『ズートピア』でナマケモノを笑ったあなたへ

ディズニーの『ズートピア』という映画が話題になってますね。

いろんな種の動物が、文明化して共存する社会で、ウサギちゃんとキツネくんが活躍する映画です。

そこはウサギもヒツジもキツネもライオンも、みんな仲良く共存しているユートピアかと思いきや、実際は差別と偏見に支配された僕らの現実のような世界。

それを差別のない理想の社会にすべくウサギちゃんが奮闘します。「ズートピアでは誰もが何にでもなれるの!」

ストーリーでは一貫して、肉食/草食や種の違いによるレッテルが語られます。ウサギちゃんは田舎でニンジン栽培してるのがお似合いだとバカにされ、キツネくんは一貫して「小賢しい詐欺師」だと周りの動物から差別される。(キツネに迷惑をかけられることなんてない現代社会で、キツネへの悪いイメージをディズニーが今までさんざん再生産してきたというのはここでは置いておきましょう)

お話自体はとてもおもしろくて、ディズニーアニメだからもちろんハッピーエンドなんだけど、この映画が投げかける論点はとても重い。「遺伝的性質」をめぐる偏見です。

人類学は、一昔前にさんざん人種差別をしまくったことへの反省から、今ではとても人種論に慎重です。肌の色、髪の固さ、鼻の形、どんな分類でも、遺伝子レベルで知能や性質の優劣は見られなかった。集団間の違いよりも集団内の個体差の方が大きかったわけです。

遺伝的にグループ分けをすることは、どこで分けるかが常に恣意的になってしまう。それは科学的というより、政治的なものである。その区別よって行われた不正義を思えば、人類学の反省は当然でしょう。

さて、ズートピアに話を戻すと、これはウサギちゃんとキツネくんが、肉食/草食の違いを超えてがんばる映画だから、ある意味、種による差別に反対する映画です。

でも実は映画の中では、ナマケモノがゆっくり話すことがネタにされていたり、ついつい隣の遠吠えに応えちゃうオオカミが滑稽に描かれていたり、種の特徴を差別的に笑いモノにしてもいるのです。

もし自分が映画のなかにいるキャラクターだったら、こういう種による差別的なジョークで笑っていいはずがない。実際に、登場人物たちはお互いの特徴を認め合いながら生活しています。ウサギちゃんは決して他種の特徴を笑ったりはしない。

では、ナマケモノのトロさやオオカミの癖を笑いモノにしているのは誰か。それは、製作者と観客、つまり映画の外の「人間」なんですよね。

知性を持った哺乳類が仲良く暮らす『ズートピア』の中に、同じ哺乳類である人間だけは出てきません。劇中に登場しない人間は、映画の世界をメタに見ることのできる超越者なわけです。だから私たちは、劇場でポップコーンを頬張りながらナマケモノやオオカミの個性を笑うことができる。

現実世界を見てもこれは同じです。誰かを笑いモノにするとき、人はその人を超えた超越者として振る舞っている。エスニックギャグ(アフリカ系だからダンスうまいでしょ?)も、血液型ギャグ(マイペースなB型だなぁ)も、出身地ギャグ(大阪人なのに面白く無いよねw)も、人をイジるギャグの面白さは、自分を棚に上げて超越者として振る舞うことの面白さです。

『ズートピア』は、全ての哺乳類が対等で、種による偏見や差別のない世界を描いているのに、僕たち人間が見る限りとてつもなく「(人)種差別」的映画になってしまう。そんなパラドキシカルな映画なんですね。

なんだじゃあ、僕ら観客は差別主義者でしかいられないじゃないか!と思ってしまっても大丈夫。そうならないための唯一の方法が、自分もズートピアの世界に没入して、ウサギのジュディやキツネのニックの友達になることです。劇中で「友達」という言葉が一度だけ出てきますが(僕が一番好きなシーンです)、友達になることで観客も彼らとの対等な関係を目指すことができる。

小さい頃にぬいぐるみと友達になったことがある人なら分かるはずです。今思えば、ぬいぐるみを動かしていたのは超越者たる自分なのに、そこには真の対等な関係があった。ぬいぐるみと友達になることができた。

といっても大人になるとメタにものが見えてしまって没入するのは難しいですね。『ズートピア』、夢中になって入り込む楽しさも、一歩ひいて考える楽しさも味わえるとても面白い映画です。

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須田英太郎

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