が異なるからと言って、その人の人格までも否定するつもりは一切無い」ということです。

 

とかく日本人は、意見が異なるだけで相手の人格まで否定してしまいがちですが、そのせいで前向きな議論が育ちにくくなっている、ということに気が付かなくてはいけません。

 

先述した通り、「60億の人間がいれば、60億通りの意見があって然るべき」なんです。
このような考え方に関しては、日本はもう少しグローバルスタンダードに近付いていかなければいけないでしょう。

 


これからは「多様性」が、より求められる社会になっていきます。

そこで自分の意見を聞いてもらいたいのであれば、まずは自分と異なる意見をしっかりと受け入れる姿勢が大事になってきます。

どんな人でも、頭ごなしに否定されるのは、気分の良いものではないですから。


夏目漱石も『私の個人主義』の中で、同様のことを述べています。


第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。



「態度を曖昧にしておく」というのは、ある意味ではずる賢い考え方かもしれませんが、断言することで新たな敵を作ってしまうくらいであれば、ぼくは曖昧な自分を大切にしていきたいと思っています。




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