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ざつぼくりん 7 「カンさんⅢ」

ふっと視線をそらした先の黄ばんだカーテンをカナブンが昇って行くのが目に入った。

メタリックな緑色をした虫はためらうように歩を進め、これからどこへいこうというのだろう。絹子にはわからぬ行き先があるのだろう。

「しかしそれだったら名付けの本はいらないんじゃないですか? おふたりでじっくり考えればいいですよ」

カンさんは何事もなかったような顔つきで首筋を掻き、商売っけのないことを言う。

「でも、一応は画数とか知って、みすみす不幸になる名前は避けたいと思いましてね」
「それに伯母さんの手前、由緒正しき本があると、言い訳になりそうだし」

「ああ、なるほどね。しかし、名前よりもまずお産が先でしょう。ふたごさんだし、絶対に無事に生まれてきてもらわなきゃ困る。そだそだ……」

 ぶつぶついいながらカンさんはゆっくり立ち上がり、掛け軸や額などが無造作に置かれた奥の部屋のあちこちを物色したかと思うと、えらく古びた本を携えてきた。埃を払いながらページを開いている。

「この本、お祝いに差し上げましょう」
「それこそ気がはやいんじゃない?」
「いや、ふたごさんの存在の祝福ですよ。分かちがたい美しい魂への賛歌ですな。それに、これはお産のことがかいてあるから……」

「これもまた、古そうですね。この前ここで買った『比売鑑』みたいなものですか?」
「ええ、ええ、そう、そう、そうです」

 古書の話になるとカンさんの表情がどこか明るくなる。爪の大きなほっそりした指がうれしそうに古書の上をすべる。そこに書かれていることを指が愛でているようだ。

「カンさん、読んでみて」
鼻の下に玉になって浮かんだ汗を拭きながら絹子がせがむ。カンさんは作務衣の紐を括りなおし、老眼鏡を取り出して読み始める。

「では、えー、『……心におもう事なく、願う事なく、怒りもなく、恐れもなく、産の時の事も、天命にまかせて気づかわず、ただ心の内、つねに静かにして、かりそめにも騒がす事なく……』 これはサトリのようですねえ。絹子さんにそんなことできますかねえ……」
 正直なカンさんは思ったことを口にする。

「もうー、いいから、先読んでくださいな」

「どこだったかな……そうそう『身、重くて苦労なりとも、常によきほどに立居はたらき、寝たくとも再々は寝ず、折々ははれやかなる所に出て、遠くながめて気をのばし、心をなぐさめ』っていってますよ」

目を上げてカンさんは言う。

「ねえ、うちなんかに来てていいんですか? もっとはれやかなるところへおいきなさいね」

「ぼくたち、この『雑木林』、好きですよ」
「うーん、時生さんはそうでしょうけどね」
「あ、わたしも好きよ。なんかおちつくもの」

「それならいいんですが。えー、続けますよ。『食事も、何にても、さしいでたる物、つよく冷えたる物、つよく熱き物、いずれも飲み食わず』、アイスはダメですね」

「わかってます。がまんしてる・・・」

「それから『第一、つねの時よりはひかえて過ぎざるように食し、飢えたらば少しずつは、いくたびも食すべし。かくのごとくするを、おおよう保養よしとはいうなり。保養よくして難産する人は、百が中にひとりもあらじ』だそうですよ。

つまり、あまりのうのうとしてはいかんし、あまり食ってもいかんようですよ。」

でもねえ、なにしろふたごでもあることだし、と絹子が重大事を告げる口調で言うと、そう、分かちがたい美しい魂のふたごですものねえ、とカンさんが感慨深げに腕組みをする。それを聞いて時生は、そうなんだよなあ、ぼくたちのふたごなんだよなあと、不安そうな顔になる。

なんだかふたごというものが選ばれた人種で、特別なルートで人知れぬ艱難辛苦を乗り越えてこの世にやってくるように思えてきて、三人とも荒海に向かって処女航海の無事を祈る灯台守のような神妙なこころもちになってしまう。

が、しばらくすると、妙にかしこまっている自分たちがだんだん可笑しくなってきて、時生と絹子が顔を見合わせて笑ってしまう。さすがのカンさんもこらえきれず声を出して笑う。羅漢さんのように笑う。

その笑い声に応えるように、かかかか、かあかあかあ、とカラスの鳴き声が庭のほうから聞こえてきた。見ると灯篭の上にハシブトガラスがいる。鳴きやんでもなにやら思案気に小首傾げてこちらを見ている。

「なんか、あのカラスもいっしょに笑ってたみたいね」
「ああ、そうですよ。笑ってたんですよ。あれはケンです」

「カンさんが名前付けたんですか? ていうか個体を識別できるんですか」
「ええ、できますよ。あいつはとても賢いやつなんで賢いという字のケンです。あいつ、うちの物干し台に来てね、針金ハンガーをくわえていくんですよ」

「あ、きっと巣作りに使うのね」
「そう、はじめてきたのは巣作りの時期でしたよ。あたしの洗濯物なんてたかがしれてて、夜、風呂場でTシャツをちゃっちゃっと洗ってぱっぱっとハンガーに掛けて干しとくんですが、朝、そいつを取り込もうと思ったら、Tシャツだけが物干し竿にふわってかけてあって、ハンガーがないんですよ」

「つまり、あのカラスがはずして持ってったこと?」
「ええ、そうなんです。あたしも不審に思ったんで次の日に気配を殺してこっそり偵察しました」

 その場面を想像しながら時生と絹子は顔を見合わせる。偵察しながらつるりと頭を撫でるのかと思うと、くすっと笑いがこみ上げてくる。

「おかしいですか?」
「いいえ、そんなことないです。で、ケンははずしたハンガーは横に置いておいて、わざわざTシャツを竿にかけるんですか?」
「ええ、嘴にひっかけてふわり、とです」
「すっごーい。それはやっぱり賢だわ」
「しかも、なんというか、仁義がありますよね」
「ええ。そこがケンのすごいとこなんですよ」

 ケンは首を傾げたまま、そんな話も一部始終、じっくりと聞き入っているように見える。

「遠からずカラスの惑星になるのかな、なんて思ったりしますよ。カラスのお情けにすがって生きる、なんて日がきませんようにと願いますがね」

カンさんはときどき人類の未来に悲観的な意見を述べる。そんなことばかり考えているから閻魔さんに呼びつけられてしまうんだわ、と絹子は思う。


「それはないでしょう」 

「いやいや、やつらの学習能力をなめてはいけませんよ。どっかの神社か寺の境内に鳩の餌の自販機があって、 カラスが賽銭箱からお金を盗んでその自販機で餌を買って食べているって記事を読んだことがありますよ」


「マア、嘘みたい。そんなことができるなんて驚き!」

そんな人間たちの驚きをよそに、ケンはもう雑談はおわりだよと告げる合図のように「かあー」とひとこえ大きく鳴き、翳りのない真っ青な夏の空へ舞い上がった。バサバサバサという羽音が耳に残る。

ケンの後を追うように伸びをしながら庭に出た時生が太陽を見上げて宣誓をする選手のように大きな声で言う。

「これから先の地球が何の惑星になってもそれは人類の自業自得というもので、仕方がないことなんだけど、ぼくたちのふたごには、できればどの生き物ともどんなひととも偏見なく揉め事なく目くじら立てずに仲良くくらしてほしいと思います」

まだ生まれてもいないふたごの未来を案じながら、そんなことを口にする時生はまた分別くさい養護学校の教師の顔になるのだが、ふたごのことを口にする一瞬その眸がとびきり深い色になる。その瞬間の表情を、格別いとおしいと絹子は思う。

「ウッ……」
「どうしました、絹子さん」
「痛むのか? 絹子」
「ふたごがそろってキックしてる。時生さんの今の言葉に返事するみたいに、なんか大暴れしてるわ」

「おおー。ふたつの美しい魂がこんなにも元気で、あたし、うれしいですよ。……ああ、あたし、……なんだか不思議な気分なのですが、……いやあちょっと長生きがしたくなりました。その魂たちのそばにいたいですよ」

「うん、ずっとそばにいてね、カンさん」

 絹子の言葉にカンさんはまた困ったようなまぶしそうな目になる。

「絹子、ふたごがはやく名前をつけてよ、って催促してんじゃないのか?」
「ああ、そうかもしれませんよ。そうそう、名付けの本を探してきましょう」
 カンさんが本を探しに立った。いつにないすばやい動きだった。           

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️