見出し画像

新しいものと最新落ちについての雑記

実家に帰って思った。
昔購入したものを、変わらず大切に使い続けられるひとはすごい。

父の家は230年、母の家は100年近くたっていて、その調度は私達と私達の家族と生活を共にしてくれていた。
毎日陽の光を迎え入れる窓は、縁は手で丸まり、日光に乾き、軽く脆くなっている。この家では様々なことがおこっているけど、家は家として昨日してくれている。100年もつ丈夫さに感謝。そして、手入れをしてきた家族に感謝。

そういえば、手入れしたくなるように家にチャームを残すのは、案外、建築家が家を設計するときにできる「長持ちさせるためのテクニーク」なのかもしれない。全ての動物の赤ちゃんが可愛くできているように、世話をやかれる必要があるものは、愛着を沸かすためのあの手この手を備えている。赤ちゃんの一挙手一投足に注目してしまう、あの引力。しょうがないなぁ、と言わせてしまう家ほど生き延びるのではないだらうか。

リビングに移動した。

我が家はあまり買い換えをしない。古くからの家具や、いわゆる工芸品が多い家だ。なにかわからないけど統一感があると思うのだが、これは目が慣れているというよりは、家というハコのなかで、趣味が醸成されて、淘汰が起こっているのだと思う。

そして面白いなと思うのが、
久し振りに実家にもどると、一番最近に買ったものがすぐわかることだ。

100年、230年の入れ物の中で、新品のものには他の家具を目立たせなくする様相があるからだ。30代から40代までの人がいたら30代は若いと思うだろうけど、そこに10代が混ざったら30代と40代の違いが霞んでしまうかんじ。最新のものは際立ち、そのほかのものを目立たせなくする。

この「最新落ち」は面白いと思う。
最年少でなくなったものにとっては真に我が家の一員になる瞬間で、家に定着する瞬間。注目されなくなり、時の流れが遅くなりだす瞬間。
「二番目以降に新しいもの」を形容する名前はない。

でも、最新でなくても目を惹くものはある。
定着の循環の中で、手入れを受けて使い続けられる(魅力のある)ものかどうか、(ぞんざいに扱われない地位を確立していくものかどうか)が次第に差がついていくのだと思う。
これはきっと、家なら建築家、ものならプロダクトデザイナーの力量が問われるところなのではないか。

少しはなしがとぶけれど、デザインは細部に宿る、この名言の意図は人が細部を忘れるからだと思う。見て、感動して、思い描いて、細部を思い出せずに、再会してまた感動する。または感動したいがために再会しにいく。人を動かす力がデザインにはある。それはつまり、人たらしの技だなとおもう。目を惹くも、行動させるもこの技のあるなしだと思うから、私たちデザイナーはいろんな理由を作らせに行かねばならない。

こんなことを考えると、昔購入したものを等しく大切にできる人をより尊敬する。ものがどんどん増えていくということは、付き合わざるを得ない人たらしたちが増えていくということ。
これに付き合って、自分のエネルギー量を増やし、その全てに変わらない愛情を注いでいるとしたらとてつもない人だ。

そして、一人でなく、多くの人にそんな行動を起こさせるものがあるとしたら、それは本当に名品なんだと思う。使わないものであればさらにそう。コレクターがいる世界、ファンがいる世界のデザイナーはすごい。

この家はハコだけでなく、中身も時間が経ったものばかりだ。
時代遅れのテレビを見て思う。最新機能から程遠く、微かな利便性しかなくても、今日も捨てられずに使われているものは、どの家庭にあるだろう。デザイナーの人たらしの技が、効いているのだ。

そうなれば、量販店の店頭は戦場である。
量販店では最新というアドバンテージをもって、常に今シーズンのものが置かれている。反面、そこに来るお客さんの家には捨てるには忍びない「まだ使えるものたち」がある。新旧のデザイナーが各々手練手管を使ってあちらこちらに人の腕を引き合っているようにおもう。
人の心が可視化できるならば、ぜひこの場で人の心の動向をみてみたい。

買い換えるには勇気がいる。そこには作り手同士の戦いがあるから。家電も家具も年代が揃うものがあまりない我が家が、家の年数だけ買い足し買い換えを繰り返した戦場に見えてきた休日だった。

福田家には、新しくものを買うときには「なるべく良いものを買う」という教えがある。こうなると、自然に旧デザイナーのレベルが高くなっていくんだよなぁ。捨てられないタイプ人間の出来上がりである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?