2018/04/21 答えではなく問いを見つける

浄土宗の若いお坊さんがこの春から毎日noteを書いているのを見ていたらなんだか自分も久しぶりにネットに文章を書きたくなってきた。

人の文章を見て「自分も書きたい」と思うことはあまりないが、そうさせる何かがあるのだろう。彼のお父さんに挑発されているお坊さんは多い。そして挑発されているお坊さん同士が挑発し合う空気を楽しんでいる自分がいる。

もう随分前になるがネットで「ITビジネスマンの寺業計画書」なんていうブログを書いていて、今でも「見ていました」と声をかけてくれるお坊さんがいる。一般人がお坊さんになるには?なんていうことを道場生活をしながらプロセスキャスティングしていたので、「修行時代に励まされました」「不安になると記事を眺めていました」なんていう若いお坊さんの声は嬉しかったりする。意外と尼僧さんファンが多いらいしぜ、と道場の指導員をしている先輩に聞かされたこともある。

自分が道場生活をしていた頃、僕が感じる疑問に答えてくれる人は殆ど居なかった。でもこれはきっと「問い」の立て方が悪かったんだろうと今では思っている。

ならば自分の右往左往の経験をネットに保存して、それを同じように漠然とした不安、なにが理解らないか理解らない修行僧のために記録しておこうという塩梅だった。

なにか新しいことを学び始める時、何を質問したらいいかすらわからない状態が暫く続く。少しずつ自分は何が理解らないのかの輪郭が見えはじめ、理解らない何かを言葉に表すことができるようになる。それでようやく理解っていそうな人に「質問」を投げかけることが出来る。理解っていそうな人が理解っていなかった、という発見も同志を見つけるようで面白いものだ。この状態までくれば、学びはどんどん進んでいく。学びがどんどん楽しくなっていく。

なにか苦しいと感じる時、どうして苦しいのか?その原因を探す余裕が出てきたら、「なぜ苦しいのか?」という問いを立ててみるのがよい。多くの苦しみに「答え」は見つからない。次から次へと新しい「苦しみ」が生まれるので「答え」を自分の中にとどめておくことができない、という感じか。

ならば、苦しみに「問い」を持ち続けることが向き合い方としては健全なのかもしれない。

今日からまた久しぶりにnoteでいろいろな人の顔を思い浮かべつつ、言葉を残しておこうと思います。皆さまの人生において「問い」を見つけるお手伝いができればうれしいです。どうぞよろしゅう。

大和八木駅から桑名へ向かう特急電車より。

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坊さんが経をこいた

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