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ざつぼくりん 45「虫食いⅠ」

厳冬だった去年の記憶がそう思わせるのかもしれないが、十二月も下旬だというのに、今年はなんだかあたたかい。今日は日差しこそないが風はなく冷え込みもしない。季節が身動きを止めたような一日だ。


曇天の昼下がり、志津はひとり「引き込み運河」沿いの遊歩道を行く。群れたゆりかもめが運河の水面をかすめて飛んでいくのが見える。飛んでいったかと思うと、短く鳴き声をあげながら、繋留された船のそばのほそいコンクリートの壁のうえに、きちんと整列するように舞いおりる。


志津はたちどまり、ベンチに腰かける。今年は紅葉がおそく、遊歩道脇に植えられた木々はためらいつつまだらにその色を染めかえ、ひとびとが流れ解散をするようにゆるゆると散っていった。遊歩道に覆いかぶさるように伸びた桜並木にはそれぞれ残り葉が数枚、未だに散りそびれている。志津に頭のうえのほそい枝には黒い斑点のついた黄ばんだ葉がしがみついていて、その葉にあいたいくつもの虫食い穴から乳白色の雲がちいさく見える。あの葉っぱは今のわたしかもしれない、と志津は思う。



時が至れば、桜の木は芽吹く。そして時の流れの中で折々の顔を見せる。天気がよければその木かげを肺のよわった孝蔵のペースにあわせてゆっくりと歩いた。ここ数年の日課だった。ふたりの会話は、一人息子を亡くした夫婦の日々の外側を縫うように、季節のめぐりと身近なだれかれの消息に終始した。


開田モーターズの先代のあるじのこともよく話した。

「……開田のじいさん、若いときはけっこう腕のいい整備士だったんだぜ。……本田宗一郎が先輩だったってよく自慢してたなあ。……むかし湯島の自動車工場にいたんだってよ。……ここいらのやんちゃなおとこたちは……みんなじいさんのこと尊敬してたな。……ここのところ耳が遠くなっちまってたけど……むかしはエンジンの音聞いただけで車種がわかったし……悪いとこをぴたりと言い当ててた。……はずれたことなんかなかったんだぜ……」


爪を真っ黒にして、工具片手に車の下に潜って人生を送ったあるじは、子供の健康を気遣うようにエンジン音を聞き、それぞれの宝物である車の危機を救ってくれた。あるじの逸話はこのあたりに住むかつてやんちゃな若者だったおとこたちの誇りだった。集まって開田モーターズの話題になると孝蔵の友人たちはみな相好をくずし、どんなふうにあるじと関わったかを誇らしげに語り出すのだった。


「そういえばお葬式にけっこう若いひとがみえてたものね。……いつも店先の椅子にちょこんと座って、静かに表を通るひとを眺めてたわ……正夫さん、さびしくなるわね」

「いや、足腰弱ってもうほとんど歩けなかったし、痴呆もかなり進んで……昔のことしかわかんなくなってたらしいぞ……長生きするのも罪なことさ……ここだけの話、正夫も嫁さんも……どっかでほっとしてんじゃねえのかな。」


「あれでなかなかお盛んで、初老になってからの駆け落ちしたったって前に言ったろう?」
「ああ、。わたし、何べん聞いても信じられない。ひとはみかけによらないのねえ……でも、おじさん、まだまだお元気そうだったのにね……」

どのひとを見送っても、そんなことばが口をついて出た。そのひとの元気だった日々の記憶がそういわせるのだろう。その時は「そうだな」と答えていた孝蔵自身が、今年の夏を乗り切れなかった。


運河のむこうに建ち並ぶ大きな建物の上を飛行機が飛んでいくのがみえる。羽田から飛び立った大きな機体は傾きながら北へ向う。その身に塗られた鮮やかな色が雲に映える。ここからそこへひとはずいぶん早く移動するようになったけれど、どんなに高みを飛ぼうともたどり着けない場所もある。志津が生きている限りそこにはたどりつけない。志津の思いはこの地上で過ぎた時間へと旅するばかりだ。



この遊歩道で時生と絹子夫婦に会ったのは五年前の夏のおわりだった。一日の熱気が引き始め、虫の音が足元からたちのぼってくる夕暮れの道を、ふたりがこちらに歩いてきた。そのときはそれがどこの誰とはわからなかった。おなかの大きな妻が重たそうに足を進め、夫はそれをかばうようにして歩いていた。若い夫婦の微笑ましい光景だった。


それを見て、もうずっと忘れていたこと――ただ一度だけ孕んだ遠い日の記憶のなかの晴れがましく幸せな重みが、うずくように志津の身のうちにかえってきた。そして志津の身体を見つめる、若い夫だった孝蔵の眩しげな視線も蘇ってくるのだった。そろって肉親に恵まれなかった孝蔵と志津は、自分たちに繋がる新しいいのちの誕生をどんなに待ちわびたことだろう。ふくらんだおなかをいとおしげにすべる孝蔵の指の感触も志津は忘れてはいない。


十八歳で死んだ純一は志津の思いのなかでいつまでも年を取らないが、同級生だった時生は結婚して、子供が生まれる。それはごくごく自然なことなのだが、志津は一瞬虚をつかれたような思いにかられた。普段は意識的に思いのそとに置いている純一の断ち切られた時間が、まぼろしのように伸びていった。純一が生きていれば妻を得てもう親になる年なのだ。孝蔵と志津が「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼び慕われる日がそこにあったかもしれない。ひとり息子を亡くした志津はもはや孫をもつことはないが、時生の子であるふたごも祖母を持たない。時生の母の香苗は病の床できっとこんな日を夢見ていたにちがいないのに。


志津はその後何度も、ここで時生夫婦に出会ったことの意味を探った。なにかしら見えない手が自分たちを引き合わせたのではないか、ひょっとしたらそれは香苗の想いなのかもしれない。そんなことを孝蔵に告げると、「ああ、そうかもしれねえな。……あのひともそりゃあ無念だったろうよ」としみじみとした声が返ってきたのだった。


運河の堤防の斜面に、セーラー服姿の女子高校生がふたり並んで座っているのが志津の目に入った。髪を軽い茶色に染めた二人は、スナック菓子の袋をやりとりしながら背中を丸めて内緒話をしては笑いあっている。「いやーだー」なんて甘えたような声が響いてくる。短いスカートから伸びる白い腿が眩しい。学校はもう期末テストの時期で、今日は早く終わったのだろう。クリスマスの計画でも立てているのかもしれない。街は楽しい季節だ。

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