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Agust D 【People Pt.2 (feat. IU)】、かなしさの味わい

愛にまつわるかなしさはずっとついて回る。一生ついて回る。

逃れられない。

求めて得られないかなしさ。得たものを失うかなしさ。与えられたものを信じられないかなしさ。

愛。人間関係。親子。恋愛。夫婦。職場。地域。

仮に全てが上手く行って、満ち足りて、何もかも満足する段階に辿り着いたとしたら、今度は最愛の人たちと死別していくターンに入る。

死ぬ時はひとりらしいね。知覚が脳に付随している以上、この体験はひとりで味わなければならない。長く生きて、気心の知れている近い人が、ひとり、またひとりと減っていく喪失感、虚無感。それを和らげるために痴呆という機能があるという説を聞いた。そうだね…。

「おのれ」という意識の手綱を、自分で掴もうとしている限り、愛にまつわるかなしさは、人は一生味わい続けなければならない。

けれど、果たしてこれは、ネガティブなことだろうか?

皆さんはこのMVを、どんな気分でご覧になっただろうか。

このMV、歌詞の内容は痛みが語られているけれど、動画の中の彼は決して寂しい人物ではない。むしろ豊かさを感じる。満たされているし、不足していない。享受している。安定している。生活の心地よさを楽しんでいる。

愛の喪失。それはただ喪失だろうか。愛にまつわるかなしさは、ただただわたしを損なうものだろうか。わたしから何かを奪い去るものだろうか。そうじゃないんじゃないか。本当は、それは、いつでも、たくさんの美しさ、たくさんの真実、グラデーションで奥深い、複雑な色で彩られていた…。豊かな情報。たくさんのわたしが気付くべき何か。わたしが、もっと深く世界と出会うための、

「愛にまつわるかなしみ」は、わたしに与えられた、わたしが味わうためのギフトなんじゃないか。

そう、このMVの主人公の暮らしのように、「愛のかなしさ」から、豊かさを受け取って、日々を味わい深く過ごすことは、わたしにも出来る。別れはただ悲しいだけだったかな。ただ傷ついただけだったかな。そこには取り替えの効かない煌めきがあったし、彩りがあった。まったく変わらず残った自分の部分があった。新しい景色を手に入れた。無理解はただ絶望しただけだったかな。それでも手放せない何かが、余分なものが取り払われて残されていた。変化は空虚を与えたかな。愛惜はわたしに思い出をくれたし、思い出は新しい生活の中で、新しい文脈の中に生かすこともできた。

それは、「今」のわたしを豊かにした。

多分、一生、終わりなく、「愛にまつわるかなしみ」をわたしは味わい続ける。この先、多分、世界はもっと深まって、わたしはもっと何か、澄んだものを得る。

わたしは、「愛のなかしさを、人生に与えられた豊かさとして味わうためには、生活空間が整っていることが、必要最低条件なのだ」と、思って、このMVを見ていた。

自分に起きていることを理解するためには、「余地」がいる。考えを展開させるためのスペースが。

何かハプニングが起こる。
出来事に対して、感情が生まれる。

わたしたちは、

それはどうして起きたか、何が起きているかを、分析して、理解する。
それから、その感情をしっかり味わう。
そして、味わった感情を手放す。

トラウマにしないために、その3つのプロセスを必要とする。

MVの中で、BTSのSUGAもとい、Agust Dもとい、ミン・ユンギの演じるAgust Dは、どの瞬間も内側になみなみと豊かな世界をたたえているように、こぼれそうなくらいにたっぷりと、抱えているように、見えた。このMVに映る空間に置かれているもの、彼が使うもの全ては、静かに彼を脇で肯定しているように見える。支えているように見える。彼の脳に余地を与えているように見える。彼が内側に持つ豊な内面が、静かに構築され、彼が体験した「かなしさ」が静かに整理され、まだこの世界に存在しない「音楽」の形に構成され直していくのを、助ける。

彼がこの先の人生で一生味わい続ける「愛のかなしさ」は、きっと彼にますます深みと色彩を与えて、彼を彼の「真実」に近づける。彼の世界を豊かにしていく。

彼は、「愛のかなしさ」に含まれる豊かさを、時間をかけて味わうことを選んだ。「愛の喪失」に含まれる豊かさを受け取ることを選んだ。

彼は、それを受け取ることのできる自分の世界を、自分の中に用意できている。

それが、わたしが、このMV中のユンギくんから感じたものだった。

「ていねいな暮らし」とか「断捨離」とかって何のためにすんの…愛のかなしさを味わうためだったか

そう、だから住空間の「心地よさ」とか、「余白(=片付いていること)」が、今現在起きている感情に、自分が飲み込まれずに、壊されてしまわずに、理解して分析するための余地を、自分に与えるためのものだったのだ、と、わたしは今、理解したのですよ。年齢が上がるにつれて、「愛のかなしさ」も複雑になっていく。自分の精神を豊かなまま生き残らせるのに、必要必至の要素だったのか。

このMVで印象的なのは、「人工物と自然」の比率、そして生活の道具の中のデザイン性だ。

どういう空間がその人にとって心地良いか。それはもちろん人それぞれ違う。わたしの場合、特に最近、部屋を片付けて掃除機をかけてからでないと、noteが書けななくなってきた。書こうとする世界が、自分のこれまでの使っている脳の部分をわずかに上回っているらしい…「部屋の乱れは心の乱れ」ではないが、これまでは集中力の問題だと思っていたけど、確かに、部屋が片付いている状態になって、始めてアクティブになる脳の部分があるのは、何となく感じる。

わたしは養老孟司さんの本が好きなんだが、たまに読み返すと同じ本を初めて読むような驚きがあって、「全然理解できてねぇんじゃん…」と思う、それによると、人類が猿人から進化する際、脳の旧皮質と呼ばれる部分はほとんど変わっていなくて、3倍くらいの容積になったのが新皮質と呼ばれる部分らしい。新皮質が、人間が他の動物との間に持っている差異、つまり社会生活で必要とされる部分を担っている。対して感情の一部は、旧皮質に属している(養老孟司著『まともバカ 目は脳の出店』)。

約10年前、自分が移住を考えている時、養老さんの本はとても自分の感じていることを理解するのに役立った。わたしは「移住」をしたかった。それは根底で感じていた「今いる、自分が育った東京で、この先長く生きていける感じがしない」の展開先だった。彼の本を通して得たことで理解しようとすると、「自分の感情を、もっと感情のまま味わうことを肯定できる世界に行きたい」。養老さん曰く、都会とは、誰かの脳が作った仕組みの中で生きることとイコールだ。建物、道路、税制、市政、勤労、全て誰かが作ったシステムに、まるっとすっぽり収まって生きている。人の脳が生み出さなかったものが自然。笑う、怒るは旧皮質に属する。「感情」は、多分「ハプニング」に近い。

その「感情」をから得ている情報が、わたしは、多分、都会で生活するには支障があるくらいには多かったのだろう。わたしは「感情」を合理化したくない。できない。この、自分の中の「自然」の割合を、実際に住む土地の自然度合いと比例させるのが丁度良いのかどうか、人里離れた山奥に住む人もいるだろう、郊外が丁度良い人もいるだろう、わたしが今住んでいるのは自然も多く、都市圏へのアクセスも、そんなには悪くない、

MVで映る海を、多島美にすると、わたしが今住んでいるところに近い感じになる。わたしにとって丁度良い割合。もちろん、こんな豪奢な邸宅に住んではいないが…。

Agust DもといユンギくんのMVで印象的だった「自然の割合」。

人の力の及ばない海、空、森。

海があると、何があるか。

海、そしてその上空。圧倒的な余白がある。これが一番都市と違う。東京にいると一番感じるのは文字情報の多さだ。コマーシャル。広告。宣伝。どちらに目を向けてもノイズが入る。この類がほとんど視界に入ってこない。そして、緑があると目が休まるのは、みなさん周知のことと思う。

わたしがMVの中で感じたもう一点は、日の光の恩恵についてだ。生活の中で、日光の動きを感じて生きること。夕暮れの光。この、強制的に、「…ま、何はともあれ、いったん終わり」という、超!強力な!強制終了!これは恩恵だと思う。わたしは、「…そうであっても、今日という日は終わった」ということを感じて生きるのは、実は、救いなのじゃないかと思っている。

彼がMV中でやっている、自分でコーヒーを淹れること。きっと新鮮な豆だろう。生活の中に絶えず新鮮なものを絶やさない循環があるだろう。朝ご飯はきっとおいしいトーストだろう。近くにあるおいしいパン屋さんへ買いに行くに違いない。野菜もフレッシュな生野菜をたくさん食べるだろう。MVで印象的だった、丁寧に構築された人工物。意図のあるデザイン。適度なアートの分量。着心地の良い、流行り廃りから離れた服装、ずっと長く愛せるもの、力を与えてくれるもの、非プラスチック、その人の暮らしが豊かになることを想定して丁寧に計算されたデザイン…

ああ。完璧です…

完璧なんですけど…。

これがAgust Dさんの今の提案ですか…?

この音楽と一緒にパッケージされたギフトですか?

「愛のかなしさ」から豊かさを味わい続けて生きる

それを可能にする「生活」部分、

つまりあなたが見つけている「着地部分」の揺らがなさですか?

実はパクチー、最近、これとまったく逆の性質のものが映された動画を見たのでした。それは日本を好きなアメリカの黒人の男の子が、他の人の動画にリアクションするというものだったのですが、その回は、アメリカの路地、普通の市街地で、ドラッグのために、あちこちでゴミだらけの路上に、人々が、何人も虚ろな状態で、知性も品位も恒常性も何もかも手放された状態でいる、というのを映したものでした。彼は、その場面が「フィラデルフィアだと思う、行ったことがある」と言っていた。NY出身の彼にとって親しく感じる隣の州の有様、そして、この光景はそれほど珍しいものではないのだと。(『【閲覧注意】日本よ、これがアメリカだ。』というタイトルの、BrooklynTokyoさんという人の動画です。うっかり見るには怖すぎる動画なので、関心のある方は検索してみて下さい。)

わたしが何を言いたいか、というと、

「愛にまつわるかなしさ」、

これは簡単に手放せるんだ…。

それを動画で目の当たりにしてしまった。

生涯これを味わい続ける苦悩から、解放される方法は、日本でこそ難しいかもしれないけど、場所が違えば、簡単に手にしてしまえるんですね…もう考えない。もう感じない。分からなくする。未来を手放す。

だからこれは、実際には選択の問題だ、ということだったんです。「愛にまつわるかなしさ」は、人生で避けられない試練、という訳ではないんです。でも、じゃあ、だったら、ドラッグに陥っている状態の人々を見て感じるのは、こうなってまで、これって、それほどまでに忌避すべきものだろうか?

음 Why so serious?
Why so serious?  Why so serious?

Agust D【People (사람)】

何でそんなに深刻ぶる…?

気楽にしてなよ…!
ただ、笑ってご飯を食べようよ…!
楽しくて良いんだよ。
愉しくていいんだよ…!
それで、十分勝ってるんだよ…!

虐待サバイバーの友人が、かつて「おかずなんか少なくてもいい、ご飯が買ってきたものでも全然構わない、ただお母さんに笑ってて欲しかった」と言った。娘が小さくて、何を食べさせれば良いか結構一生懸命だった時、この言葉はかなり刺さった。手作りの一生懸命作ったご飯よりも、それを作って食べさせる時の「お母さんの雰囲気」を子供は摂取している。それは考えてみたら当然だよな…と思うような事だった。「だから眉間にしわを寄せないで。楽しく一緒にいてあげて」。

日本とフィラデルフィアを同列に並べてものごとが理解できるのか?という問題はある。でも、日本には清貧という言葉があるね。貧しさと整っていないことは別の問題で、居住まいを正すことと、感情を整理して未来に対して岐路を通すことは、実は、通じているんじゃないか。わたしは、ユンギくんのこのMVを通して、そういう風に新しく認識した。部屋を片付ける。手をつけるなら、そこが始めなのじゃないか、と、そういう気がしたのだった。

「おのれ」という意識の手綱を、自分で掴もうとしている限り、愛にまつわるかなしさは、人は一生味わい続けなければならない。

けれど、それは言うほどネガティブじゃないし、気楽にご飯を食べて、深刻にならずに、ただ生きれば良いんじゃないか。それで十分生きてるじゃないか。それこそ、それが「生きる」じゃないか?それ以上があるって、それ以上に何が必要って、誰が言った?

楽しいことを見つけて、ささやかなものを分かち合う。その人とは、ハッピーエンドでか、バッドエンドでか、必ず別れがくる。頭の先から爪の先まで何から何まですべからく「愛」で作られてるわたしたちが、「愛」を良く知るためには、「愛の喪失」が必要だった。「愛の喪失」を、わたしたちが必要としたのだ。だから、そんなに、深刻にならなくていいんだよ、笑ってご飯をお食べよ。それで、今日を、一旦お終いにしよう。それでも、今日を終わりまで生き切ったよ。そして、明日のわたしに、白紙の明日を渡してあげよう。それで十分、「生きてる」よ。

MVの、このお家がね。これはMVのために綺麗にデザインされた空間である、ということはもちろん承知です。そりゃね。知ってるさパクチーだってもう9年田舎に住んでるからね!実際に住んだら、このお家は結構大変だ。だけど、3年前にはもう出来上がっていたというこの曲が、3年前の当時だったら、こういうMVになったかなあ…?というのがパクチーの疑問である。

ユンギくんが、美しく抑圧なく「ぱあ…!」とした笑顔をメディアにお見せ下さるようになったのは、そう遠くではない。

「これ」は、「今」の「彼」が、わたしたちにプレゼントしてくれた、新しい提案なのでは?

生活を肯定する。整える。
そして「かなしさ」を味わい続けて生きる。

IUのパレット、ユンギくんが出演した、ここで歌ったユンギくん、これ、この感じ、初めて見る…とわたしは思った。そもそもこの曲、【People Pt.2】および【People】を歌うユンギくん…これまで知っているユンギくんとは別物だ。すっかり別のステージにいるんだよ、彼は。もう「怒っていない」と彼は言った。これまでは「怒り」がベースだったと彼は言った。歌うことで、新しい彼の内面が剥き出しになっているように見えた。それは彼が根底で求めていた新しさだし、ラップとボーカルのスイッチは見た目以上に実際は複雑で、すっかり彼はマルチタスクをこなしていた。自分がデビュー期に味わった苦痛を、晴らしたいと彼は言った。わたしは聞きながら泣いた。この部分の怒りはほとんど歌詞で触れられてこなかったと思う。この怒りが、どれだけ彼にパワーを与えたろう。どれだけ彼の身体を苛んだろう。

すっかり味わい尽くして、彼は手放した。

3年前の当時だったら、こういうMVになっただろうか?

彼は…。
彼を愛する人たちにとって、
アーティストとして、
この上ない伴走者だなあ…。

彼が味わっているものを、共に深く理解したいと願う人たちにとって、まるで別の人のような彼の変化は、必ず良く影響を、与えないはずがないと思うので。

パクチー9年田舎に住んでるので、MVのようなお家が、実際には住みづらいということを、知っている。お手伝いさんでもいればいいけど、理想と現実は違う。プールにはいつでも落ち葉や、色々な生き物が溜まっちゃうだろう。デッキは虫がすぐ巣を作るだろう。夜はリビングの大きなガラスに、蛾がたくさん張り付くだろう。それを捕食するヤモリの鳴き声に驚くだろう。西日で家具も本もすぐ焼けてしまうだろう。高い天井の上の方には、1日ですぐ蜘蛛の巣が出来て、日常的に殺戮を目の当たりにするだろう。バルコニーのガラスは、台風で石粒が飛んでくれば割れてしまい、補修するのに高額費用がかかるだろう。海風と埃で、ガラスは大抵砂塗れだろう。他の家のない高台に自分の家を建て、海だけが見えるように出来たら理想だろう、だが集落を外れた場所には上下水道がない。一般市民に、超高額な、上下水道を通すだけの財力はない。

…いや、パクチーはね、つまんないことを言いたいわけじゃないんです。東京に住んでた頃なら、MVに出てくるような家は「り、理想的…!夢のよう…!」と単純に思ったと思うんですよ、むしろ現実が見える東京育ちの今の自分の進化に、驚きしかないですよ。でも、しかしそれは、メーテルリンクの「青い鳥」かもしれないですよ〜と。理想は理想であって、現実ではないことが分かる、だからこそ、日本の昔の人が「数寄屋」を作ったのは、「ううむ、すごいなあ〜…」と、今わたしは思っている次第であります。超!大金持ちが、一流を極めた人たちが、「数寄屋」を最高位の空間として作り出したことが「流石…」と唸ってしまいます。つまり、今住んでいる家を、片付けて、視界から文字を減らして、シンクの中を空けて、使わないものは捨てて、家全体の中に余白を持てば十分良いんですよ。豪邸かどうか関係ない。話はそれからだ。

必要十分な「モノ」、豊かさを感じるのに十分な、心地よさで選んだ「モノ」たちに囲まれ、

それが整えられ、
空間に余白があるのなら、

つまりあたなたの「 HOME」に、
あなたを阻害するものがないのであれば、

それは「愛のかなしさ」から、豊かさを受け取って味わい続けて生きるのに、十分なのだと思う。

ああ、そっか。
わたしは、それを目指して、
生活を整えようとしていたのか。
わざわざ故郷を捨ててまでして。

自分にとって煩わしいものを、時に疎まれ、時に恨まれながら、外して行ったのは、この先、わたしが生きている限りずっと味わい続ける「かなしさ」に、自分が壊されないまま、続けられるようにするためだったのか。わたしに渡せるように含めてくれた、この世界の色彩を、わたしがその都度味わって、自分のものにすることができるように。自分を続けて、誰かにわたしを壊される前に、わたしを終われるように。

それが、別の誰かの情緒の根幹を育てるから。
その方法で、他の誰かに愛を、渡すことができるから。

自分の基盤。
自分のベースが整うところ。
ゆらぎを鎮めるところ。

HOME。

温かい食事と、新鮮な食べ物と、余分な情報がない空間。起きるところ。帰るところ。わたしの人生にもたらされたものを、わたしが理解して、十分満足するまで味わう場所。


それでは、また。




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