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12月、小春日和。

こんにちは!パクチーです。

わたし、最近、取り憑かれたように漫画を読んで、映画を見て、恋愛漫画を読んで、アニメを見て、ドラマを見て、風邪を引いて、二日酔いで、「愛」と「幸せ」について、ずっと考えていました。わたしの人生において、ずっと考えて続けている「愛」、「幸せ」、それはわたしの妹が自死してから後ずっと持ち続けてるテーマなんだけど、20年以来考え続けている考えと、最近、の、今、のわたしは、全然違う感じで「愛」と「幸せ」を捉えている。「愛」、「幸せ」、そして「お金」について。

「幸せ」。「幸せ」は、今、現存の条件下で、地に足がついていて、循環の輪に入って役割がある状態。地に足がついて…つまり持続可能な。循環の輪…つまり、気が流れている状態。役割…つまり貢献している実感、受け取るものがある実感がある状態。よくよく考えて、そこが、「わたしの幸せのゴールだなあ」と思った。それ以外の状態に、わたしの「幸せ」は、多分あり得ないみたいだ。なんだ。簡単なことだった。今日やることがある。地面に足がついている地点。ここ、に、「幸せ」がある。

わたしの自死してしまった妹は、今で言うメンヘラさんの「全部乗せ」みたいな人でした。病名は、あるにはあるが、「疑い」付きだった病名に今もわたしはピンと来てない。繊細で綺麗な詩を書き、高校で頑張ったレジ打ちのバイトで高額を貯金し、攻めたファッションにこだわりがあって、作曲が好きだった。それから、いじめ、高校中退、自傷、幻聴、妄想、狂言、徘徊、包丁を持ち出し、バイトのドタキャンを繰り返し、中絶、胃洗浄、頭蓋骨骨折、踵骨粉砕骨折。ひと通りやって、22歳他界。「ホス狂い」と呼ばれる、ホストに貢ぐ女性の中に、例えばわたしの妹が持っていた混沌と類似する奈落が見えた。一晩で30万〜1000万円を使って、それで何を得たいのか、何を得られると思っているのか、何と代えようとしているのか、考えて、それは、「『気』を集めることの出来る自分」、なのではないか、と、そういう気がした。

勿論、ホストクラブのサービスを健全に楽しまれる方は、いくらでもおられるだろう。そうじゃなくて、それが出来なくて、依存状態にあって、そのことで何とか自分を構築している、そんな人が、それは、買えるなら、一時的にでも買うことが出来るなら、何百万円使っても、どうしてもどうしても欲しいものだったのだ。生まれた赤ちゃんが、さまざまな理由で泣く。赤ちゃんは泣くことで、「気」を引いて、自分に関心を向けさせて、自分の滞っている状態を手助けしてもらって、察してもらって、ケアをしてもらって、そうやってしてもらうことが適切でなくては生き続けられない。自分に「気」が向いていない時に赤ちゃんが泣く。泣けば親に「気」を向けてもらえる。十分に「気」をもらって、そうやって安心できた、心地が良くなった、それはいつでも手に入った、その体験の繰り返しが、肉体と精神の根本の安心を生む。母子の身体の密着時間。赤ちゃんが泣いたら「気」をあげられる親密な期間、は、金額にしたら莫大な値打ちがあるんだって、こうやって見たら本当に良く分かる、だってホストにびっくりするような額を使って、本当に満たしたかった部分がそれだから。関心を得られる自分。

毎日胃が痛くて泣いて、悪夢を見て泣いて、十代は家族を憎み、二十代では母親と一緒の布団で毎日寝ていた。大人の女子が、泣いて、喚いて、自傷して、家中の食器を割って、あれは赤ちゃんが泣いているのと同じだった、相手が、自分に、全身全霊で「気」を向けてくれることを求めているのだった。とはいえ、好みもプライドも激しい、憎まれ口をたたく目の前の成人女性が、生後の赤ちゃんに2〜3年分向けることが出来る熱量と「同じ質を求めているのだ」と察することは、実に難しい。実行することも難しい。「気」とは、関心、配慮、観察、ケア、応援、手間隙を惜しまない愛情、祈りのことを指す。

そんなことを考えていたら、歌舞伎町に警察庁長官が視察に入ったそうな。ホストクラブにおいて「カケ」と呼ばれる、色々と闇の深い後払いの仕組みが、この先違法になるのでは?と言われているらしい。

ところで。『葬送のフリーレン』(アニメ・漫画)と『薬屋のひとりごと』(アニメ・漫画・小説)を観たんスよ。あと『舞妓さんちのまかないさん』(Netflixドラマ)。この主人公たち、どうも似ているなぁ…と思って…。彼女達は、今置かれている現状で、何も足りなくない。満ちている。分かりやすい上昇志向を必要としてない。つまり、「幸せ」にいるんです。『舞妓さんちのまかないさん』では、セットに昭和臭がぷんぷんするんですけど、昭和の「幸せ」が、公害とか弱者に苦痛を強いて目を瞑って乗っかって味わうようなものだったとしたら、そういう後ろ暗さが、主人公の少女にはごっそり無い。ただただ目の前にあるものに満足して満ちている…。「昭和」が満ちている画って、なんか…うわぁ…!新しい…。彼女達は、自己実現に夢を見てない。自己実現の中に「幸せ」があるのだとも思っていない。「仕事」、を、自己実現の道具にしていない。

これは、メンヘラさんに結構共通するのじゃないか?と思っているのだが、わたしの妹もそうで、「お金に対する執着」と「有名になりたい」という願望が、本音のところでは相当強かった。実はわたしも結構そうで、「自分以外の何者かにならなきゃ」という気持ちを、今まで、ずーっと持ち続けている。これって、何なんだろうなあ…。どっから来てるんだろう…と、長いこと思っていた…、ああ…、そうか…。「お金」も「有名」も、「自分に『気』が集まる」ということの象徴として欲してたんだ…。本当に、実際に欲しかったのは、「人から関心を持たれ続けている自分」、だったんじゃないだろうか。「富」とは「名声」とは。今、そんな風に感じている。「富」と「名声」、それが担保してくれるのだと思い込んだ、つまり、特別な人になるから、わたしを愛してくれよ。わたしを、大切にしてくれよ。

昔の人は正しかったんじゃないか?「仕事」は、世襲だって良かったんだよ。大学の先生が、自分のところの学生の就職先を決めた、それでも良かった。自分に合った仕事。自分にしか出来ない仕事。そんなものがどこかにあって、それを探し出して?自分にカスタマイズされた丁度良く都合の良い?世界のどこかに、たった一つ、そんなものが用意されているだろうか。それが自己実現?目の前に穴が空いてたら、皆んなが不便だから埋める。それが埋まるなら、誰がやってもおそらく良かった。それが、「仕事」の本来の意味だったんじゃなかろうか。集団避難所の生活では、子供に何もさせないよりも、何か役割を与えた方が情緒が安定すると言う。「幸せ」が、「今ある関係性の中で、自分の役割があること」によって感じられるものなら、「幸せ」は、誰にでも、本当はいつどの瞬間でも、可能なもののはずだった。いつからか、人より優秀で、人より多く収入を得て、人が羨む仕事をして、成功して、それが「幸せ」なのだと、仕事は自己実現という目的の為のツールだと、封建を未成熟なものとして封印し、個人主義がどんどん網目の狭いザルで人々を濾して、特殊な形の人しか味わえないものを、「幸せ」と呼ぶことにしてしまった。

BTSが10年の間に成してきたことはたくさんある。今、このnoteに書いているわたしの「幸せ」は、わたしが自分の人生で経験した来歴に基づいているから、他の人には全然当たらないかも知れない。わたしが妹のことを今のように振り返られるようになったのはここ数ヶ月の話で、それ以前まで、全く手がつけられるような感じがなかった。なぜか?今。自然に?人生のほぼ半分地点まできて、気付かない間に花弁が落ちて、知らないところで胚珠が膨らんで、音もなく、乾燥して、意図のないまま、意識しないまま、固く、種のように、自分から分離して、離れていきそうに。彼女が他界してから20年近く経って。今。どうして、今?

BTSのメンバー全てが兵役に行くタイミングで、それぞれのソロ作品をひとりずつ振り返ろうと思った。わたしの中で終焉を迎えようとするひとつの時代。どうして妹は死んだんだろうか。それが、手から自然に離れそうになっているのと同じタイミングだったから、ふと、思考がひっかかった。

彼らは、個人のトラウマを、手放そうとしていたじゃないか。兵役に就く前の限られた時間で、超絶に、全身で、個人が抱えるトラウマを解消しようとしていた、ソロの作品を作る事を通して。あれを作る過程は、膿を抉って、炙り出して、長期に渡って乾かすような、ひたすらえげつないプロセスが一部含まれていた…。その癒しの苦痛はなぜ必要だったか。それは、彼らが、未来で集まる新しいBTSの中に、同じトラウマを持ち込まない、ということを決意したからじゃないだろうか。

10年の活動の間、過酷さに耐えられるように精神を歪め、歪んだ精神は心を傷つける。彼らは兵役で一時的にファンの前から去らなくてはならない。そのタイミングが来る前に、10年分の歪みを、正して、心を救って…こういう風に心を撓めるやり方は、もうこの10年で終ろう、自分たちの「青春」の中に、この痛みと傷を置いて、20代を閉じよう、再び集まった時、新しいBTSが、新しい物語を、希望と共に始められるように。そういう、「もう不要だ」と判断した苦悩のメカニズムを、すっかり捨てる覚悟で取り組まれた、それぞれのソロはそういうプロジェクトになっていたんじゃないか、結果的に。

わたしのホロスコープを鑑定して下さったはるなさんが、スタエフを共有して下さっています。長い期間持っていた喪失の痛み、が、勝手に今、きゅっと固まって、わたしは手放せそうになってる、どうして?今?の答えは、これだったのだろうか。わたしが、じゃなく、BTSが、じゃなく、全体の話だったの?徹底的に奪われたもの。そしてその結果。

精神の歪み、とは、BTSのメンバーたちが特別なのではなく、普通のわたし達が皆んな、成長段階で、持たざるを得ないものだ。わたし達は生育環境に、まず家族のあり方に合うように、自分の形を、歪ませる。歪ませることで、環境に適応して生き延びる。

恋愛関係にあるパートナーって、かくも不思議よなー!!と、わたし、常々思うのですが、恋愛のパートナーって、成長段階が生じさせた歪みを、互いに、鏡合わせのように対峙、矯正する関係性にあるよな…!と。歪んだ部分は、自己愛を向けることが難しい部分だったりするわけで、それをパートナーを通してよく見るもんだから、だから恋愛って辛いわけです。精神の歪みの矯正は、その工程のしんどさゆえ、パートナーを特別な存在として愛すればこそ、やっと、何とか、モチベーションが持てる。好きで、愛おしくて、大切な人相手だから、しんどさと天秤にかけて、向き合う覚悟を固められる。ただの他人だったら向き合う前に逃げる。

BTSのメンバーたちは、特定のパートナーの代わりに、「ARMY」という集合体をパートナーに設定した。「マス」を鏡にして、そこに映されたものを通して、自分の歪みを、修正して行く。時に激しく、時に容赦無く、クイックに反応があるのはご存知の通りで、全世界の人が同時共有出来てしまう部分では、一般の人と大きく違うところかもしれない。わたし達が個人をパートナーにするのと同じく、「マス」だって機能する。ただ、失敗した時、それをわたし達は「失恋」と呼んで、また別のパートナーを選ぶことを当然だと考えているけれど、彼らの場合に替えはない。

SUGAくんが語り、歌詞の中でも語った、「最善の選択」「次善の選択」。最初聞いて、なんて格好良いと思った。そして最近は、「選択というのは全部、ただの選択」と、感じるわたし、年齢のせいかな…。何を選んでも、優劣ない、実は等価なんじゃないかと。自分だけの、30個のチョコレートのアソートボックスがあって、どれから食べるか、迷って、でも最終的に全部食べるのなら、どれから選んでも同じなんじゃないかと。

「最善」「次善」、と言うか…「正しい答え」は限りなくある。そして、本当に取り返しのつかない間違った選択というのは、実は、とっても稀にしかない。んじゃないか。

ジンくんの兵長としてのエピソードをSNS上で垣間見た。それとは別に、訓練所の売店へ後輩をお使いに行かせる、いじめのような行為の体験談を見た。兵長が後輩たちに奢ってあげる行為が、どんな風に心情に作用するのか、わたしには想像しか出来ない。でも、否が応でも強制的に体験しなくてはならない兵役の期間、彼とたまたま同じタイミングで居合わせた年若い青年達が、ジンくんによって、「売店」を、ポジティブな思い出として記憶することが出来るなら、それはどれほどの価値があるだろうかと思った。わたしがもし奢ってもらった子の親だったら、厳しい体験をしている最中の自分の子供に、与えてくれた温情が瞬間でもあったことを、涙が出るほど感謝したいと思ったろう。

BTSのメンバーたちが、どのように「国家を代表するアイドルとしての自分」と「兵役に就く自分」の折り合いを付けているかは分からない。権威と地位をはぎ取られ、ゼロから新しい技術に習熟する。生活リズムも人間関係も真新しく、そこで生まれる人格は、おそらく、自分にとって人生で初めて扱う人格になるだろう。自分をアイデンティファイするものが、限りなく遠くに置かれている環境にいるのに、「ここに来て初めて扱う人格」、は、精神を環境に合わせて歪ませることなく、もともとあったように、健やかに成長させなければならない。それはどうしたら可能だろうか。それを可能にするための準備として、内側の整理がある。精神を歪めて、心に傷を作って適応するプログラム、の、清算。

それが出来ている。すると、その人は、何があっても、無くても、満ちている自分に、安心していることが出来る。つまり、「気」が満ちている。そういう状態で、人は、必要なものは、必要な時、つながりが自分に与えるのだ、と信頼していられる。

「ライフ」、「生存」にかかる根源の安心がある。

特別な人にならなくてもいい。

目の前の人とやり取りするものの間に、「幸せ」があるから。

周囲の中に自分がいて、役割を見つけて…「幸せ」は、今、現存の条件下で、地に足がついていて、循環の輪に入って役割がある状態。役割…つまり貢献している実感、受け取るものがある実感がある状態。そう。何も、自分を誇示するものがなくても、彼らはありのままで幸せを見つけることが出来る、下草を刈って、露を払って、そのための準備を、可能な限り彼らは成した。ソロの期間は…それを、成した…。成した、ように見える…。

…と。そう。です。これは、彼らにかこつけた、多分、わたし自身の話です。

ドラマ『舞妓さんちのまかないさん』を観ていて、日本の芸能界の、才能のある若手のどこを見て発掘するか、その視点について、いろいろ思い出すことがあった。さすが…是枝監督…!是枝裕和氏がこの作品の総合演出をされている。観ていて、才能のある子供、そのどこを見るか、の視点が、本当に日本と韓国は違うなあ…と思った、ただの…印象なんですけど。「この子すごい役者になりそうだな」と感じる時、わたしは、「毛」がすごい印象に残るんです。毛流れというか。毛流れの美しさというか。そこが一番違うような気が…。多分、本当は、「毛」に象徴される、もっと何か…骨格と細胞のあり方みたいな…ただの印象なんですけど…野生というか本能の質というか、その、皮膚の下の気の流れの…タイプ…?なんか、芸能に向いた、特殊な気の流れ方があるのかしら。…そういえば…確かに、芸能界に霊感強い人は多いと聞いた。

安心していて、不必要なトラウマを学習しないでくれたらいいな。これから若い人たちが。世界中で。現在進行形でこの地球上に不均衡があるわけですが、それでも。きっと、目の前にあるつながりとの間に、役割は見つけ出せるものなので。目の前にあるつながり、人、でも、動物、でも土、でも、植物、でも、場、でも。持続可能な、嫌でなく、続けられることで、皆んながあると不便だろうという穴を、埋めて行ければ。それが。それだけで。

画面で若い人たちを見ていると、皆んな、自分の愛するものを愛したままでいられるといいと強く思う。自分の愛するものを、愛したまま進む、その姿に、わたしはとても新しいエネルギーを感じるんだ、感謝したくなる。旦那くんが好きなダンサー、日本人の男の子、17歳の龍くん。すでにある繋がりの中に「幸せ」がもうあると、彼らは知っているだろう。日本の、重く悲しいことがたくさんあった芸能の場で、そんなものと無縁に、愛するものを、愛したまま進むパワーを、どうか、「富」と「名声」のトラップ、そんなものに、大切なものと、心をズタズタにして学びを得なくても、今、彼らが知っていることを、十分。それで。そのままで。

さて。わたしたちは、心臓のところに手のひらを重ねて、自分の全部が、そこから、全部中に入って行くように呼吸します。自己愛の練習、その第一歩。自分が自分で気を満たす、ゆっくり、数回、思いついた時いつでも。

メンバー達の、心の露は払われていると思ったから、小春日和です。


それでは、また!




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