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「空き地」という考え方(鷲田清一先生@法然院)

鹿ケ谷法然院。奈良から一時間半ほどかけて通うには少し遠いお寺だけれども、日々の修行生活(いや、煩悩生活)の中で溜まりに溜まった疑問、矛盾、仮説をたくさん抱えてその検証に訪れる場所。

自分にとってお寺参りとは、仏さまに会いに行く場所であると同時に、何をするでもなく足を運び、そこで自分が思うままに思考を巡らせ、巡らせた思考を着地させる、いやもっと先へと飛ばす、この先に進む方向を見定める、そんな時間を過ごす場所でもある。

2019年7月19日に開催された「第63回 法然院 夜の森の教室」 のゲスト講師はせんだいメディアテーク館長で臨床哲学者の鷲田清一先生。『<空き地>という考え方』でお話。

備忘録的にトピックメモ(先生の話を聞きながらメモしたもので先生の発言そのものではない)です。お寺やコミュニティ運営への示唆も豊富で別記事でそのあたりの考察をしていきます。そのインプットの共有用の記事がこちら。

・インターネット空間は本当に広がりをもっているだろうか。世界は広がっているだろうか。図書館のような空間のほうが、偶然の出会い、未知との遭遇、セレンディピティがあるのではないか。世界を広げるはずが関係や関心があまり広がっていかない。

・せんだいメディアテークは2001年1月26日に開所した。市民の自主的、社会的文化活動を、主にアートという手法を使いながらサポートする施設。仙台市政に不祥事が続いた後に誕生した奥山市長(初代メディアテーク館長)のもと、300億円の工費をかけて建設された。なぜこのような視閲が仙台にうまれたのか、そういう固有の事情もあった。生涯教育科の管轄で、市民の市民力を鍛える、育てることを支援する。手作りの、対面の活動が中心になっている。

・主な活動。「考えるテーブル」哲学カフェとして、被災から8年で70回、震災に関連した哲学対話活動が続けられている。「シネバトル」3分で映画を紹介。人をその気にさせる語り。「民話の収集」東北の地で継承されている語りの伝承。80〜90代のおじいちゃんおばあちゃんが方言で語る民話を録音、テキスト化し保存。「どここれ」大正・昭和の写真を掲示し、市民がこれはどこなのか、ポストイットで書き込む。確定ハンコを押し、写真にうつる「どここれ」を特定させる。「バリアフリー上映」ハンディキャップを持つ人が映画を楽しむための字幕作成。「はじまりのご飯」震災後最初に食べたご飯の写真。大切にしまっていた冷凍食品(高級品)も食べるしか無い状況で「毎日がごちそう」だったというエピソード。「雑紙部」包装紙や紙袋を集め、ものづくりを行う。デパートの包装紙(花柄)で作られた植物図鑑のエピソード。「311を忘れないセンター」「ドートクのじかん」

・受験生が「図書館」よりメディアテークに集まってくる。壁がない空間、勉強していても隣からいろいろな声が聞こえてくる。(例えば職員さんとスペースを借りてなにかしたい人の会話)これが何よりの勉強になっているのだろう。大学進学後に運営の手伝いにくる学生もいる。人をポジティブに、能動的にさせる場所。

・色々な取り決め、ルール、仕切りがあれば場の管理はしやすくなる。でもそれでは同質の人が集まるだけの空間で、空間として閉じていってしまう。

・青木淳さん「原っぱと遊園地」(王国社)。誰がルールを作るのか、訪れた人が何をするか、考える余地があるか。自主的で、行動を誘導しない場所。集まってきた人たちに、自分たち自身で空間の使い方、過ごし方を生み出してもらう。ついついあれこれ言いたくなるが、それを辛抱して、市民力を育ててもらう。

・年に1度だけ、自主的に自分たちがやりたいことをやる日がある。「ヒスロム」の企画展。全国から企画展の準備に参加する人たち。

・なぜ自主的なことを待つのか。コミュニティの存在、存続のためには皆で力を合わせる必要がある。なにひとつひとりではできないのが私達。ミューチュアル・エイド。相互援助。

・近代化でそれまでコミュニティでやることが当然だったことが行政、企業が肩代わりするようになった。サービスを買う。医療・防犯・食・介護。戦後、日本人の寿命は急伸した。なにも自分でしなくていい。なにも自分でできなくなった。そして、無能であることを知るのは、いつも震災が起こったとき。そのときに思い知らされる。

・ではどうしたらいいか。自分ごととして。やろうとしても地域社会がスカスカでなにもできない。大根の鬆(す)。

・何かに関わろうとすること。そのなにかに魅力を感じるか、必要性を感じるか。

・エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーはスモール・イズ・ビューティフルで貨物船が転覆しないためのたとえ話をしている。船に荷物を積むにはグルーピングが必要。床面積をひろげ、摩擦がおこるようにすることで荷物を安定させる。社会も同じ。生活共同体をどのように作っていくか。

・最低限の基礎能力。自分たちで自分たちの生活を取り返す。取り戻す。市民的なものとグローバルなもの(均質的、どこでも同じ)。

・大文字の否定・大きな否定ではなく、小さな肯定をしよう。これは大事、これがBASICといえるものを、ひとつずつ確かめながら。一つ一つのサイズは小さくていい。いざとなったら協力しあい、大きな力を生み出せる、助け合いのネットワーク。

・メディアテークで一番大事なことはなにか。ふたつある。ひとつは「装置」としてバリアフリーであること。集まる人、来れる人へのバリアがない。自分とは違う人、違う価値観、基準を持っている人を自分の中に取り込める、心の空き地を持っておく。新しい市民の縁を生み出せる場所。知らないものが知らないままいるだけの場所ではない。ウィリアム・ジェームズのオーバーフロー。もうひとつは「複業」できる場所。人はセルフインタレストで動いているのではない。何らかの公共的関心が若い人に増大している。自分が自主的にしたいことをする。自分の空いている時間に空き地に出たいという気持ち。

・お寺は「アジール」「アサイラム」。権力が及ばない場所とも。

・アートの得意技。お金がない。あるものを工夫して使う。すでにあるものを使って、それとは違う役割で使う。楽しむ。スケートボーダーが街中の建造物を縦横無尽に滑走するかのような。そこに大きな否定はない。あるのはちいさな肯定の積み重ね。

・非正規の思考。非正規雇用というと良くない現象を指す言葉になってしまうが、もとあったものを別のように使う、スケボー的な非正規はもっとこれから大切にしていくべきではないか。

・料理、食に感心がある人が真ん中にいるグループ・コミュニティは強い。他人への想像力が広い。うまくいくグループの中心には食に関心がある存在。人を「くわせたくなる」人。

生きながらえる術 単行本(ソフトカバー) – 2019/5/24
鷲田 清一 (著)

モノの形の味わい、生きることの難儀さ、芸術の偉力、考えることの深さ。多面体としての人間の営みとその様々な相に眼差しを向け織りなされる思索。日常を楽しみ味わいながら生きるための技法を、哲学者が軽やかに、しかも深く語るエッセイ80編余を収録。行きづまる社会に、“空き地”をひらくためにデザイン、芸術、哲学、地域活動の“声”を聴く。



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