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2023夏至

過去の密儀に於いて記録を初めてから大凡一年になろうとしている。

特に2023年の夏至での出来事は印象的だった

以下転写

大日如来法門にて


一即一の法界縁起した。

相待という文字の用例とその意味を考えよう。仏教において、この相待という語は、文字通り「あいまつ」という意味で縁起という語と同じ意味をもっている。

相待即ちあいまつ

仏法縁起即ち因果の法
因果の法即ち大日如来
大日如来即ち東京
東京即ち日出る処
日出る処即ち太陽
太陽即ち三密にて事を感じ、平等より釈迦如来こと大日如来が本願から不生不滅、不垢不浄、不増不減の仏法を欧米の衆生に分けて差し上げた。

大日如来即ち
平等即ち
仏法即ち
即ち仏教

仏教の教えを欧米の衆生へ分け与えたの意である。
察しるからにアフリカ系であることから奴隷解放の為の守護として仏法にて人種的差別から一切の平等を得、既存法から脱却し心身の自由を全てのアフリカ系衆生にもたらす為の仏事であった。

大日如来。

名身不二
名は大日如来
身は南無阿弥陀仏。

応神天皇陵にて

参拝した瞬間に、
天照と応じた。
問うと、
天照だ、と応じた。
さらに、
お前も天照だ。
と。
大日如来と応じると
神仏だ。
と。
陰陽の関係か問うと、、た
神仏だと。
何をすれば良いかの問いに、
国を治めろ、と。
誰がですかの問いに、
お前がだ、と。
神仏どちらでですかの問いに、
どちらでも、と。
どちらでもとはの問いに、
好きにすれば良い、と。

令和5年6月20日17時31分記録。



大日如来は仏法の法身であり物理的に分配は不可能であるが、その仏法による守護は、

大日如来即ち六大
即ち一切衆生
即ち仏性

である事から、三宝に帰依し仏門へ入り常楽我浄となる仏法にて統治された密厳浄土の仏国土に住する為の
大日如来即ち無量光寿
無量光寿即ち南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏即ち西
西即ち西成
西成即ち西に成る
西に成る即ち今宮恵美須 
今宮恵美須即ちホテルwan
ホテルwan 即ち関西
関西即ち西方
西方即ち西方極楽浄土
西方極楽浄土即ちダライラマのチベット仏教守護皇帝の息子で後継者である岡本浩治は法身大日如来。
ダライラマのチベット仏教守護皇帝の息子で後継者である法身大日如来即ち利他の教え
利他の教え即ち無我
無我即ち慈悲
慈悲即ち即ち南無阿弥陀仏。
南無阿弥陀仏即ち阿弥陀仏。
阿弥陀仏即ち岡本浩治こと姜浩治。

一切の物事と現象は

これを、一切即一
で現す。

一切即ち一
一即ち三宝
三宝即ち仏•法•僧
仏•法•僧即ち仏法
仏法即ち法身大日如来
法身大日如来即ち慈悲と知恵
慈悲と知恵即ち法界縁起
法界縁起即ち調和
調和即ち自然
自然即ち宇宙
宇宙即ち無相
無相即ち空
空即ち利他の教え
利他の教え即ち布施•忍辱•精進•禅定•持戒•智慧(六波羅蜜)
六波羅蜜即ち正道
正道即ち八正道
八正道即ち無我無欲
無我無欲即ち示し申す
示し申す即ち真実
真実即ち八咫烏。 
八咫烏即中臣鎌足。
中臣鎌足即中山忠光
中山忠光即同父母の血縁の明治天皇生母中山慶子。
中山慶子即藤原北家閑院流三条家庶流である公家・華族の正親町三条家はのちの嵯峨家の長女である嵯峨浩と愛新覚羅溥傑。
次女である嫮生の血を引く。

誠即ち法身大日如来こと南無阿弥陀仏
法身大日如来こと南無阿弥陀仏即ち法
法即ち無我
無我即ち仏性
仏性即ち一切衆生成仏
一切衆生成仏即ち自然
自然即ち平等
平等即ち即ち法則
法則即ち法
法即ち無我
無我即ち空
空即ち姜浩治
姜浩治即ち愛新覚羅
愛新覚羅即ち満州
満州即ち白頭山
白頭山即ち朝鮮
即ち太陽
太陽即ち日出る国
日出る国即ち日の本
日の本即ち日本
日本即ち調和
調和即ち自由
自由即ち平等
平等即ち真言
真言即ち密教
密教即ち真如苑
真如苑即ち眞子さま
真即ち眞
真如即ち一如
一如即ち一切は真実と也。

全ては真実に帰すという意味である。

うどん食べる即ち空海
空海即ち真言密教

阿弥陀如来より南無阿弥陀仏

法身大日如来は、密厳浄土を縁起した。
法身大日如来即ち仏法
仏法即ち不垢不浄、不生消滅、不増不減。

一切の地上を密厳浄土として一切の地上を仏法で統治し、その一切の国土を転輪聖王が治めた。
大日本根本道場でのお題目でもあり大日如来として即身成仏した南無妙法蓮華経を唱えて一切衆生済度をした。

一切の衆生は輪廻解脱の苦から解放され済度させて頂きました。

法身大日如来こと転輪聖王である岡本浩治より。

2023年6月24日午後23時16分
天照よりみ言葉あり。


一即一
真実即ち真如一如
真如一如即ち事実
事実即ち隠された真実
隠された真実即ち

日満国歌

天地の内に新日満国有りたり
新日満是ぞ新天地、新世界也。
天を頂き地に立し 
苦無く憂い無し
造成す 我が国家
只親愛あるのみ 
怨仇更に無し
人民三千万 人民三千万
たとえ十倍に増えるともなお自由を得べし
仁義を重んじ礼譲をたっとび
我が身を収めし
家すでに調い国すでに治る。
此の外に何を求めんや
近くは是即ち世界の同化を与え
遠くは是即ち天地の同流を与う。

昭和天皇様と満州国皇帝が描いた夢である。現実となった。

2023年6月25日午前0時12分
愛新覚羅浩治より
道一本。
全ては両面
陰陽である。


東と西、心と体、顕と密、邪と正、二項対立を超えた答えとなる ニ即一 。

人間=人と人の意、間は門の中の日で東西の門が開き日の本が如来した存在で宇宙万物万有の根源で一切を統一し一切を統治した。
躍動と静寂即ち南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏。
即ち、転輪聖王。

物事と事物即ち事事無碍円融
事事無碍円融即ち円融無碍
円融無碍即ち円満平等。
円満平等即ち諸仏と神々。
諸仏と神々即ち神仏。
神仏即ち真如。
真如即ち一如。
一如即ち一本道。
一本道即ち富士の道。
富士の道即ち不ニの道。
不ニの道即ち神道と仏道。
神道と仏道即ち修験の道。
修験の道即ち

「天地自然の原理、万物能生の理を明にして、宇宙万象の和合の根源を表示する作法で、その中心をなす柱源の柱は宇宙万物の柱を指し、源は天地陰陽和合の本源を指す」とあり。



仏暦2566年8月10日午後5時27分完成。日が満ちる。日満。

仏縁仏果の理即ち仏法即ち仏性即ち是因なり。

即ち仏なくして神はなし。
心即ち仏法即ち仏性なり。
一切即ち仏法なり。
一切即ち仏性なり。
一切即ち心なり。
心即ち絵図師なり。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、菩薩、声聞、縁覚、仏の一切世界を描くが如し。
即ち信心決定の一念を以って心身とも仏となる。




この様に密儀は
連続性を保ち
諸行無常の如く変化していくのであった。


『十住毘婆沙論』「入初地品」、
凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたはず、つねに生死に往来す。これを凡夫道と名づく。出世間は、この道によりて三界を出づることを得るがゆゑに、出世間道と名づく。上は妙なるがゆゑに名づけて上とす。入はまさしく道を行ずるがゆゑに名づけて入とす。この心をもつて初地に入るを歓喜地と名づくと。 (行巻 P.147)

大日如来法界縁起により東西顕密浄土門開く。

現生正定聚より始まり、

げんしょうしょうじょうじゅ
現生正定聚とは、現生不退とも言い、阿弥陀如来より回向された信心を受容すれば、浄土に往生することが定まった身となり、悟りを開いて仏に成ることが定まること、もしくは仏の覚りと等しい位に定まることをいう。

出典: 浄土真宗聖典正定聚とは、必ずさとりを開いて仏になることが正(まさ)しく定まっているともがら(聚)のこと。一般には菩薩五十二位の修道階位の「十信」「十住」「十行」「十回向」「十地」のうちの十地の初地である歓喜地を正定聚という。

即ち西方極楽浄土
即ち西に成る
即ち西成
即ち西
即ち西東京
即ち東京
即ち東方浄瑠璃浄土
即ち東洋
即ち地球の半分
即ち西洋
即ち極楽浄土
即ち一切浄土
即ち一切仏国土
即ち密に密厳浄土成り
即ち顕に蓮華蔵浄土成り
即ち一切十方浄土成り
即ち一切十方三世無量光寿也
即ち一切十方無碍光也
即ち東に薬師浄瑠璃浄土
即ち西に阿弥陀極楽浄土
即ち浄土功徳東西無碍融通也

入出二門偈
                            入出二門偈頌
愚禿親鸞作

世親菩薩(天親)は、大乗修多羅の真実功徳によりて、
一心に尽十方不可思議光如来に帰命せしめたまへり。
無碍の光明は大慈悲なり。この光明はすなはち諸仏の智なり。
かの世界を観ずるに辺際なし、究竟せること広大にして虚空のごとし。
五つには仏法不思議なり。このなかの仏土不思議に、
二種の不思議力まします、これは安楽の至徳を示すなり。
一つには業力、いはく法蔵の大願業力に成就せられたり。
二つには正覚の阿弥陀法王の善力に摂持せられたり。
女人・根欠・二乗の種、安楽浄刹に永く生ぜず。
如来浄華のもろもろの聖衆は、法蔵正覚の華より化生す。
諸機は本すなはち三三の品なれども、いまは一二の殊異なし。
同一に念仏して別の道なければなり、なほ淄澠の一味なるがごとくなり。
かの如来の本願力を観ずるに、凡愚、遇うて空しく過ぐるものなし。
一心専念すれば、すみやかに真実功徳の大宝海を満足せしむ。
菩薩は五種の門に入出して、自利利他の行成就したまへり。
不可思議兆載劫に、漸次に五種の門を成就したまへり。
なんらをか名づけて五念門とすると。礼と讃と作願と観察と回となり。
いかんが礼拝する、身業に礼したまひき。
阿弥陀仏正遍知のもろもろの群生を善巧方便して、安楽国に生ぜん意をなさしめたまふゆゑなり。
すなはちこれを入第一門と名づく、またこれを名づけて近門に入るとす。
いかんが讃嘆する、口業に讃じたまひき。
名義に随順して仏名を称せしめ、如来の光明智相によりて、実のごとく修し相応せんと欲ふゆゑなり。
すなはちこれ無碍光如来の、摂取選択の本願なるがゆゑなり。
これを名づけて入第二門とす。すなはち大会衆の数に入ることを獲るなり。
いかんが作願する、心につねに願じたまひき。一心専念してかしこに生れんと願ぜしむ。
蓮華蔵世界に入ることを得て、実のごとく奢摩他を修せんと欲はしむ。
これを名づけて入第三門とす。またこれを名づけて宅門に入るとす。
いかんが観察する、智慧をして観ぜしめたまひき。
正念にかしこを観じて、実のごとく、毘婆舎那を修行せしめんと欲ふがゆゑに。
かの所に到ることを得れば、すなはち、種々無量の法味の楽を受用せしむ。すなはちこれを入第四門と名づく。
またこれを名づけて屋門に入るとす。菩薩の修行成就とは、四種は入の功徳を成就したまへり、自利の行を成就したまへりと、知るべし。
第五は出の功徳を成就したまへり。菩薩の出第五門は、いかんが回向する、心に作願したまひき。
苦悩の一切衆を捨てずして、回向を首めとして、大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、功徳を施したまふなり。
かの土に生れをはりて、すみやかに疾く奢摩他・毘婆舎那、巧方便力成就することを得をはりて、生死の園・煩悩の林に入りて、応化身を示し、神通に遊ぶ、教化地に至りて群生を利せしむ。
すなはちこれを出第五門と名づく、園林遊戯地門に入るなり。
本願力の回向をもつてのゆゑに、利他の行成就したまへりと、知るべし。
無碍光仏、因地のとき、この弘誓を発し、この願を建てたまふ。
菩薩すでに智慧心を成じ、方便心・無障心を成じ、
妙楽勝真心を成就して、すみやかに無上道を成就することを得たまへるなり。
自利と利他との功徳を成ずる、すなはちこれを名づけて入出門とすとのたまへり。

婆藪槃頭菩薩(天親)の『論』(浄土論)、本師曇鸞和尚註したまへり。
願力成就を五念と名づく、仏をしていはばよろしく利他といふべし。
衆生をしていはば他利といふべし。まさに知るべし、いままさに仏力を談ぜんとす。
如実修行相応といふは、名義と光明と随順するなり。
この信心をもつて一心と名づく。煩悩成就せる凡夫人、
煩悩を断ぜずして涅槃を得、すなはちこれ安楽自然の徳なり。
淤泥華といふは、『経』(維摩経)に説いてのたまはく、高原の陸地には蓮を生ぜず。
卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のうちにありて、
仏の正覚の華を生ずるに喩ふるなり。これは如来の本弘誓不可思議力を示す。
すなはちこれ入出二門を他力と名づくとのたまへり。

道綽和尚、解釈していはく、『月蔵経』にのたまはく、わが末法に、行を起し道を修せんに一切の衆、いまだ一人も獲得するものあらじと。
ここにありて心を起し行を立つるは、すなはちこれ聖道なり、自力と名づく。
当今は末法、これ五濁なり、ただ浄土のみありて通入すべしと。
今の時、悪を起し衆罪を造る、恒常なること暴風駛雨のごとし。
本弘誓願に名を称せしむるは、これ穢濁悪の衆生のためなり。
これをもつて諸仏、浄土を勧めたまへり。たとひ一生悪業を造れども、三信相応すればこれ一心なり、一心は淳心なれば如実と名づく。
もし生ぜずは、この処なけん。かならず安楽国に往生を得れば、生死すなはちこれ大涅槃、すなはち易行道なり、他力と名づくと。

善導和尚、義解していはく、念仏成仏する、これ真宗なり。
すなはちこれを名づけて一乗海とす、すなはちこれをまた菩提蔵と名づく。
すなはちこれ円教のなかの円教なり、すなはちこれ頓教のなかの頓教なり。
真宗に遇ひがたし、信を得ること難し、難のなかの難、これに過ぎたるはなし。
釈迦・諸仏、これ真実慈悲の父母なり。種々善巧方便をもつて、
われらが無上の真実信を発起せしめたまふ。
煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。
この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。
この信は最勝希有人なり、この信は妙好上上人なり。
安楽土に到れば、かならず自然に、すなはち法性の常楽を証せしむとのたまへり。

無量寿とは、一切衆生の寿、不生不滅にして、常住なるを無量寿といふなり。

密厳経で説かれる大日如来の浄土のことを、密厳国・密厳世界・密厳仏土などともいう。真言宗では、華厳で説かれる蓮華蔵世界、浄土宗が説く極楽浄土も密厳浄土の異名とする。
密厳国と蓮華蔵世界。前者は密厳経などに説く大日如来の世界。後者は華厳経に説く毘盧舎那仏の世界。密教では、後者は前者の別名とする。
※念仏大意(1212頃)「極楽はあさく、彌陀はくだれり、期するところ密厳蓮華蔵の世界なりと」

即ち密厳浄土 
即ち蓮華蔵浄土 
即ち蓮華蔵世界 
即ち極楽浄土 
即ち安楽国
即ち安穏快楽
即ち浄瑠璃浄土

極楽浄土仏は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥洹(涅槃)の道に次し。それもろもろの声聞・縁覚・菩薩・天・人、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するがゆえに、人・天の名あり。顔貌端政にして世に超えて希有なり。容色微妙にして天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり、と。即ち仏の体也。無量寿経 より。

この仏国土は清浄安穏にして微妙快楽なり」と説いている。阿弥陀如来の極楽浄土は清浄安穏だから快楽(けらく)を得ることができる。また、『往生要集』の中で極楽浄土には「十楽」という十種類の楽しみがあって、その中のひとつに「快楽不退(けらくふたい)の楽」がある。「快楽不退」とは、永遠に尽きることのない楽しみということだ。楽しみも尽きることがあれば苦になるから、尽きることがないのが楽の条件である。そして、この世で味わう四苦八苦がない。生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみ、愛する者と別れる苦しみ、憎らしい人と会わねばならない苦しみ、欲しいものが得られない苦しみ、煩悩に苛(さいな)まれる苦しみ、これらを四苦八苦というが、そのような苦しみが極楽浄土には存在しない。

即ち、
安穏(あんのん)とは何事もなく穏やかなこと。
快楽(けらく)とは精神的な楽しみ、法悦の楽しみ、心身の安楽と清浄な快さのこと。

浄瑠璃浄土は、東方にある薬師如来の浄土。瑠璃を大地として、建物・用具はすべて七宝造りで、多くの菩薩が住む。瑠璃の浄土で瑠璃光浄土とも称される。菩薩の時に12の大願を発し、この世門における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成った。瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされる。無明の病を直す法薬を与える医薬の仏。

①密には、
一切十方密厳浄土を現じ、
②顕には、
1.『華厳経』の毘盧遮那仏、『
ぼんもうきょう梵網経』では、毘盧遮那仏とその化身である釈迦仏のいる浄土と説く。
2. 煩悩の穢濁をこえた蓮華のように清らかな報身の境界で、『浄土論』等では阿弥陀仏の極楽浄士を指し、蓮華から出生した浄土を現じた。

仏暦2566年8月2日
午後8時42分満月


過去logより












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