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BTSの「着地」と、降りていく豊かさ

こんにちは、皆さん。程よく忙しいパクチーです。

先日の4月17日のBTS無料のオンラインコンサート「BANG BANG CON 21」は、皆さんお楽しみになったでしょうか。パクチーはがっつり仕事でした〜よ、土曜日は一番忙しい接客業だ〜よ(個人的にメールを下さった方、ありがとうございました!こんな訳でした、しゅん…)。それでも翌日、つらっつらっとtwitterでたくさんの人たちが楽しんだ風を見て、その余韻のところだけお裾分けしてもらいました、ちょっぴりほっこり。

さて。3月にBTSがバラエティーに出ていましたね(YOU QUIZ ON THE BLOCK EP.99)。SUGA氏がかつて語ったことのある「墜落は怖いけど、着地は怖くない」というテーマが再度話題になっていました。どんな国のセレブもそうかもしれませんが、韓国では歴史的に見ても、民意が翻った時の人々の扱いが極端なので、絶頂を現在進行形で更新し続ける彼らが持つ恐怖感がどういうものか、その心情たるや、パクチーが個人的に察したくとも想像しきれないわ…。そして、ああ、やめて、分かっちゃいるけど、君たちの口から「終わり」について、具体的なイメージを持たされるなんて辛いこと。

でもその気持ちに上回って感じたのは、「こんなにすてきなこの人たちは、『着地』の過程だって常に新しい別の豊かさを体験し続けるだろうし、『着地』のあとの人生だって、今は未知の素晴らしい体験をしながら生き生きと過ごすだろうな」という、一方的な安心とか信頼の気持ちだった。

ダウンシフトという言葉がある。
「老い」というものがある。
サステナブルという言葉がある。

わたしの感覚では、これらは連動し合っていて、そしてこの「老い」というものが、特に、人生、良いんだよ…!

かつてジンくんのインタビュー記事について、noteに書いたことがありました(2020.12.21『BTSジンくんのWeverse Magazineのインタビューを咀嚼する』)。ここに書いたことは、毎瞬毎瞬、インスピレーションを受けて、自分の心が指し示す方向をチョイスするということでした。わたしたちは生物として、人生のある時期にピークがあるとします。身体能力、活動量、脳の機能、生産量、市場価値、ある時点から「成長」に加えて「老い」が入ってきます。その肉体の変化を受けつつ、わたしたちがインスピレーションを持ちながら自分の人生のためにする選択の連続は、後々引きで見てみると、ある時期を境に、その様子を形容するならばそれは「着地」と言えるものになるかもしれない。けれどそこには常に、手放したものがあるならば、それと同等かそれ以上の、別の種類の豊かさが、新しく入ってくるのである。

この感覚をなんと言おうか。パクチーは82年生まれで、今月ハッピーバースデーだったので、39歳になりました。老いを語るのに早いのか、適齢なのか、それは読む人に依るでしょう。ですが実感として語らせていただけるならば、確かに減る。減ってはいるんだが、なんというんだろう、手に持ち切れないほどの豊かさが、年齢が進むのと同時にびしびし増してくるんだ〜よ〜。それは10年前とか20年前とかには、自分がそういうふうに感じることがあるとは想像もしていなかったようなタイプの感情で、生物として、肉体的に、能力的に、脳の機能的に、確実に衰えているのだけれど、それに反比例して、失われた分そこには、違うチャンネルの、違う階層の、違う種類の情報量を高密度で得るアンテナが、以前よりずっと高機能の感受性が、そこにあるのである。なぜだか知らんが。そこには安心もあり、幸せな感じもあり、他者に対して感じる信頼などもあり、自分が色彩豊かな幸福な映画の中にいるようでもあり、そして統計的に見ても、幸福度とは、年齢が進むにつれて上がるものらしい。

SUGAくんの言う、下が見えないほどの高さを飛んでいる、雲の中にいて、飛んでいる実感がない、墜落の恐怖とは、「今持っているもの全てが、前触れなく急に取り上げられるのでは」という不安、たくさんある身の回りの全てのモノ、人、ポジション、それらのどれが本質的に自分のもので、どれが離れうるものなのか、自分の輪郭をはっきり確定できない、そこにあるのに、そこにあるという実感が持てない不安感、と、説明するならばそんな感覚の状態である、とパクチーは考える。

そしてその不安は、「結局自分の本質的な持ち物とは、死んだ時にあの世に持っていけるものだけだ」ということが真から腑に落ちた時、「だから、今、与えられているものを、今、感謝して享受する」という心境に至って、解消される。つまり、実は、自分に与えられたたくさんの「モノ、人、ポジション」自体に実態があるのではなく、それらは魂に栄養を与えるためにやってきた媒体で、自分に与えられたたくさんの、モノ、人、ポジションを通して得た「感情、体験」の方こそが、その人の実質的な財産なのだ。「下が見えない飛んでいる飛行機」という同じシュチュエーションから味わう感覚を、「恐怖」から「楽しんでいいもの」に転換したのはSUGAくん自身だ。そしてその転換の過程で体験した全ての感情の方こそが、そしてこれから先彼が感じる全ての感情が、彼の本質的な持ち物なのである。

「着地」、あるいは「降りていく」という考え。

ダウンシフトとは、働き方と密接に関わりがあります。ダウンシフトとは、出世競争から距離を置き、労働時間を減らし、唯物主義から離れ、アップサイクルの都市的仕事の仕方から、消費の仕方から、別の要素を人生の喜びとして味わおうとする考え方です。

ぴちぴちのフレッシュな若い人が、東京、大阪、都会に憧れてパクチーの住んでいる島を出ていきます。棚に溢れるモノに囲まれ、物欲に塗れ、お金を使う喜びを味わい、働いた分全部消費したり、島にいては出会うのことのない、子供を騙したり、助けてくれない大人に出会ったり、どうやっても勝ち目のない優秀な人々や、逆立ちしても思いつかないような発想や生き様を目の当たりにするのを、そこで社会人として働くことを、わたしも経験したそれを、「経験する」ということを、わたしは完全に、良いと思っています。

そしてダウンシフトとは、それらとは別の価値の観点、生活の水準を下げてでも、換金不可能なものを日常で味わうことに力点を置き、その人にとってのQOL(quality of life=生活の質)を高めて人生を過ごすことを目的とします。QOLをベーシックに置いた時、働き方、つまり労働と対価は、「つじつまが合っている」ということが、そこに組み込まれるにふさわしいのではないか?と、パクチーは今そんな風に考えています。それは自分が、「循環の中にいる」「サイクルの中に入っている」という感覚と近い。

ステイホームで人々の働き方がドラスティックに変わることを余儀なくされた時、BTSの、どこにも悪意ある瞬間のない、辛そうな顔をする者のない、誰のことも攻撃しない言葉で歌われる「Dynamite」という楽曲とMVが、一部の人々の心を打ちました。人々が感じたかったのはエネルギーだったのじゃないか。ステイホーム下で人々が物理的に距離を置いたことで、わたしたちは一生懸命にやった自分の仕事の成果がその先誰にどう影響したのか、具体的に感じることができにくくなってしまった。自分が支払った対価に、相手がどう影響されたのか感じにくくなってしまった。一時的と皆が思っていたステイホームが想定していた以上に長く続く中で、最も枯れてしまった部分は、生身の人間が発するエネルギーと、それを受けて心が満ちることで得る達成感や人生の充足感だったのではないか。わたしたちは普段、仕事を通してそれをよく感じることができる。それを感じにくい仕事を続ける時、モノ・サービスを買って、つまりモノ・サービスを通して満足や充足感という「エネルギー」を買って、無意識にでもつじつまが合うようにしている。

つじつまが合っている。自分の働いた仕事の結果が目に見えている。自分の支払った対価の行く末が目に見えている。入力と出力が合っている。

自分が作ったものを、目を見て相手に手渡し、対価を受け取り、それがどうであったか反応を得る。我が家では、そうして得た収入で、ご飯を食べ、髪を切り、家賃を払い、こどものおもちゃを買う。島で暮らし、島にいる人の労働に対して対価を支払う。支払ったお金は、そこのお店の従業員のお給料になるかもしれない。あるいはそのお家の子の新しい洋服代になるかもしれない。うちの子をよく面倒見てくれたあのお家のお姉ちゃんの。そう想像できることに対価を支払うのは、とても気持ちの良いことなのである。

労働と対価。エネルギーとエネルギー。つじつまの合っている心地良さ。サイクルの一部に自分が入っていて、自分が循環の中にいると感じられること。この循環が続いていきそうなビジョンが持てること。それがつまり、持続可能=サステナブルということです。

ある時、中学生のパクチーが東京タワーに登ったことがありました。眼下は見渡す限り一面、コンクリートの海でした。関東平野は日本の国土でも有数の、真っ平らな大地が延々続く稀有な土地です。その全てに、日本アルプスのキワキワまで、ちょっとのゆとりもなく人の入った建造物があるのが見えました。「もし関東大震災が来てインフラが止まったら、一週間くらいで地面は人々の排泄物で埋め尽くされるのではないか」というのが、最初に思ったことでした。そして、「数日で都内の水と食糧は尽きて、奪い合いになるだろう。都市の人は持っているものを分け合えるほど成熟していない」というのが次に感じたことでした。眼下の都市が、様々な条件の下で一時的に成立する状態であって持続可能なものではないということを、当時のわたしは「もしそんな時に自分が乳飲み子を抱えてたら、自分も子供も、とても精神の健康を保つ自信がないなあ」という言葉で感じていた。「ここでは、わたしは自分の子孫を健全に残していけない」。パクチーは東京に育ち、両親は今も東京に住んでいます。サステナブルとは道義的な意味でなく、この言葉を主体的に使用するわたし以外の人にとってもおそらく、生理的な、個人的な、肉体的な言葉なのである。

「サステナブル」や、「エシカル」、「コンフリクトフリー」という言葉がファッション紙でもカジュアルに散見されるようになって、そのこと自体をとても良いと思う。でもこれらの言葉がアクセサリーのように付加価値として有用だと感じる人がいることとは別に、サイクルに入った暮らし、例えば有事に遭っても、土地の恵みと、人々の譲り合う心と知恵で、自分の健全は保てそうだ!と、気楽に、心地よく思えている状態、不安から自由になれる土地の一員として暮らすことに価値を感じたわたしのような者からすると、「エシカル(適切な倫理感に基づく労働、環境開発)」も、「コンフリクトフリー(鉱物の武装集団による採掘、紛争・暴力行為の資金となっていないことが明らかなもの)」も、サイクルの中に入っていることを示す言葉であるからこそ、気楽に、心地よく、自然だと感じる。「これはしわよせの行った誰かに、恒常的には耐えられない苦痛な思いをさせて作られたものではない、そこで働く人の命が、環境が、持続可能なやり方で作られた」。つじつまが合っている。そこで働く人が差し出したものに対して、対価が見合っている。環境に与えた負荷に対して、再生速度が追いついている。ちゃんと循環が続いていけるという感覚が与えるのは、腹の下の方で感じる、体が感じている心地良さなのである。

繰り返されるエネルギーの循環は、サイクルを描いている、描いているんだけれども何ひとつ同じものは繰り返されない。自然の複雑さ、地球というシステムの緻密さ、自分が歳をとる分、サイクルから感じられる情報は年々豊かになっていく。今も目の前にあって気付いていないものがたくさんある。不安から自由になれる土地にたどり着いて、そこで暮らせる安心感、循環の中に加われたことの安心感、その暮らしは資本主義の価値観で言えば生活水準が下がったと言えるかもしれない。でも長く大切にできる物、質の良い物、サイクルから外れていない物、エネルギーに満ちた物に日常囲まれて暮らしているという実感は、今わたしに十分に豊かさをもたらしてくれている。正しく古びたものは常に新しい、芸術や質の良い物に価値があるのは、経年で見る目が変わることで、常に新たな良さを見つけ続けることができるからだ。ジンくんとSUGAくんが、冒頭紹介したバラエティ番組中で伝統的な家屋について「こういうところに住んでみたいね」と言っていた、そこには質の高い木材と高い技術で作られた、古びない豊かさがある。そこにいて感じるのが何かといえば、QOL、時間の質である。

人生は生きた分、新しい豊かさがいつもあり続けるものだし、その豊かさは広がっていく限りのないもので、決して減らない。それまで味わった全ての過程があなたに内包されている、その状態のあなたが、それを知ることを可能にする。

それがわたしの感じる「老い」だ。

歳をとるということが、どんな感じがすることか、知っている範囲で若い人たちに伝えるというのは、年長者ができる数少ないことのいくつかかな、と思っています。わたしにとってBTSは、およそ彼らに語れないものはないと感じる、高次に成長した青年集団でありますが、そしてその鍛えられ方はまるで修行僧のようだね。他者から見える見た目と、内面とを同時にレベルアップしなければならないのは、修行としては一番難易度が高いものだと思うけれど、その分成長も早く、学びも深いのであろう。とはいえ彼らにも(その職業の性質上)語れないものがある。お金のこととか。性愛とかね。

でもいつもでベースに愛と尊重があれば、どんな未知の体験も素晴らしい経験として蓄積していく、「お金」のことにしても「性愛」のことにしても。大抵の経験は「愛」と「尊重」を学ぶためのものだけど、すでに「愛」と「尊重」を持っている人なら、全ての体験はそこから先の知見を得る素晴らしいものになるでしょう。抑圧を外して、剥き出しの魂で他者と、世界と触れるなら、魂は磨かれる一方だし、知り得る世界は果てがない。

「老い」た彼らの語るものが、どれだけ豊かなものだろう。約束された楽しみ!ってくらい。と同時に、彼らもわたしたちに平等に訪れる老いを、時間を、気楽さを、楽しんで、味わって欲しいなと思う。




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