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プライド・パレード――規範による自己決定から理想による自己決定へ

プライド・パレードに参加したらBuzzfeedにすごく良い写真が載った。
過去最大6000人のパレード。フロートからはいい感じのEDMがかかっていて、さながら車道で踊れる渋谷フェスという楽しさだ。国籍もジェンダーアイデンティティも性的指向も関係なく、沿道に手を振りながらみんなで歩いた。
 
ニュースでは「同性愛や性同一性障害など、性的少数者への理解を訴えたパレード」という取り上げられ方をされるけど、それは一面でしかない。僕の認識は少し違う。
 
少しユニークな言い方をすれば、これは「○○らしく」という呪いを解くための儀礼、田植えの時期に行われる豊作祈願のお祭りのような、すべての人のためのフェスティバル(祭礼)だった。
 
「男性らしく」「女性らしく」「異性愛者らしく」という規範に疑問を投げかけるという意味では、「性的少数者への理解を訴えたパレード」というのは正しい。でもプライド・パレードは、そういったジェンダーやセクシャリティの問題を超えた、より大きな救いをもたらしうるものだと思う。
 
結論から言うと、プライド・パレードは、「規範によってではなく、理想によって自己決定できる社会にしよう」という祈りの場だった。詳しく説明させてほしい。

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「女性らしく」「お兄ちゃんらしく」「会社員らしく」「母親らしく」「アラサーらしく」という言葉に宿っているのは、「普通○○はこう振る舞う」という規範だ。僕たちはその規範にそって振る舞うことで、「○○らしさ」を内面化していっている。その規範が、自分の感性や身体性に一致していればおおむね問題はない。
 
やっかいなのは規範が社会の側(わたしの側ではなく)にあり、変えられないということ。自分の感性や身体性と、その規範が合わないとき、あるべき自分の姿と現実の自分のギャップに苦しむことになる。性的指向や性自認についての悩みも、規範が簡単に変わらないことに原因がある(プライド・パレードは社会全体に働きかけて、この規範を変えていこうという試みでもあった)。
 
「男性らしく」「女性らしく」にとらわれずに「自分らしく」いこう、というプラカードをよく見かけたけど、ロールモデルなしに「自分らしさ」を見つけるのは難しい。「自分らしさ」を考えるには、まず「こういう自分でありたい」という理想が必要だからだ。
 
多様な生/性のあり方を生きる人が一堂に会し、場所と時間を共有したプライド・パレードは、多くの人にとって理想の自分を考えるためのヒントをくれる場になっていた。
そこには規範に違和感を感じ、自分の生のあり方を悩む人にとって、ロールモデルとなりうる人がたくさんいた。しかもそれは、「かくあるべし」という規範を押し付ける形ではなく、「こうでも良い」という選択肢として存在しているのだ。
それぞれの人が感じている規範とのギャップが多様である以上、一つの正解を提示することはできない。ロールモデルの多様性こそ、プライド・パレードの魅力なのではないだろうか(当然だけど毎年、異性愛者も多く参加している)。
 
規範が社会の側にあるのに対して、理想はわたしの側にある。変わらない規範にそって振る舞うのではなく、選択可能な理想にそって振る舞い、それを内面化して生きていく。そういった生き方の可能性を、プライド・パレードは提示していたのではないか。
 
ジェンダーやセクシャリティの問題にかぎらず、「日本人らしく」「会社員らしく」「親らしく」という規範も同じだ。それが「普通○○はこう振る舞う」という規範としてあり、僅かにでも違和感を感じるのなら、一度、自分はどう生きたいかという理想に立ち戻って考えよう。規範と違って、理想はわたしの側にあり、いつでも修正可能なのだ。
 
プライド・パレードは、「性的少数者」という「誰か」のためのパレードではない。規範を自明視するのをやめ、それぞれが理想の生き方を考えられるような社会が実現することを祈る、私たち全員のためのフェスティバルなのだ。


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