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カウンセリングの話①

他の方のnoteを読んでいたら、カウンセリングの話が出てきて、「そういえばわたしもカウンセリング通ってたな」、と思い出した。

一番最初は学校で、中学3年生の時。進路指導の面談で、担任の先生と話していた。「高校に行きたくありません…」。わたしの通ったのは中高一貫校だったので、ほとんどがそのまま進学する。っちゅうかその為にみんな中学受験してこの学校に入る。附属の高校へ行かないのは、校内のお財布を窃盗してたり、病気療養で出席日数が少なかったりの自主辞退だけだった。泣きながら話すわたしに、美人現国教師だった担任の先生は、「〇〇先生のところに行ってみる?スクールカウンセラーの」え?カウンセリング?そういう話?涙も引っ込んだ。

スクールカウンセラーの先生は白髪で薄い色のスーツ、今思うとかなりパンクな思想をお持ちだったように思われる。その日以降、定期的に約2年間、カウンセリングルームに通うことになるが、お会いして1回目?か2回目くらいの時で、

「学校行きたくない?辞めちゃいなさい!」

と言われた。この時点では、わたしは「学校に行きたくない」と思ってはいたが、それが「辞めたい」だとは思ってなかった気がする。両親にもそういう風には話していなかった。スクールカウンセラーの先生は「社会の中で一番学校と似ている施設って何か知ってる?刑務所よ」と言った。わたしは色々衝撃でなんだか頭がぼんやりして、「だったら行きたくなくても仕方ないか…」と思って聞いていた。「なぜ辞めないの?」とも問われ、それは「辞めたい」決意がなかったからだが、その時は「多分、親が反対すると思う」と答えた。「じゃ〜、家出しちゃえば!」と先生はおっしゃった。そうか…そうなのか…。それから数日、家出をしたらどこで寝れば良いのか、ドラえもんに出てくる空き地に積まれた土管の中で寝るのを想像して、いや、そんな空き地も土管もねえよ…と思っていた。結局家出はしなかった。

わたしの、幼い頭で言語化仕切れない「行きたくない気持ち」が、言語化されずとも受け取ることの出来る人に会えたからか、わたしはその後もしばらく通う選択を、理性的に選ぶことができた。「ま!ここ進学校だから、あなたのような子が一定数いるのよ、当然よね!」。カウンセリングは、わたしの望む進路にはどのような選択肢があるか、学校をどの目的でどのくらい利用するか、どうやって親に納得してもらうか、の作戦会議の場だった。わたしに大学進学の希望があったのものあって、何とか高校2年までの単位を取得することにした。高校卒業に足りない単位は「地学」など3科目のみ(地学以外忘れた…家庭科と生物だったかな?)。英語なんかは英語教育に力を入れた進学校だったので、多すぎておつりがくるくらいだった。

カウンセリングの時間、カウンセラーの先生に、わたしの行きたくない気持ちの原因を説明しながら、自分で理解して行く。実際に本当にそれが自分で言語化できたのは、実は大人になってからである。それもつい最近のこと(こちらのnote)。それでも当時「〜だからわたしは学校を辞めたい」が、単なるわがままではないんだということを両親に理解して辞めさせてもらう為、拙いなりに自分の考えを理解してまとめることは必要だった。それはとても時間がかかることだったから、時間をとって聞いてくれる人が、筋道立てて話す必要のある他者が、カウンセリウングの先生が、やっぱりそこには必要だったと思う。あるいはとても効率的であったと思う。

退学の挨拶の時、高2の担任の先生は、中学の時と同じ現国の先生だった。先生は泣いておられた。「私どもの力不足で、彼女のような優秀なお嬢さんを引き留めて置けるだけの魅力が、学校にはありませんでした」と、わたしの両親に向かって頭を深々と下げた。わたしはびっくりした。担任の先生はその後、一度だけ自宅に、娘さんと遊びに来て下さった。心臓の病気で、年齢の割りにとても細くて軽い、美人の娘さんで、たくさん一緒にフィジカルな遊びを楽しんだ。先生はageteのネックレスをプレゼントして下さった。「あなたは人より1年早く卒業したようなものだから」。決してわたしの母はそういう風には思わないと分かっていたので、そう言ってくれる人が自分にいるのが有り難かった。そのネックレスはぼろぼろになるまで付けた。

のちに大学に合格した後、スクールカウンセラーの先生のところに母と挨拶へ行くと、母は「高2まで通えたんだから、何とか卒業も出来たんじゃないでしょうか」と言った。そうそう、この人の欲の形はこうなんだよな…。スクールカウンセラーの先生は「そうしたらお嬢さんは潰れてたでしょうね!現役合格なんて無理!」と、ぴしゃっとおっしゃった。

その後、わたしが個人的にカウンセリングのお世話になるのは、妹が亡くなってからになる。

3歳下の妹は、心療内科および精神科にお世話になっていたので、カウンセリング自体には、わたしはなじみがあった。ちょっとだけ勉強もした。だけどわたしは「自分が」とは思ってなかったんだよなあ。わたしは、妹が夜中に起きて、自宅の屋根から飛び降りたのを、「わたしが深夜に帰宅して、その物音で起きたのがきっかけになったのでは」と思っていた。またその帰宅の遅くなった理由が、元恋人との一泊旅行の帰りで、何一つ喧嘩はしなかったが、ひしひしと関係の終わりを感じる、うらぶれた宿の、至極うらぶれた旅でさ…。元恋人は仕事の関係の人だったので、家族にはこの日の外泊を「仕事だ」と言っていた。仕事で帰れないことは良くあった。

その後ほどなく、元恋人とは別た。そりゃそうだ。しかししばしばその負の感情と、自責の念がいっしょくたに覆いかぶさる瞬間があって、1年ほど経って、とうとうある日、母に、「あれは自分のせいだ」と言ったことがあった。「わたしが深夜に帰宅したせいだ」。

不思議なことに母は、「それ、日にち間違ってるよ。あんたが帰ってきたのは前日」。わたしの記憶とずれている。わたしは拍子抜けして、「そんなはずはないけど…」。後悔の念で錯乱しているように見えたらしいわたしに母は「大丈夫?カウンセリング受けてみたら?」と勧めた。え?そんなはずはないけど、そういう話?1年前の宿の宿泊がいつだったか、調べてはっきりさせることは可能だったろうけど、わたしはそのまま、曖昧にしておくことにした。分かったところで現実は変わんねえからよ。

父の勤め先は昔で言う四大財閥のひとつで、企業保険にカウンセリング診療が適応されており、それには家族も含まれるのであった。わたしはせんえんで、指定されたクリニックのカウンセリングを受けられることになった。「あの会社は人使いが荒いから、メンタルやられる人多いのよね〜」とは、スクールカウンセラーの先生の言。

場所は渋谷。わたしは週一で渋谷に通うことになる。


つづく。




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