見出し画像

生い立ち(続)

5年生からの家族生活

小学校5年生になって、親父と住むことになる。
じいちゃんばあちゃんの家から5分くらいの場所に平家を買い、そこに引っ越すことになる。境界ギリギリで、寒川クラブに移動した。だけど、近所には、金城 盛秀と天願 学がいたから寂しくなかった。

そして少年野球を始めた。城西小学校はまだ、旧校舎の時で、守礼の門側が運動場。たまに、今は首里城の敷地になっている琉大グラウンドで練習があった。野球チームの名前は、城西の『J』。近隣には『弁ヶ嶽ファイターズ』や『城北バッファローズ』がいた。

親父に買ってもらった右利きのグローブと、おじさんに買ってもらった左利きのグローブを両方持っていた。
まだ、自分が何ききかわからないまま、野球チームに入った。
このチームには、学校でも仲がいい友達がたくさんいた。糸洲 直史くん。大底 功くん。特に仲が良かったのは、目取真興博くんだった。
僕は体があまり大きくなかった。目取真興博くんは、いつも堂々としていて、チームでは主将ピッチャーをしていた。

監督から背番号をもらった。番号は13番。玉拾いから初めて試合に出してもらえた。初のバッターボックス。何度か空振りして偶然バットに当たった。

夢中で3塁に向かって走った。
左人向けて走ってしまい、みんなに笑われた。目取真くんに慰められたけど、それから野球に行かなくなった。

鼓笛隊にも入った。ラッパを担当して、誰よりも大きな音で吹いた。
白いワイシャツに、黒いズボン。赤いベスト、そしてベレーボー。これを着ているだけで自分がかっこよく思えて満足だった。

コンバースに黒い半ズボンを少しぶかぶかに履いて、BBバンド。
Jの野球帽、オフシャワーのシャツ。週末は首里プールとグランドキャッスル。(グラキャンプールは、杉山清貴のオメガトライブヘビーローテーション)


だけど、僕は、イモ欽トリオが大好きだった。


やりたい放題の帰宅組小学6年生

6年生になり、そのまま帰宅組になった。休み時間には友利き○じくんと、龍潭池にいってタ○コを吸った。

家に帰ると、おニャン子クラブの番組、夕やけニャンニャンが楽しみだった。そしてリックジョンソンやデーモンブラッドショーのモトクロスビデオを見た。そして二輪車が大好きになった。

初めてモトクロスに乗ったのはこの時期。天久解放地の急斜面の登り坂や、小禄解放地のコースに、多くはないが足を運んだ。

靴にカチャっとはめて走るローラースケートでも遊んだ。それを履いて、崎山町から、赤丸宗通りの坂を、寒川町まで一気に滑り降りるのが好きだった。

親父は働いていていつも夜帰ってくる。冷蔵庫には卵と、棚にうまかっちゃんラーメンと永谷園お茶漬けの素。米があれば自分で料理したので不自由はしなかった。

じいちゃんがいないので、テレビは好きな番組を見放題だった。

だから、『毎度お騒がせします』にはまった。

ブレイクダンス

金城クラブの近くで、兼島信忠くん達と集まり、段ボールを敷いて、バックスピンの練習をした。映画ブレイクダンスが流行り、風見慎吾を見て真似して踊った。だけど、聞く音楽は洋楽が多かった。

カセットで、ジャーニーや、カルチャークラブを聞いた。家で邦楽は、アリス、谷村新司、チェッカーズ、長渕剛な度聞いていたが、おじさんの家に行ったらレコードプレーヤーがあり、はっぴいえんど、大瀧詠一、などを聞かせてもらった。

ラジオっこ

家ではいつもFM沖縄のポップンロールステーションを聞いていた。黒電話で、77-2563番を回すとリクエストにつながる。


ある日、かかりにくいリクエスト電話が突然繋がった。 お電話の向こうから、『リクエストでーす。お名前をどうぞ(FM)』と言われた。
僕は、どもりながら、『ペンネームでいいですか?』『どうぞ〜(FM)』『伊禮 武志です。。。』緊張のあまり本名を言ってしまった。

リクエストの曲は、アハーの ♪Take On Me

KENとますみのバイリンガルMC。流れてくるのは洋楽のヒットソングがメイン。Boney M - Happy Song や、Styx - Mr. Robotoなど,好きな曲がたくさんできた。

高良茂のぶっちぎりトゥナイト(ラジオ沖縄)などで、沖縄のローカルトークを聞いて、オールナイトニッポンを深夜まで聴くラジオ好きだった。


那覇ローラースケートランドへ

そして、首里から安岡線11番に乗って、那覇ローラースケートランドに通った。そこで、沖縄各地の変わり者と出会うことになる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?