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2018/07/15 守破離というが・・・

いろいろな人がいる。

平安・鎌倉時代から脈々と続く宗派仏教教団のなかで、僧侶としての資格を得、複雑に入り組んだ現代社会に鋭いメスを入れようと様々に活動する人たち。

ちかごろは「守破離」の「破」と「離」が好きな人が多いようだ。あなたはどうやって「破」ったのですか?あなたのその「離」れた姿は、社会に出ているからできるものなのでしょうか?いろいろと話しているとこういう話題になる。

Wikipediaによると「守破離」とは

守破離(しゅはり)は、日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方の一つ。日本において左記の文化が発展、進化してきた創造的な過程のベースとなっている思想でもある。個人のスキル(作業遂行能力)を3段階のレベルで表している。
まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。

仏道(修行)も道とつくので、他の道と同じように「取り違えて」しまう人の発想や気持ちはわからなくもない。

でもこりゃあかんよね。「破」や「離」を進み、所属している宗派から出ていくならそれでもいいけれど。いやむしろ早く出ていってほしい。(笑)

実際、金銭的な話(本山課金がいやや的な)で、宗派を出ていく人の感覚はよくわからんけど、そういうことではなく、信仰・信条・生き方に何らかの意思を持って出ていく人はとても尊い姿だろう。自分には到底できないこと。実践している先輩の姿を静かに私淑している。

僕にとって「守破離」とはこうだ。

お釈迦さまの教えから「離」れてしまっていることを、なげいている。
お釈迦さまの教えを「破」ってしまっていることを、なげいている。
お釈迦さまの教えを「守」るためにどうすればいいか、もがいている。

かなしいかな かなしいかな いかんせん いかんせん

いろいろこねくりまわして言う人とは向きが違う。
皆もこちらを登っていかないか?



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