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【本】舞城王太郎「好き好き大好き超愛してる。」感想・レビュー・解説

祈り、とは何だろうか?


少なくとも僕は、普段の生活の中では祈らない。神様仏様なんとやらに、これこれあれこれでどうなってほしいとか言わないし、他のどんなものに向けても僕は、祈りらしきものを発しない。あるとしても、儀式としての反射的な行為ですらある、神社などでのお参りぐらいだろうか。


祈り、とは何だろうか?


イスラムだかなんだかの人は、1日に何度も、アーメンだかコーランだかメッカだかの方向を向いて祈る。ただひたすらに祈る、彼等が何に対して、どんなことを祈っているのか僕にはわからないし、むしろそうしたありきたりの祈りとは次元が違うものなのかもしれないけど、でも彼等は祈る。
あなたは、誰かに、何かに、祈りを捧げるだろうか?


本作の内容とは大分無関係だけど、本作には、祈り、について面白い記述がいくつかある。まずそれを抜き出してみようと思う。

(前略)
祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡でを起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕達が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
(後略)

「過去について祈るとき、言葉は物語になる。」この文章はかっこいいと僕は思う。物語を文章で紡ぐ作家だけではない。記憶として思い出を保有している僕らだって、祈りは物語に変わるし代わる。

(前略)祈りとは、ただ、何かを求めていると、それをくれるわけではない誰かに、あるいは誰でもないものに、訴えかける行為なのだ。
(後略)

祈りを捧げる対象が、願いを叶えてくれるわけではない。そう思うことが祈りの第一歩なのだろう。そうして初めて、祈りとなった言葉が価値を生む。

(前略)
無駄と知りながらも言うべき言葉は、一つの祈りだ。
(後略)

願いを叶えるためだけではない。自分の願望が現生してくれることを望むわけでもない。ただ純粋に、わけもなく、素直に、ありのままに、祈るために祈ること。祈ることが世界に何の影響も与えないという中で、それでも口をついて出るべき言葉。祈りは、とても美しさに満ちている。

舞城王太郎の作品は、僕に「解放」を言う言葉を与える。


小説を読む、という行為は、僕にとって「解放」とは大局の位置にあるものだ。作家の訴えたいこと、伝えたいこと、残したいこと。大層な哲学や思想でなくてもいい。作家の自己満や傲慢さであってもいい。とにかく作品の中から、その作家からしか、その作品からしか読み取ることのできない限定的な何かを、文章や単語や文字に至るまで読み尽くして手に入れる。大げさに言えば僕にとって読書というものはそういうものだ。


特にミステリーというジャンルを読んでいるとそうなる。あれでもない、これでもない、と様々な可能性を否定され、どんどんと思考も視野も限定されていく。もちろん、作家がそう仕組んでいるわけだけど、どうしても収束された何かを見出そうとしてしまう。


しかし、舞城王太郎は僕に、解放を与える。


脳のどこかの栓がボゴッと抜けてしまい、そこから、僕自身にも何なのかわからないありとあらゆるものが流れ出ていく。脳から溢れ出るものが、僕の外側に広がっていき、その分だけ僕の脳が外側にどんどん広がり、ついには世界全体を僕の脳にしてしまっていつの間にか僕の内側に取り込んでしまうような、そんな感じだろうか。


決して収束しない何かがある。それは物語的にというだけのことでは決してない。物語自体も、もちろんどんどん拡張していく。本という物理的な制限をあっさりと突破し、境界を打ち破ってどんどんとこの世界に入り込んでくる。


それだけでなく、物語だけでなく、終わらない何かがずっと続いている。それは時間かもしれないし、思想かもしれないし、文章かもしれないし、舞城王太郎そのものかもしれない。あるいはそれらは全て幻想で、幻想であるが故にどんどんと広がっていくだけなのかもしれない。


とにかく、舞城王太郎の作品は、僕を解放させる。名前だけはある、しかしどこへでもない場所へ僕を連れ去っていくような気がする。そのままそのい場所へ行ってしまいたいというのは、もしかしたら現実逃避なのかもしれないが、もしかしたらその場所こそが現実なのかもしれないじゃないか、という気にすらさせる。


解放されるがゆえに、僕の頭の中には文章がどんどんと浮かぶ。脳が、世界が広がっていく。


その心地よさにきっと負けているのだろう。その魅力に、僕は舞城王太郎の作品を読むことを止められない。


本作は、「恋愛」と「小説」の物語である。「恋愛小説」なんだろうけど、でもたぶん違う。たぶんだけど、舞城王太郎にとって、「恋愛」であるかどうかなんてどうでもいいのだ。「小説」であるかどうかもどうでもいいはずだ。


本作はまず、三つの作品に分かれている。一つは「好き好き大好き超愛してる。」。二つ目は、舞城王太郎自身によるイラスト集「ILLUST GALLERY」。そして三つ目が、「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」である。


「好き好き大好き超愛してる。」は、さらにその中がいくつものストーリーに分かれている。それぞれの作品には、女性の名前がタイトルとしてついていて、その女性と男との恋愛、という形で一応ストーリーは綴られる。舞城王太郎の作品は、紹介するのが果てしなく大変だし、あらすじを全部書こうと思ったら本編よりも長くなりそうなそんな気もするから、ざあっと、こんなだよってことを書き連ねてみようと思う。


体の中に虫が入り込んで手術しなくちゃいけなくなったり、使われなくなった公園の公衆トイレの天井に花壇があったり、ガールフレンドを癌で亡くした作家がいたり、らくだのこぶに乗ってサーフィンしたり、夢を直すキャプテンフックに出会ったり、死んだ彼女から手紙が届いたり、神と戦うためにアダムがイブを操縦したり、秘密を作り出すことで自分を永遠にしたりする。「恋愛」「小説」なのに、ここに書いてあるのだけ見ると、SFすら既に通り越えてしまっているような感じだ。


ただ、ここにはどこまでも愛が描かれている。誰にもどこにでも、愛があることが描かれている。死や戦いなど、圧倒的な重圧の何かを目の前にして、それでも言葉や想いや幻想や触れ合いや気持ちや願いや存在や肉体が、全て愛に変わるのか描こうとしている気がする。何もかもが愛なんだ。暴力的に、ぶっきらぼうに、無造作に、そう伝えようとしているような気がする。
とにかく、愛がある限り、人は苦しむし、それでも愛はなくならない。永遠があるとすれば、それは時間の中でも、言葉の中でも、祈りの中でもなく、愛の中にあるんだ。違うか?


「ILLUST GALLERY」は、その通り舞城王太郎が書いたイラストがそのまま載っている。「好き好き~」と「ドリルホール~」をイメージして描いた作品のようだ。絵のことはちゃんとはわからないけど、力強いし圧倒される。文章だけでなく、絵にも圧力がある。


「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」は一つの作品だ。主人公の俺は、馬鹿な母親が宮館とかいうアホと不倫なんかしたせいで、あれやこれやあって、その宮館に、プラスドライバーを頭に突き刺されてしまった。俺には、あるはずのない幻想が見える。真っ白な花に囲まれ、カップラーメンの集合体となった姉に心配されながら、両目のない熊を着ぐるみした少女に、突き刺さったプラスドライバーをねじられて、チャンネルを変えるようにして、俺は村野誠になる。


村野誠はその世界の中で、世界を救うヒーローだ。調布市の中だけでは全能で、調布市に集まってくる敵をやっつけながら世界を守っている。調布には、調布タワーと呼ばれるタワーがあって、それは俺の頭の中に突き刺さったプラスドライバーで、だからこの世界は俺の頭の中で、俺の頭の中で俺は村野誠として存在している。


村野誠は、額に角を持つユニコーンであるあかなのことが好きだ。その角を村野誠の頭に空いている穴に突き刺してセックスをする。気持ちがよすぎて痺れる。たまらない。


だがそんな生活も、なんだかあっさり崩れていく。なんだかあっさり。あかなが自らの腎臓を取り出して失踪し、俺はその世界に俺がいるのかどうか確かめるために福井に行く。そんな感じ。


相変わらず強烈なストーリー。どこにも収束しないというのはどの作品でも共通で、終わると同時に何かが、しかも別の何かが始まるような、そんな感じさえする。ぞうきんを絞っても絞っても、いざどこかを拭こうとすると、ぞうきんがぐしょぐしょに濡れていることに気付くような感じかな。


どちらの作品も、そしてイラストも、僕にはちゃんと理解することができない。もしかしたら、どこにも着地点を作ってないのかもしれない。みんな、自分の好きなところで世界から切り離される物語なのかもしれない。


きっと何度読んでも理解できないだろう。ただそれでもいい。理解できることだけが、本を読むことの全てではない。読む本全て理解できなくなったら苦痛だろうけど、たまにならいい。そのたまにが舞城王太郎ならなおさらいい。不思議な気分にさせてくれる作家だ。


僕としては、是非にとお勧めしようと思う。しかし、合うかどうかは保証しません。万人向けの作品ではないことは確かだろうと思います。それでも、一度でいいから、何か試しに読んで欲しい。そう思います。


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