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ざつぼくりん 11「爪の形Ⅰ」

稲光が空中を走り、大きな落雷の音が響き渡った。 

ひやあ、と志津が声を上げると、居眠りしていた孝蔵が目を覚まし、点けた灯りにまぶしそうな顔をする。そして耳を抑えて小さくなっている志津を見てかすかに笑う。

「こんなばあさんになっても、志津は雷が怖えんだな」
「じいさんになったあなただってほんとは怖いんでしょう?」
「ばかいえ」
「そうですか?」

「おい、なに読んでるんだ?」
テーブルに置かれたプリントにちらりと目をやりながら孝蔵が聞いた。

「明日、地区センターの教室でやる短歌。予習してるんですよ」
「五七五七七のなにが楽しいんだい? みんな似たようなもんじゃねえのか?」
「そうですね、似たようなものですね。でも盆栽だってそうよね。どれもちまちま短く刈り込んじゃって」
「ばか、盆栽は違うぞ」
「短歌だって違いますよ」
「もういい」

気がつくと孝蔵の眉間の皺が深くなっている。喘息の発作の不安があるのだろう。仕事を離れてから、孝蔵は時折、路地の突き当たりのようにさびしい横顔を見せる。

    
「あんた、いい声だねえ。なんだか懐かしいような声だ」
訪問した老人ホームからの帰り道で二十八歳の孝蔵が言った。

人通りが少ない休日の商店街が駅まで続いていた。ぽつぽつと居酒屋の灯りがつき始め、町は夜の顔に変わっていく。街灯が作る淡い影がふたつ長く伸びていた。

「まあ、そんな・・・。あの、太鼓、勇壮でした。体を鍛えていらっしゃるんですね」

二十三歳の志津が言葉を返す。敬老の日の催しにふたりは参加した。ある劇団に所属していた志津は詩を朗読し、囃子連の孝蔵は和太鼓を叩いた。

「俺、大工だからさ、身体だけは自信あるけど太鼓は仲間と呼吸あわせなきゃなんないから、むずかしいさ。あんたの詩もよかった。俺、あれ好きだよ」

「そうですか。ありがとうございます。あの……」

「あ、俺か? 俺はあやしいもんじゃねえよ。沢村孝蔵。親孝行の孝に蔵前の蔵だ。もうとっくに親はふたりとも死んでんのにな。」
片頬に笑みを浮かべて孝蔵がさらりという。

「ああ、そうでしたか。ご苦労なさったんですね」
「まあ、そんなの俺だけじゃねえし、みんな似たり寄ったりさ」

「……私の父も早く死にました。あ、わたしは三上志津です。志しに津波の津です」

恥ずかしそうに志津が頭を下げると結んだ髪が背で揺れた。

「劇団に入ってるんだろ? 役者になるんかい」
「そのつもりではいるんですが、実は劇団の寮に入りたかっただけかもしれません」

「事情があんのかい?」
「ええ、母の再婚先が大家族で、こき使われる母を見ているのがつらかったし、自分も居場所がないみたいで」

「そうかあ、あんたもたいへんだったんだな。俺は預けられた家が大工でさ、ひととおり仕込んでもらって、今もそこで働いてるさ。」

家々の窓から落ちるあかりとあたりの暗がりのだんだら模様のなかで、気がつくと互いの身の上を話していた。

改札口で駅員がちらちらとこちら見ているのを気にしながら、孝蔵が「また、会えるかな?」と聞いた。

しばらく考えて、志津がこっくりと頷くと、孝蔵の笑みがゆっくりあぶり出しのように広がっていった。

休みの日にふたりで浅草の裏通りを歩くと孝蔵の知り合いらしい人が笑顔で「孝ちゃん」と声をかけてきた。

自転車に乗ったひとや何人か連れ立ったひとたちもいた。仕事や太鼓の仲間だと孝蔵は言った。どの人も孝蔵と同じように陽に焼けた顔と逞しい身体で、これから原っぱへ虫取りにいく少年たちが誘いにきたような笑顔だった。

孝蔵はいつも「おう」と答えた。志津は男たちが交わすその短く力強い言葉が好きだった。

「志津の目は猫みてえだな。ちょっと怖えな」

花見に行った上野の不忍池で孝蔵が言った。桜を惜しむ見物客の頭上で、薄桃色の花びらが風とたわむれるように舞い続け、やがて池の水面へ落ちていった。

「きまぐれにふっとどっかへ行ってしまいそうでな」
そういうと孝蔵は視線を池の向こうに投げた。

「そんなことないです。わたし、どこにもいきません」

志津は孝蔵のまっすぐな瞳に映っている自分が好きだと思った。ずっとこのひとの瞳に映っていたいと願い耳元でそう告げた。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️