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【支援の視点―能登と東北】①共に乗り越え 信頼深める

※文化時報2024年4月12日号の掲載記事です。

 能登半島地震の発生から3カ月が経過し、一部地域で復興の芽生えが見られる一方、石川県珠洲市や輪島市ではいまだ避難所生活を余儀なくされる人々がいる。これまでさまざまな宗教者が支援活動に取り組んできたが、現在の支援は未来に何をもたらすのだろうか。被災から13年が経過した東日本大震災での宗教者による支援活動を振り返りながら、能登半島地震の被災地を見つめたい。

「手を合わせる場」守る

 ずぶぬれになった人々が、高台にあるお寺に逃げ込んできた。2011(平成23)年3月11日、岩手県釜石市の日蓮宗仙寿院。東日本大震災で同市を襲った高さ9.3メートルの津波は、市街地の約6割をのみ込み、境内はかろうじて助かった人々であふれた。

 釜石市では災害関連死を含め、994人が亡くなった。「神も仏もない」との住民の叫びに、津波を目の当たりにした芝﨑惠應住職も、仏の教えを疑いかけた。

 われに帰ることができたのは、当時25歳だった長女の瞳さんの言葉だった。「仏様の教えがあるから、こうして人様に尽くせているのでしょう」。芝﨑住職は「悲しみや苦しみに向き合う宗教者としての在り方を考えさせられ、前進する気持ちが奮い立った」と振り返る。

 仙寿院は、600人余りの住民が身を寄せる避難所になり、寺族の生活スペースを含め、お寺全体を開放。ありったけの衣服を提供した。お寺にあったお供えだけでは足りず、避難した人々と共に周辺の崩れた建物の中から食べ物を探し出し、分け合った。

東日本大震災で仙寿院は避難所になった=2011年3月(仙寿院提供)

 お寺に避難してきた住民を置き去りにして、自分だけ逃げた住職もいた。その住職は、地域住民の信頼を失い、全ての檀信徒が他の寺院へ移ったという。

 釜石市の人口は大きく減少したが、相談やお参りに仙寿院を訪れる人は、震災前より増えた。芝﨑住職は言う。

 「本尊や本堂を失っても、遺族が手を合わせる場を守るべきだ。復興後に戻って袈裟(けさ)を着けても、僧侶として認めてもらえない」

思いを語り、助け合う

 能登半島地震で液状化現象が発生し、全域で断水が続いた石川県七尾市。指定避難所になっていた日蓮宗妙圀寺には地震が発生した元日の夕方、一時約30人が避難した。ただ、お寺の中は物が散乱し、足の踏み場もなく、余震が続く中で建物内にとどまることは難しかった。

 境内にパイプ椅子を出して、お寺の行事で泊まり込む人のために用意していた毛布やカイロを配った。夜9時になって、近隣の小学校が避難所として開設されたとの情報が入り、住民らは移動していった。

 翌2日に日蓮宗寺院の有志から支援物資が定期的に届くようになり、あらかた片付いた4日から支援物資の配布場所を開設。断水が続く中で、井戸水から生活用水をくんでもらえるようにした。

能登半島地震で妙圀寺が本堂に開いた支援物資の配布場所=1月13日

 物資を取りに来た人は、生活のつらさを語った。鈴木和憲住職は「共に被災した人間として、思いを語り合った。私自身も助けられたと思う」と話した。

 市内の商店が営業を再開し、物資の需要がなくなったため、2月末で配布を終了。3月上旬に断水が解消され、生活用水をくみに来る人もなくなった。それでも市街地で、物資配布をきっかけに出会った人から声を掛けられるようになった。

 鈴木住職は「現在は、仕事に通いながら、自宅の片付けなどを行っている人が多い。まだまだつらさを抱えている人は多いだけに、心を癒やすイベントなどが必要だ」と話した。

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