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2018/06/14 小善は大悪に似たり 大善は非情に似たり

山崎豊子さんが先輩作家の富士正晴さんに宛てた125通の書簡類の内容が公開された。その中の一つに「どの編集者も商品価値としてしか接してくれず、ほんとうの批評を聞けず、堕落しそうでこわいです」というものがあった。ちょうど『白い巨塔』を刊行した1965年のもの。

坊さん・住職・あちこちで役職が増えてくると、ほんとうの声が聞こえなくなってくる。Facebookのいいね!もそれを加速させる装置のひとつだ。だからこそ、自分に厳しく(まわりが本当のことを言ってくれなくても自分に嘘はつけないだろう)まわりに自分に厳しくしてくれる人がたくさんいてくれる環境をつくらなければならない。積極的にそういう場所にこそ顔をだすのが良い。そういう場所は少ないがあるところにはある。

もちろん、今の時代、坊さんに厳しく言ってくれる人は割と多いが、飛び交う声がほんとうの声かというとそれも怪しいから注意が必要だ。「ほんとうのこと」を言われているのに、それは「ほんとうのこと」ではないと、見たいものしか見ないのも駄目だが、それらを見極める力を養わなければならない。寺院コンサルタントみたいな肩書ではなしかけてくる人は文字通り胡散臭いと思っておいて間違いない。終活周りの人たちも終活をビジネスとして話す分にはなるほどですね〜と思うが、坊さん論になると怪しくなってくる。

この辺の気持ち悪さが、くだんの「商品価値としてしか接してくれず、ほんとうの批評を聞けず、堕落しそうでこわい」という豊子節に重なって、今夜は不毛地帯を手にとっている。坊さんは商品でないし、お布施は価格ではない。

この前、8年ぶりぐらいに修行時代の同期と再会した。僕の修行時代、まわりの多くが大学生で、こいつらホンマに坊さんやっていけるんやろか?と、ひとまわり以上違う若者たちとの道場生活は不思議な空間でもあった。再会した彼はそこらへんの坊さんとは違い、とてもたくましい姿になっていた(いろいろ苦労していることがにじみ出ていて嬉しかった)。

そんな彼が僕のこれまでの活動を見聞きして久しぶりの再会に「雲の上の存在」と評してくれた。(ああ、これ一番言われたらあかんやつや。雲の上のお寺の坊さん。あれにだけはなりたくない・・・。)

「私は褒められて伸びるタイプです」という人がいる。人を褒めない僕は、よくこういうセリフを返される。可愛い娘なら「そうでちゅね〜」とうなずくこともできるが、こう言われることが続くともう「10分どん兵衛」みたいに伸びてしまえばいい、僕はもうお湯を入れたことすら忘れることにするねと思ってしまう。それはそれで美味しいと評判になるかもしれない時代だからね。

でもな〜。それでいいのかな〜。非情とおもわれるかもしれないけど、いつかそれが大善であったと気付いてくれる日が来るといいな〜。まだまだ修行が足りません。

新千歳空港から大阪国際空港へ向かう機内、雲の上のお坊さんより


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