ざつぼくりん 13「爪の形Ⅲ」


庭の隅で去年のシソのこぼれ種が育っている。もうそろそろ採ってもいいだろう。

春は毎年庭の一番日当たりの良い場所に小さな菜園を作り、茄子やトマトの苗を植えていた。欠かさず水遣りをした。苗はぐんぐん伸びた。

夏の昼下がり、白い日差しが揺れて差し込む縁側で、孝蔵と純一が摘み取ったばかりの艶やかなトマトに噛り付いた。

時折涼しい風がふたりのそばを通り抜けていった。ふたりは「うまいな」と満足げに言った。純一の口元からゼリーのような種と汁が垂れて白いTシャツを赤く染めた。

孝蔵の大きな黒い傘を差して庭に出る。部屋の光が縁側のガラス戸から落ちて、細かな雨を浮かびあがらせる。植木の葉に傘先がふれると、ぼぼぼっと溜まっていた雨が傘に落ちる。

雨が降り注いだ柔らかな地面に足跡がついていく。その足跡をまた雨がなだらかにする。不ぞろいで虫食いのシソの葉が雨に打たれている。

「スーパーのシソは農薬いっぱい使ってるから葉っぱがきれいなのよ。シソなんて本来虫が食うものなのよ。怖いのは虫じゃなくて、その農薬よ」

そう言ったのは篠崎の妻だ。健康にあれほど注意していたのにがんになってしまった。

二合の米を研ぐ。純一がいなくなってふたりだけの食事を用意するようになったとき、ふたり分という量の目安がわからなくなっていた。

純一は何度もおかわりをした。大きな弁当も持っていった。どうしても多めにご飯を炊いてしまう。あ、いけないと思って二合だけ炊いた。それでも余った。米を研ぐ指先が量の少なさに戸惑っていた。

指先に力を入れてぐるりとまわし手のひらで押さえつける。こころのなかでいーち、にーと勘定する。十二までいったら水で漱ぐ。米粒をこぼさないように水を捨て、また同じように研ぐ。

そんなに癇症になるな、栄養がながれちまう、と孝蔵はよく言うが、こうしないとぴかっと炊き上がらないように思う。水加減をしてしばらく置いてからガス炊飯器のスイッチを入れる。
     

純一の遺品が家中に残っていた。運動靴も学生服も鞄も茶碗も布団も漫画も歯ブラシも登山ナイフもみんなそこにあるのに、主がいない。純一が最後に手を触れたそのままに、純一を待っていた。

道具箱を開ければ鉋が出てくる。木戸を修理する孝蔵の横で幼い純一は手に余る鉋を大事そうに抱えた。誇らしげな顔つき。純一は孝蔵がかけたすべすべの鉋跡を撫で、足元に落ちた鉋屑を陽にすかして遊んだ。

金槌もある。夏休みの宿題で純一が小さな木の本箱を作った。純一が釘を打つそばで孝蔵が「まっすぐ打てよ」と気を揉んでいた。いっしょに紙やすりをかけていたとき孝蔵の腕の昔の傷跡に気づいた純一は「痛かった?」と聞いた。

幾晩も孝蔵の漏らす嗚咽で目が覚めた。

並んだ布団の向こう側で、志津に背を向け壁に向かって孝蔵は声を殺して泣いていた。泣いているとわかっていながら志津は何も言えなかった。身じろぎもせず、ただその背中を見ていた。

志津はいつものように夜明け前に目が覚めてしまう。もう純一を起こさなくてもいいのだと気づいて胸が詰まる。そんな気配を孝蔵の背中が感じ取っていた。

四十九日が済んで、高崎へ向かう準備をする志津に、孝蔵はいらいらと煙草を吸いながら「しばらく離れて暮らそう」と切り出した。

「なぜ?」と志津が聞いても孝蔵は答えず、ただ煙草をふかす。

長い沈黙のあとぽつんと「いっしょにいないほうがお互いのためだ」と答えた。

「どうして?」と志津は繰り返し訊いた。何度繰り返しても孝蔵は深い目をして首を横に振るばかりだった。

初めて老人ホームで出会って二十五年がたった同じ季節に孝蔵は志津を置いて出て行ってしまう。

孝蔵の輪郭が淡くなったような力ない後姿を見送りながら、その後姿が闇のなかに溶けてしまいそうな気がした。

孝蔵は長くその闇から帰ってはこなかった。

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