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金津遊郭の成り立ち

西柳ヶ瀬の一部は明治21年から戦前まで金津遊郭が存在してましたが、その後は岐阜市の手力地域を経て現在の金津園の場所になりました。

ちなみに岐阜空襲で焦土と化しているのでその流れの建物はもうありません。

金津遊郭を設置された理由は岐阜市制まもない時期で当時金が県外に流出しないようにと、地方税、県民税の収入増によって土地が繁栄するというものでした。税収も増え賑わうわけですからね〜

この時に連署に名を連ねたのが
#大矢富次郎
#阪井田民吉  
#千種治平

現在も名前をもじった
大富町、栄枝町は存在します
残念ながら千歳町はなくなっています。

当時柳ヶ瀬界隈は柳ヶ瀬川が流れ、柳が垂れているような、沼地で今のような街ではなかったようです。

また開設あたり負担金を差し出しその負担金で今の神田町通り、今の柳ヶ瀬本通りが整備され今のJR岐阜駅や岐阜高校敷地が買収されており岐阜の中心市街地の資金に活用されました。

また岐阜に過ぎたるものがある!
と全国的に名が知られたのが
鵜飼と浅野屋(最先端の遊郭)だったそうです。

東海道や中山道の宿も多く、当時国鉄で東京〜大阪を目指すと名古屋あたりで1泊する必要があったのです。
また愛知県一宮市近郊は織物の産地で良品がつくられ、仕入れにきた商人は岐阜の金津遊郭や鵜飼で遊んだようです。

ちなみにモーニング文化も商人が素泊まりに泊まると朝食に喫茶店でコーヒーと軽食を食べたり、商談で一日喫茶店が使われたことから根付いたようです。

話はそれましたが、時代はながれ女性の地位向上、新幹線ができ繊維産業が寂れた岐阜市は観光のみで盛り上げるのは厳しい時代なのだ。

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