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星と星の間

こんにちは!パクチーです。今日は日記です。

akkiy☆さんが、最近ホロースコープを特集しているのを見て、先日、自分のホロスコープについて、ネットで一生懸命探求してみました。ホロスコープ、本当に!まっ!た!く!自分と縁がないと思っていた。だってあの図形が、あまりに難しそうすぎて…!何かが理解できるような気が、さっぱりしなくて…!

けれどもakkiy☆さんが、何やらあのメモリのついた丸や、三角や、から、めらめらとイメージを獲得されているのを、note越しに見ていたら段々…、「え…ここに、そんなことが描かれてあるの…?」と気になり始めて…、

ついに関心が、マックス沸騰した先日の朝。

自分のホロスコープを見たら、正しく読めているのか分からないんだが、結局、わたしがいつもnoteに書いているようなことが、そっくり、そ!の!ま!ま!ホロスコープに書かれていた。…そのことで逆に、「わたしはこういうテーマを、こういう風にアプローチしているけど、みんなは違うってことか…」と、孤独を感じるくらいにして。いや。しかし、すごいんだなあ、ホロスコープ…自分で決めてたのかなあ。決めてたんだろうなあ。でも若い頃に言われてもまったくピンと来なかっただろうなあ。今自分がテーマに持っているようなものって(つまりホロスコープに書いてあったことって)、若い時は、全く関心なかった気がする。

だもので…よくここまでたどり着いたね…お疲れさま…良かった…良くやったよ…。と、なんか…、丸の中に書かれた三角の直角たちを見ながら…すごく…ねぎらいの気持ちに。まだまだ課題あるね…前途、眼前、壁、の気持ちに。

ところで。

ここ数日は、ピアノを結構熱心にやっています。

今は、Agust D(SUGA)さんの【AMYGDALA】のピアノアレンジを仕上げている途中で、初めはまっ!た!く!歯が立たないと思った。しかしやり始めたら、意外に、どこからか「どうにかピアノ曲にしてやる…!」と謎の対抗心(?)が立ち上がってきたのでした。日々楽しくやっています。「これ、この曲、歌が無くなっちゃったら、意味ないじゃん…」という気持ちを重々感じながら、その先の、「ピアノ曲として弾いた時に、何だか弾いてて快感がある」、というところまで、わたし行きたいの。

しかし、やり始めの初日、むちゃくちゃ体調崩したんですよ、わたし。

【AMYGDALA】をスピーカーで聴いている最中、全くすっかり忘れていた…まあ…しんどい思い出の類の…その瞬間の会話、15年くらい前の、を一言一句思い出していた。

悲しくはない。
空虚な感じ…。
あ。わたし泣いてる…。

いや…SUGAくん…
わたし、これ、
全然、思い出さなくて良かったんだけど…

その翌日。そろそろ寝ようかなという頃、全身筋肉痛みたいな、だんだんと関節痛のようなものに見舞われ始め、布団に入る頃にはさらに痛みが増して、何度も痛くて目が覚める。

翌日はふらふらで、全然手に力が入らなくて、仕事しながらほとんど貧血みたいになってて、

さらに次の日は、体の痛みは改善したものの、胃が激痛で、背中を伸ばすたびに痛みで、気を抜くと気を失いそうだった。

なんだこれ。
好転反応なのか?これ…。
トラウマを解放したことの…?

こりゃ…
生半可なことではねーわね…!

と、いうのは半分冗談なんだけど、でも本当に、体調不良になる要因に、思い当たる節がなかったのよ。だから…3分の1くらい?は精神的なものが理由なんじゃないかと疑ってるんだけど…。

あ、今はすっかり良くなりました。

SUGAくんが彼自身のトラウマをリリースする過程で、かつて投薬で凌いでいた現状を(MVより憶測)、セミナーを受けたり、カウンセリングを受けたりしながら(Wevers Liveより憶測)、少しずつ、がっつり過去と向き合って、扁桃体から、「固まった思考」を解き放していく過程で、

これって、頭の中でだけ起きてるんじゃなくて、彼が「楽になる」前段階には、こういった、身体に転化された苦痛みたいなものも、味わったかもしれない、よなー…、

だってそれくらい、体にとっては大変革が起きている。

それは絶対に良いことなんだけど。

と思ったりした。

最近、外国の方が日本について話すYouTube動画を見ることが多い。見ていると、身近なところで明らかになる、言語が持っている性格、そこから生じる国民性みたいなものが垣間見えることがある。英語が「結論」を最初に話して、あとは補足になっていく性質の言語であるのに対して、日本語は結論を最後に持ってくる。日本人が、時折質問の返答を曖昧にする時があるが、それを、とってもしやすい語順の言語なんである。

断定を避ける。

なんでかなあと思ってたんだけど。

外国の人がそういうカルチャーじゃないので、日本人の曖昧な態度にフラストレーションを感じることがあるが、動画の中で、ちゃらちゃらした若者が、ネガティブな内容の断言を、曖昧な返事で頑なに避け続けるのを見ていたら、

「これ、口に出しちゃったら取り消せないから、口に出して言葉で発音した時点で言霊が発動しちゃうから、強い言葉を極力避けてる」

と、いう、徳の高い賢い所作に、段々うっすら見えてきたのよ。気のせいだろうか。強い断定を避ける。発動してしまった言霊は、取り消せない。口から発した時点から、責任が生じてしまうから。

SNSで「強い断定」に、割合人々が、意識や感情に影響を受け入れるのを、許してしまいがちなのは、「日本語の断定」に、つまり「日本語」に、言霊、人の意識を方向づけたり、誘導したりする魔力が、実は本当に入ってるから、なんだったりして…。

SNSは、文字列に対して、身体的に感じる責任が、もう、ゼロに近く軽くて発信できちゃうね。指先しか使わない。脳の一部しか使わない。視覚しか使わない。体を動かす必要がないし、移動しなくていいし、声帯も使わないし、服もメイクもだらしなくていいし、どんなだらけた姿勢のままだっていい。発言に身体が伴わない。

こういう時、フックの効いた表現、キャッチーな鋭い言葉を、「自分の発言」として発してしまうと、つまり、それは表現に酔っている。あるいは感情に酔っている。本人に責任は負えない。…つまり、酔っ払いの発言と同じようなものか!

ネガティブとは、本来排他的な性質なので、ネガティブで他人と繋がることはできない。ネガティブは、「ある個人のエゴの発散」だ。他者を断つ。ネガティブに人を支配したり、誰かの感情を誘導したりすることは、本当は出来ない。誰かが他人のネガティブに影響されるなら、そこには「合意」が起きている、ということになる。そして、「合意」とは、ポジティブなものだ。

つまり、深層で、「一理ある」と、無意識が思っている場合に、「不快」「もやもやする」「気が塞ぐ」、など、気持ちの良くない感情が起こる。ただただ「ネガティブ」なだけだったら、「…そういう人もいるんだなあ…」で、自分とは関係のないものとして、本来は終わる。

Agust Dさんのコンサートにまつわって、ARMYさんたちがTwitter上でやりとりしている考えが、丁度、丁度、Agust Dさんの【Heaguen】が扱っているものとリンクしていることに、不思議な一致を感じていた。色々感じたり、考えたり、学んだりすることがあった。

わたしは、本当にユンギさんを愛する人が、本質的にその愛を、どうやって表現できるか、と言ったら、ユンギファンの幸せのために、どれだけその人は、発言以上に責任を持って行動したか、ということなんではないか?と思った。言葉にどんなに扇動するパワーがあって、でも実際に何か肉体を行使したか?汗をかいたか?自分の名において、何か責任を負ったか?

そう思って見回すと、世の中、ユンギファンのために汗をかいている人が、大勢いるんである。手を動かして、時間を使って。ユンギさんを好きな人たちが、幸せであったら、わたしは、ユンギさんは最も幸せな状態なんじゃないかと思った。ユンギさんに直接身体的に関わって、彼を幸せにすることの何が出来るかと言ったら、その機会と方法が極端に限られているという時、SNSは、ユンギファンの幸せに対して汗をかく、普通の、一般の、ユンギさんを愛する人たちの好意を、受け取ることのできる場所だなあ、と思う。

その人の発言には、体を張った、何か責任を負った行動が含まれているか。

それが、足りない場合、言葉は人々をかき回し、それが伴っている場合、その人の叡智は、人々に恩恵を与える。

…と、いうのが、

わたしのホロスコープに、書いてあることでありました…!

本当に。ほんと、そうよな。自分が主体的に関わらない時ほど、口先でそれっぽいことを発言してしまう、わたくし。…ごめんなさい。体、もうちょっと張ります…。責任、もうちょっと持ちます(実生活)。がんばります…。


それでは、また!




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