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合否と点数が分かったら全体公開にするやつ(合格したー!やったぁ!)

マガジンで公開したものなのであげなおしです₍ᐢ.ˬ.ᐡ₎
上記の⤴記事を先に読んでくさると助かります!

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近代とはリスクを負って生きてきた時代である。-制約の中の自由と、享受するための自己-

◾問題提起(序論)生きてない、死んでないだけ。
ポストモダンを生きる私たちは無意識に思考する自由を放棄した根無し草だ。
インターネットの普及により広がり続けるグローバリゼーションや溢れる情報の波に溺れないようにしているので、情報や出来事を把握することに必死でそのことについて思考することが疎かになっている。
戦争は良くないことだよねと話しながら国家イデオロギーが崩壊した後に生まれ育っているので、我が身に降りかかっていたとしてもどこか大多数の人間は画面越しの他人事のように振舞っているのである。
近代を生きていた偉人たちをみるとリスクを負って公権力に石を投げていたと思われる。(アンガージュマン)
しかしポストモダン生きる私たちは生きてはおらず死んでいないだけなので、公権力に石を投げるより石を投げられないようにしているのである。
近代とはリスクを負って生きていた時代である。

実名や顔を公開して華やかに活躍する「陽キャ」と目立たないように匿名で楽しむ「陰キャ」という構図は、近代に活躍した偉人たちとその時代を生きる市民たちという構図と類似している。
しかし市民たちには大きな違いがある。
それは急速に普及したSNSに起因しているのと考えられるのだ。

◾意見提示(本論①)変化したメディアと普及したSNS-群衆はイメージのゴースト-
明治に義務教育が始まり徐々に教育が市民にも広がり、誰しもが新聞でニュースを取り入れるようになった。
昭和はテレビが普及し一部の階級の人間しか関わりのなかった新聞に書かれていた社会的なものもお茶の間に流れ出し教育は「特別」でなくなってきた。かわりに映画やテレビに出られる芸能人が「特別」になり銀幕スター達のゴシップが憧れや成功のイメージのように放送されていた。
そして新聞とテレビという2大メディアが一方通行的に発信することをそのまま受け入れ、世の中の事に対して自分で調べない受け身人間を大量に生み出していく。
平成になると2ちゃんねる・ニコニコ動画・mixiなどのインターネットに起因したサブカルチャーが活発になりはじめ特別な人だけが画面の中に登場出来ていた時代から、名も無き一般の人も画面の中に登場できるようになる。
そして同時にマスメディアでは取り上げないニュースや電車内でのトラブルなど身近で小さな社会問題を晒上げたネット私刑も台頭しだし、卒業アルバムや住所などが晒されることが問題になり始めた。
そして令和になると自分の顔や日常をシェアすることに抵抗感がないデジタルネイティブが活躍し始める。
以前は限られたメディアからしか得られなかった海外の情報にいつでもアクセスでき自ら発信することも可能になり名も無き市民達は力と自由を得たように思えたが、それは無意識にアイデンティティを奪われ続けていくことでもあったのだ。

◾論拠提示(本論②)MZ世代が授かった代償のパラドックス
シェア/デジタルネイティブ世代が活躍するようになるとリアルの世界よりネット上の世界の方に重きが置かれるようになった。
本来インターネットは世界中のあらゆるものと繋がれるものなのに、あまりに身近すぎて自分の投稿が世界に発信されているという自覚が生まれないというパラドックスが起きてしまっているのだ。
その結果「身内のノリを世界に発信して炎上する陽キャ」と「そんな陽キャを見て育った陰キャ」という構図が生まれる。
陽キャはリアルを生きているのでネット上で炎上してもその後の人生を生き抜いていけるが、陰キャはネットがリアルなので炎上でもしたらそれこそ「世界の終わり」なのである。
Twitter・ゲーム・VRチャットでの居場所を取り上げられたら途端に孤独になる。
なので大多数の人間は叩かれないよう・炎上しないように生きるようになる。
その結果「自分がどうしたいか」というアイデンティティは育たず、効率を重視して「どうすれば正解か」の答えを先に求めてしまうようになったのであろう。
成功はしなくてもいい、失敗さえしなければ。という価値観が蔓延しだしているのは
自由を得た代わりにアイデンティティを取り上げられてしまったからと考えられる。

私の生徒さんは現に芝居という自己表現の場なのに「どうやればいいですか?」と答えを求める人が多い。
インターネット・SNSの普及により令和になった今アニメ/ゲーム等のいわゆるサブカルチャーだったものが市民権を得てポップカルチャーへ成り上がり、「オタク」という言葉が侮蔑ではなくステータスとまでなった。
人気声優・アイドル声優という記号にアイデンティティを見出しているから、芝居(自己表現)の根幹である自己を見失っているのである。
逆説的に自己を持っていたら炎上してしまうので持たない方が安全と思っている。
そのため「こうやりなさい」と言われたことしか出来ない。なぜなら炎上した時の保険として無意識に「責任逃れ」をしているからなのだ。

▪親指の暴力
昭和の時代までは学生運動やデモで命を落とす人も居たが、ポストモダンを生きる私たちは自分の命や生活を犠牲にしてまで活動する必要がなくなったのである。
コスト・タイムパフォーマンスが悪いことはしたくない、思想が強い人というレッテルを張られたくない、けれど現状に不満を抱いている。
そんな時は虚構で起こす行動で欲求を満たすのである。
近い思想の誰かの発言に♡とRTをすれば社会に参加した気持ちになってしまうし、炎上している人に♡とRTをするだけで制裁を加えられた気持ちになってしまうのである。
「自分は発言していない」から罪悪感もない。
顔も知らない誰かの発言に乗っかった無責任な親指の暴力を日々行使しているので、リスク・自己・責任が徐々に溶けて薄れていくのである。
群衆も実態からイメージとなり、アイデンティティは記号となり果てたのだ。
その結果 政治と民衆の距離は離れ続け国家イデオロギーは今この瞬間も緩やかな崩壊を続けている。

◾結論 近代とはそれぞれが自己と責を持っていた時代である。
グローバリゼーションの波は諸外国だけではなく、Virtualの世界にも広がりをみせている。
ポストモダンを生きる私たちは肉体を持つ現実とネット上の虚構の狭間で生きている。
どちらの世界で生きていくにしても、責任がついてまわる。
そのためには放棄した「ふり」をしているアイデンティティを確立し自己を取り戻さなければならない。
自己とは、責任である。
その二つを持って生きることは誰かと対立するかもしれないリスクを内包している。
しかしリスクを避けていたら自分の人生を自分で選択し歩んでいけなくなってしまうだろう。
自己はどんなアバターやカラダを手に入れてもゆるがないものである。
黒船により新しい宗教観や外国文化を取り入れながら日本文化として昇華してきた近代に習って、新しい時代の波を迎えている我々もただ流され受け入れるのではなく、リスクを受け入れ自己を持って生きていく世界を選んでいく必要があると予想される。



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