2018/07/30 最近考えていること

色々とご縁が広がり「とりあえずやってみる」で走りながら考える日々です。次にお会いしたときに話題になれば、アドバイスいただければ、ということで今考えていることをつらつらと書いてみます。

子供の頃から多動症で日常生活を送ることがしんどかったんですが、ここにきて短期記憶の低下が激しくなってきています。老いの波も押し寄せてきています。とにかく一つのことに集中できない。でも常に八つぐらいのことに集中している。矛盾しているようで、実際そんな感覚です。身近でお世話いただいている方々に迷惑かけまくってすみません。

・「うちのこ、どうしたもんかの〜」

お寺生まれのご子息のお母さん(住職の奥さま)からの進路相談があります。”あれこれ寄り道をしたけど結局お坊さんになって帰ってきょった”というキャリアを踏まえてのことだと思いますが、”僕なんぞでいいんでしょうか”とお断りした上でお話を聞かせてもらいます。

できるだけ「選択肢を広げる」アイデアを一緒に考えるようにしています。突き詰めて考えると、なぜその子が「お坊さん」になるのか、ということ。本人の覚悟が一番大切ですが、その覚悟を導き出すための周りの説示(環境、普段目にしている景色)が大切であるように思います。お酒を飲み散らかしているお坊さんの姿、お経読むだけでお布施もらえんのになんで他所でしんどいことしようとすんねんという親の言葉、とりあえず佛大・大正大にいって考えたらええねんという自分の経験の押し付け、どう考えても「おぼうさん」になるという選択肢が生まれるはずがありません。いや、”そんなんでいいのか”、と「おぼうさん」になる勘違いが生まれれいるのも事実ですが。ここで問われるべきは覚悟です。

この類のお話は、”住職(お父さまやお師匠さま)が元気なうちは、とにかく外に出て世の中の苦しみやその苦しみを生み出している仕組みを自分ごととして体験してくるのがいいと思いますよ”、と答えていました。自分がしてきてそれが良かったと思っているからです。外に出ていた経験もそうですが、帰ってきたときに「そんな自分」をまってくれている人々がいることを改めて実感できたことも大きな力になると感じています。

でも最近は、どうも自分がしてきた経験が一番だと押し付けているようでちょっと違和感を感じるようになりました。もうすこし自分が体験したことのエッセンスを分析して、それがお寺(もしくはその周辺、NPO法人おてらおやつクラブも含めて)でできるならそれでもいいんではないか?と思うからです。

なんだか急に自分のこれまでの生き方の万能感が低下していく様子が滑稽で、少し寂しくもあり、嬉しくもあり。未来のお坊さんたちのためになにができるでしょうか。

・「修練道場」について

僧侶の資格を得た後、さらに研鑽を積みたい(積んでほしい)ものが道場生活をおくる場所をどうしていくか、という問題を個人的に考えています。住職としてお預かりしているお寺にその一端を担えないかと、まだまだ日数は少ないですが道場を開き、複数人の僧侶がお互いに研鑽し合うという場所の運営を試行錯誤しています。課題は色々ありますが、やはり一番はお金の問題。それが運営費的なものなのか、運営費をどのように賄っていくのか、と考えているうちはあまり面白くなかったのですが、もっと純粋に在家の人々にお布施をもらいながら修行に励む場所をグランドデザインできればいいのではないかと考えるようになりました。最近はその事を考えている時間がなかなかスリリングです。

他人任せ、教団まかせにするんじゃなくて、青年僧が自ら道場運営に関わっていけばどうか、そうすることが多発している細かい課題の解決につながっていくのではないか?という話もし始めています。もう青年会の役割は「修練道場」運営に尽きるのではないか、極論すぎるでしょうか。巻き込みつつある皆さん、どうぞよろしくおねがいします。

・「当事者」になることについて

子(孫)として生まれ、夫になり、父になり、祖父になり。人間界で育まれる色々なご縁で、自分はいろいろな当事者になっていきます。祖母の介護がはじまり、もう若くはないですが「ヤングケアラー」が抱える悩みが実感を持ってわかるようになりました。こどもに発達障害があり、療育施設に通う日々の中で、子育て環境でハンディキャップを抱える親の悩みが実感を持ってわかるようになりました。たまたま自分はその「当事者」になったことで、人間界の苦しみの解像度がアップしたわけです。

人の苦しみをわかることの難しさを感じるとともに、「当事者」だからこそできることがあるんだとも思います。ハンディキャップを抱える世帯の、ほんとうに多くが貧困世帯でもあることがわかりました。貧困の連鎖を世代間の負の連鎖として話すことがありますが、一人のお母さんが抱える苦しみの連鎖にもっともっと目を向けなければと反省しています。

・「お母さんが死にました」

色々なことが繋がり、新しくお寺とご縁を結んでくださる方があります。ありがたいことですが、同時にそれまで想像だにしなかった「苦しみ」に気づくことがあるのもそういう機会です。

ご両親が離婚され、お母さんの実家で暮らし始めたお子さん。年老いたおじいちゃん、おばあちゃんの介護、障害のある兄弟とともに生活している。そんな子からお寺に連絡がありました。

大切な方が「死にました」と口にしなければならない状況、「死にました」としかそのことの表現する言葉を持ち合わせていなかったことへの申し訳無さを感じ、急ぎお母さんの元へと向かいました。

人は「言葉」に影響されます。周りから聞こえる「言葉」もそうだけど、一番よく聞くのはやはり自分の発する「言葉」でしょう。べつに綺麗な日本語を使おうとはまでは言わないけれど、折々の言葉、自分の発する言葉でいいたくない言葉しか言えない状況は無くせるようにしたいなと感じました。

「お葬式」から始まるご縁が現代社会にはたくさんあります。どうぞ皆さん大切に。

京都から金沢に向かうサンダーバードより

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坊さんが経をこいた

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