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ざつぼくりん 48「次郎Ⅰ」

「ごめんよー。ジロさん、いるかい?」

母屋から聞こえてくるあの割れた声の持ち主は勉だ。わが町の消防団の班長さんの声はやたらでかい。

「あ、勉さんいらっしゃい。今日はなんだか急に寒いですねえ」

由布が迎える。

「べんちゃーん、いらっちゃーい」

藤太の声も聞こえる。藤太はどうもサ行の発音がうまくない。

「おう、暖冬とはいえ、さすがに大寒だもんな。おい、藤太、おまえは風邪もひかねえで元気そうだな。よしよし。由布ちゃん、これ、レンソウ。ちょいと育ちすぎたけど、おひたしにでもしてこいつに食わしてやってくれ」

その根の赤いほうれん草はきっといつものように大きな束で、野放図にその葉を伸ばしているにちがいない。勉の作る野菜は、作り手に似て大きく育ち世間の規格には合わないが、味わい深い。

「あ、ありがとう。いつもすみません。それにしても、りっぱなほうれん草ね。キッシュにでもしようかな。藤太、だいすきだもんね」

「きっちゅ、きっちゅ」
「えっキッスかい? 藤太、幼稚園児だってのになかなかおませだねえ」

「もー、勉さんたら! 父は工房のほうにいますから」
「J・Jはコーボーだよ」
「わかったわかった。じゃ、あっちにまわってJ・Jに会ってくるよ」

コンクリートの通路を独特のリズムでゴム長靴の底をすりながら歩く足音が聞こえる。勉は左足を少し引きずって歩く。その脛に大きな傷跡がある。ボルトが入ってるという。東京でバイクを乗り回していた時代の置き土産だ。

薄い西日を背負って工房に入ってきた勉は、ろくろをまわす次郎によっと手をあげ、生え際が後退し始めた頭を小さく下げる。床に伸びる影は大きい。

「ジロさん、仕事中かい? 忙しいとこ、すまねえ。折り入ってはなしてえことがあんだよ。いいかなあ」 

次郎は「おう」と答えて土間へ下り、手を拭う。

「そろそろコーヒーブレイクの時間さ。……うー、今日はやたら寒いな。ま、ストーブのそばにすわってくれ」
「わりいな」

作業ズボンに手をこすりつけながら切り株のスツールに腰を下ろした勉は、いつになく神妙な顔つきだ。

「うん? どうした勉ちゃん。また夫婦喧嘩でもしたのか?」
「へへ、この前はすまなかったな。うちのかあちゃん、こええからさ」
「またやったのかい?」
「いや、そんなわけねえだろ」
「そんな勇気はねえか、ハハハ」

肉の薄い頬に笑みを浮かべて次郎はコーヒー豆を挽き始める。ひとつにまとめて縛った白髪混じりの長い髪がそのリズムに合わせて背中で揺れる。キリリカリリと豆のつぶれる音がして香ばしい香りがたつ。

「で、夫婦喧嘩じゃなかったら、消防団のことか? 夜回りかい?」

次郎は慣れた手つきでコーヒーメーカーをセットする。

「そいつもはずれだ。実はジロさんの『いとでんわ』のほうを頼みたいんだよ」
「うーん、なんだ『うなづきおやじ』のほうかい」

「うなづきおやじって、なんでそんな言い方するんだよ。なんとか対話師とかいう立派な呼び名があるんだろ?」

「あ、よく知ってるな、勉ちゃん。だけど、そいつはなんとか協会ってのがあって、そこから派遣されるやつらがそう呼ばれてんだよ」

「ジロさんもその資格もってんだろ?」

次郎はぱちりと音をたてて手のひらで首筋をたたく。

「ああ、だけどくやしいかな、採用の面接でおっこったんだよ」
「ジロさん、おとこまえなのになあ。よっぽど態度が悪かったんだな」

「はは、そんなことあるもんか。相手に見る目がなかっただけだ。おっ、そうそう」
そういいながら、次郎は缶を開けてクッキーを出す。

「これさ、今朝、由布が焼いたんだけどさ、勉ちゃん、ちょっと味見してくれない? 工房にくるみんなに配って感想を聞いてくれって頼まれたんだ」

「ああ、いいよ。由布ちゃんは何でも作っちゃうんだな。キッシュとかいうの作るっていってたぜ、さっきは……」

「今度、鎌倉の友達の店に焼き菓子を出さしてもらうことになって、あいつ、いろいろ試行錯誤してるみたいでさ」

「あ、これ、意外に軽いじゃん。あんまり甘くなくていいや。いけるよ。あとひくわ。俺、胡桃、すきなんだよ」

「そうかい? 僕はどうも菓子は苦手でさ、よくわかんないんだよ。ちょっと持って帰って家族のみんなの意見もきいてくれる?」

「わかった。……しかし、ほんと由布ちゃん、ひとりでよくがんばってるよな。編みもんだけじゃなくて、このあいだから夜に公民館でパッチワークの先生もやってんだろ? なんでもできるんだねえって、うちのかあちゃんもばあちゃんも感心してるぜ」

由布の母親がそうだった。あたりまえのように織物もしたし染物も縫い物もした。野の草の天婦羅からタイヤのサンダルまで、金がなくて買えないからなんでも自分で作った。そうやっては「ほらっ」と言って春風のように笑っていた。

「ま、藤太がいるからな」
「そうか……」

にきび跡が深い頬に手をあてて勉が思案顔で呟く。

「ジロさんもそうだったんだろうな、きっと……婦人会のおばちゃんたちが、ジロさんあんなにいいおとこなのになんで再婚しないのかねえ、よっぽど奥さんのことが忘れらんないんだろうねえ、ってよく言ってるけど、ほんとは由布ちゃんがいたからだよな」

「おいおい勉ちゃん、そんなことを言いにきたんじゃないだろ?」

コポコポコポという音がしてコーヒーが出来上がる。手捻りのごつっとしたカップになみなみと注がれたコーヒーから湯気がたちのぼる。窓から差し込むたよりなげな光は、部屋の壁を滑り、棚に並べられた陶芸教室の生徒たちの大小さまざまな作品に薄い影を作る。

「ほい。今日はコロンビアだ」

勉はうまそうに啜って小さくため息をつく。次郎もひとくち飲んで、伸ばしたあごひげをいじりだす。

「さてと……仕事の話をしようかね。勉ちゃん、うちの『いとでんわ』をいったいどこへつなげたいんだい?」

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️