歌舞伎座 2005

菊之助丈のその昔。その演出家も今はいない。「NINAGAWA 十二夜」のこと


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柝がはいって歌舞伎座の観客席は暗闇になる。そして定式幕があくとそこは一面鏡だった。

そこには一列にならんだ赤いちょうちんと固唾を呑んで舞台を見入る観客たちが映っている。

次の瞬間鏡がなくなり、舞台には満開の桜。チャンバロと大鼓小鼓とイスパニア風の風体をした少年3人が澄んだ声で異国風の歌を聞かせている。

もうそこまでで度肝を抜かれている。シェークスピア原作「十二夜」蜷川幸雄演出の7月大歌舞伎である。

嵐で難破した男女双子の兄妹が生き別れ、妹は男装して左大臣の小姓となる。左大臣は織笛姫に恋をしており、男装の妹はその使者となって姫を尋ねる。姫はその小姓に恋をする。小姓は左大臣に恋している。さて、その顛末は・・・という物語である。

その双子を尾上菊之助が二役で演じる。女と男が入れ替わり、もともと演ずるのは女形で、実は男で・・・となんだか複雑なのだが、その微妙な機微を菊之助はなんと軽やかに艶っぽく演じきっていたことか。

菊之助の父である菊五郎は道化の捨助と姫の家来の坊太夫の二役。早代わりも楽しめる。どんなにおどけて滑稽な役を演じていても、この人の目はふっと哀愁が漂う。寂しい目だ。それは菊之助にはない魅力だと思う。

さてもこの劇では他にも実の親子が出ている。菊五郎親子。

双子が乗っていた船の船長の磯兵衛役の市川段治郎と腰元麻阿役の市川亀治郎親子にからみはないがこの亀治郎が出色。上手いなあ。めりはりの効いた演技に笑わされる。片岡秀太郎のような女形になりそうな感じがする。

もともとのシャークスピアのお話には、しゃれや地口など古風な言葉遊びが山ほどあって、それを翻訳し歌舞伎にするのは、なみたいていの苦労ではないだろうと思われるが、それがみごとに独特な味つけで、歌舞伎風言葉遊びになって、芸達者の口からマシンガンのように飛び出す。

もっとも笑いをとったのは尾上松緑だったかもしれない。いささかおつむの温かい人の役で、あの舌足らずのたどたどしい口調がぴったり当たり役で、妙なしぐさも愛嬌があって、ああ、あの松緑さんがこんなことを、と思えば思うほど笑えてくる。左団次さんも団蔵さんも持ち味がよく出ていた。

蜷川幸雄氏は菊之助の「十二夜」をという願いを聞き入れて、ただ菊之助のために、この仕事をうけたのだという。そういう意味ではこの芝居は尾上菊之助という役者のためのものなのかもしれないが、芸達者な歌舞伎役者がそれぞれ自分の新たな可能性を見つけようとしているようにも思えた。

そしてやはり舞台装置がいつもの書き割りとは異なり、立体的でセンスがある。月夜の晩にひとが隠れるくらいの大きさのマグカップを逆さにしたような白い円錐形の小山が三つ現れる。坊太夫が偽ラブレターを拾ってその気になるところをその影から盗み見るシーンなのだが、この小山は銀閣寺のアレだと思う。銀沙灘と円錐台形の向月台。

あとは富嶽百景の浮世絵の波だとかおおだるだとか、あ、あれは、と思うものが現れる。なるほど、演出というのは思い切りと編集能力なのだなと思ったりする。

飴をくれた隣りのおばあさんは、イヤホンは借りても、筋書きを買わないのだという。

「別に忘れたら忘れたでいいじゃないですか。ひととき、ここでいろんな憂さをわすれて楽しめればいいんですから」と言った。

シェークスピア劇も歌舞伎も、遠い時代からそういうものだったのかもしれない、と思ったことだった。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️