本を売りに行く

 「この本を貰って欲しいんだ」
樺沢が指し示したのは、古びた、しかし美しい文学全集だ。それも一冊ではない。書籍の一冊一冊がかなり分厚いし、それぞれがみな函に入っている。タイトルは箔押しされていた。素人目にも結構いい装幀なのが分かる。だがいい装幀であるとは言え、惜しいことに、湿気にでもやられたのか、少し函が変色して、格好が悪くなっているものもあった。これらの文学全集は揃って購入され、仕舞われていたものらしい。函には著者の名前と共に番号が振られている。樺沢と石島は、樺沢の家の和室で、文学全集を挟んで向き合っていた。
 石島は文学全集と、全集を挟んで座る樺沢とを見比べた。彼は、暢気な口調で「文学全集を貰え」と言う樺沢の正気を疑っている。貰えという本が、使い古した旅行のガイドか、漫画の単行本だったなら、石島もまともに対応できただろう。「そうかそうか、貰おうか」「いやいや家に置き場がないから」と、即座の判断をしたに違いない。だが文学全集の一式は話が別だ。
 石島は樺沢の幼なじみだ。今でこそ遠く離れて暮らしていたが、高校までは同じ学校だった。石島は本読みで、樺沢はスポーツ好きと、趣味は違っていたが、今でもそれなりに仲の良い友人だ。
 樺沢が石島を呼び出したのは、石島が休暇で帰省していた時だった。急にかかってきた電話に石島が出るやいなや、樺沢は電話口で、
「石島、本を貰ってくれないか?」
と暢気に言った。石島は樺沢の言葉に首を傾げた。
「一体何だね急に……」
石島は樺沢の意外な依頼に、そう返さざるを得なかった。何しろ、学校の授業以外で樺沢が本を読むところを、石島が見たことはなかったのだから。
 聞けば、樺沢の家では自宅の改装が持ち上がり、これを機会に整理に励んでいたところ、押入から大量に本が出てきた。興味のある本があれば石島に譲るから、貰いに来てくれと言う。石島も目に付く小説や漫画は読み飽きていた頃だし、新しく読めるものがあるなら、と樺沢の家を訪ねたのだ。だがさすがの石島も、サッカー好きの友人の家から文学全集を発見することになろうとは思いもしなかった。
 石島は低い声で樺沢に訊ねた。
「こんなのどこから出てきた?」
「先月死んだじいさんの使ってた押入の中から」
深刻な石島に対して、樺沢は随分とあっけらかんとした声で、自分達の横にある部屋へ続く襖を指した。
 樺沢の祖父は、働き者の勉強家だった。樺沢が働き出す頃は介護を必要とせず、未だ健在だった祖母とゆったりと過ごしていた。今回発見された文学全集は、樺沢の祖父が元気だった頃に購入され、読まれていたものだと思われる。しかし、もう老いた身体に文章の細かい文字は辛かったらしい。祖母が亡くなったのをきっかけに認知症に罹ってしまったのもあり、読まれることはないまま、愛蔵されていたのだろう。
「遺書に蔵書をどうしろとか、書いていなかったのか?」
石島は樺沢に訊ねた。
「書いていなかったらしい。俺は直接関わってないから詳しくは知らないが、金銭の問題は、じいさんが亡くなった後に解決させたらしいし。譲るとかの話も済んでいたと思う」
「発見されないまま、放置されていたというわけか……」
石島はふと浮かんだ考えを樺沢に言った。
「これも家族や親戚で読めばいいじゃないか」
彼の言葉に、樺沢は苦しそうに唸る。
「俺もそうできれば一番いいと思うんだが、親父もお袋も、もちろん俺も小説は読まないんだ。親戚に中学生で小説を読む子がいるから、その子に譲ろうとも思ったんだが、その彼も文学には興味がないらしくて。それで俺が、『小説が好きな友達がいるから、そいつに譲る』ってことになったんだ」
 石島は文学全集を一冊手に取り、中の本を検分するように読み始めた。本の内容は、確かに石島の目にも古めかしく、堅苦しいように思われた。全集の著者の名前を見る限り、国語の教科書にもそれなりに散見されるものも多く見られる。
 本をめくりながら、石島は言った。
「でも困ったな……こんな分厚い本を置ける場所が、俺んちにはない」
「読み終わった本を売ればいいじゃないか」
樺沢の言い分に、石島が答える。
「それはできない! 読み終わった本も後で読み返すから」
「そうか、残念だな……」
石島のきっぱりとした言葉に樺沢はそう呟くと、決心を固めたように手を打ち合わせた。
「じゃあ、これは売る」
樺沢の口から飛び出た言葉に、石島はまた我が耳を疑うことになった。石島が聞き返すと、樺沢は首肯しながら言う。
「お前が貰わなかった時は、これは売るようにって親父にも言われているんだ。もう置くところもないし」
「売るって、どこに?」
石島の問いに、樺沢は答える。
「国道沿いの古本屋に」
「やめておけよ。これならもっと売るところがあるだろ」
「どこに」
と訊かれ、石島は県都の方角を指差して言った。
「東京の神田にあるような古書店だよ。大学の近くにあったと思う。そこならもっと高く買い取って貰えるだろう」
「心遣いはありがたいが……俺はそれがどこか分からないし、ここから遠いんだろ? 持っていく手間がかかるし。売るには変わりないんだから、古本屋でいいよ」
樺沢の言葉に、石島は眉を曇らせる。
「でもさあ……文学全集だぜ?」
「じゃあお前が引き取ればいいだろ」
「それは……」
石島は口を開けたまま、何を言えばいいか分からないようだ。樺沢は文学全集をダンボール箱に詰めながら言った。
「俺にはこの文学全集の価値も、じいさんが文学全集を買った意味も分からないよ。でもきっと、これを売りに出せば、これの価値を分かる人が買い取って大事にしてくれるよ」
「あそこの古本屋がこれの価値を分かっているとは、俺には思えないな」
石島の言い放った言葉に、樺沢が返す。
「古本の価値が分からなきゃ古本屋はできないだろうから、大丈夫じゃないかな」
 樺沢は文学全集を詰めた箱を抱くようにして持つと、自家用車に積み込みに自宅を出た。その背中を睨めつけながら、石島は出されていた茶を飲み下す。
 ふと、石島は自分の横に目をやった。もう一つある和室へと続く襖だ。それをぼうっと眺めていると、襖を透かして向こうの和室が見えた気がした。陽の光も差さない暗い部屋の中、座卓の上にある電灯だけで本を読む老人がいる。老人が持っている本は、確かに今、樺沢が自家用車に持っていった文学全集のうちの一冊だ。老人は視線を文面の隅まで動かしていくと、ページを一枚めくった。ぺらり、という幻にしては生々しい音がする。石島はその音に弾かれるように、慌てて樺沢を追いかけた。
 樺沢は今に自動車を出すところだった。追いついた石島はゆったりと動き出そうとしていた樺沢の車に駆け寄る。樺沢はそれに気付くと車を停め、運転席の窓を開けた。石島が言う。
「売りに行くなら連れて行ってくれ。付き合うから」
「付いて来るのか?」
「ああ」
石島の言葉に、樺沢は暢気に首肯した。
「まあ、客を一人で置いて行くのもアレだしな」

   *

 「お客様にお持ち頂いた書籍なのですが、査定額は以下のようになりました」
そう店員に示された値段を見て、石島は査定表を凝視した。それは石島が予想していたよりも遙かに安い金額だった。
 ふと隣に控える樺沢を見る。樺沢は店員に示された金額をぼんやり眺めていた。何の感慨も感じていない、死んだ魚のような目で見つめている。
 石島はカウンターに載っている文学全集に目をやった。だが、持ってきた文学全集がこんなにも安く買い叩かれるとは、思いもしなかった。これでも文学全集だ。一冊一冊がかなり分厚いし、それぞれがみな函にも入っていた。タイトルが箔押しされているし、結構いい装幀だと思う。そんな本なのに、付けられる値段がこんなに安くて良いものだろうか? 
 石島が目を表に戻すと、店員が続けて問いかけてきた。
「この査定額での買い取りでよろしかったでしょうか?」
「うーん……」
樺沢が唸る。その横で、石島は、店員に値段をふっかけることができるほど、古書についての値段の知識は多くないのに気が付いた。だが古い書籍だったからこそ、安い値段にされたのだと察せられた。いい装幀であるとは言え、湿気にでもやられたのか、少し函が変色して、格好が悪くなっているものもある。だからこそ、見て呉れが新品同様で、綺麗なカバーのものに高い値段が付いていることに説得力があった。
 結局樺沢は、ぼんやりしたままの様子で首を縦に振った。
「はい。大丈夫です」
「ご成約、ありがとうございます」
店員の愛想笑いが、今の石島には、文学全集の査定額同様に安いものに思われた。
 樺沢は文学全集を売った代金を受け取ると、古書を入れていたダンボール箱を畳み始めた。石島はふらふらとCDの棚へ歩み寄る。彼は手頃な高さの棚に仕舞われていた女性アイドルのアルバムCDを取った。CDジャケットではアイドルがこちらに満面の笑みを送っている。しかし今の石島には、アイドルの笑みが先程の店員の安っぽい笑顔とそっくりに見えた。振り向くと、ダンボール箱を持った樺沢が立っている。
「終わったから帰ろう」
樺沢が言う。
「分かった」
石島はそれ以上、何も言わなかった。棚にCDを戻すと、樺沢に黙って付いて行く。
 途中、また樺沢と石島は、また買い取りカウンターの近くを通った。次の客と店員が、大量に並べられた古い少女漫画達を挟んで話し合っている。店員が軽く頭を下げながら言う。
「申し訳ありませんが、今回お持ち頂いた書籍には値段が付けられず、買い取りができません。もしよろしければ、こちらで処分をすることはできますが……」
「ええっ……」
 客の落胆の声を聞いて、石島は思わず、先程の文学全集が買い取られず、処分されるところを想像した。先程の文学全集も、ぎりぎり値段が付いただけで、もしかしたら売れなかったかもしれない。辛うじて価値の分かる人間の手に渡ることもなく、処分されていたかもしれない。あの書籍が処分されても良かったのだろうか。やはり自分が譲り受ければ良かったのではないか。
 石島はその考えを振り払うように、店の自動ドアをくぐった。ともあれ、古書は売れたのだ。今はそれでいいのだ。

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