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【本】三宅香帆「文芸オタクの私が教えるバズる文章教室」感想・レビュー・解説

「創発」という言葉がある。僕の理解が間違っている可能性はあるが、この言葉は、「要素を足し合わせた時、全体を超える」という意味で使われることが多いはずだ。

例えば、「人間」などはまさに創発だ。人間を要素に分解する方法はいくらでもある。部位ごと、臓器ごと、遺伝子単位など色んなやり方がある。しかし、どんな風に要素に分解し、それをつなぎ合わせても、「人間」にはならない。何故なら、要素を足し合わせただけでは、「意識」は生まれないからだ。人間の意識というのはなかなか謎めいたものであって、どの辺りに源があるのか、よく分かっていない。もちろん、脳が生み出しているのだろうが、「意識の起源」は謎だ。

つまりこれは、人間を構成する要素を足し合わせても「意識」は生まれず、しかし人間には「意識」がある以上、人間という存在は、要素を足し合わせた以上のものである、ということになる。「1+1+1+1+1=5」ではなく「10」になるようなものだろうか。

これが「創発」である。

さて、僕は「文章」にも似たようなところがあると思っている。

文章も、様々な形で要素に分解することが可能だ。言葉の選び方、句読点の打ち方、一文の長さ、人称の使い分け…などなどである。しかし、文章を書いたことがある人なら分かるはずだ。いくら要素要素を足し合わせても、「プロが書く文章」のようにはならない、と。文章を書くというのもやはり、要素の足し合わせでは捉えきれない、「創発」的な行為なのだ。

本書の著者は冒頭でこう書く。

【私はおそらく日本中の誰よりも「読んでて楽しい文章の法則」を研究してきました。
「読んでて楽しい文章の法則」って、言ってしまえば、今まで「文才」と呼ばれ、「あの人には文才がある」「私には文才がない」などと抽象的にとらえられてきたもの。
でもそれを、私は長年かけて、一つひとつがんばって“法則”として言語化してきたんです。それをまとめたのが、この本です】

言いたいことは実によく理解できる。しかしこれはやはり、要素の足し合わせが全体になるという、「創発」的ではない捉え方である。僕は、それがどんな「文章術」であれ、この「創発」という考え方を置き去りにしているようなものは、成り立たないだろう、と考えている。

もちろん、「創発」的な発想における「文章術」について、僕なりにアイデアがあるわけではない。「創発」という要素をどうやって「文章術」に組み込めばいいのかは、正直良くわからない。とはいえやはり、「創発」こそ、文章を書く際に最も押さえておかなければならないポイントであるように僕は思う。

盲目の人が象を触って表現する、という話は有名だ。鼻に触れた人は棒のように太いと言い、牙に触れた人は陶器のようだと言い、足に触れた人は丸太のようだと言い、尻尾に触れた人は縄のようだと言う。どの人の意見も間違っているわけではないし、全部正しいが、しかしそれらを統合して動物を思い描こうとしても難しい。要素に分解することで見えてくるものは確かにある。しかし、要素に分解することで既に、元の文章そのものとは違った何かに変わってしまっている、と言うことも出来るのではないかと思う。これが、「文章術」の難しさだ。

さて、ここまでの文章を読んできっとこう誤解されているだろうと思う。僕は本書を面白くないと判断したのだ、と。いや、そうではないのだ。

本書はたしかに、「文章術」としてはうまく評価することが出来ない。ただ、エッセイとして読めば、非常に面白い作品だ。

本書を読んで感心したのは、よくもまあ色んな文章から、自分の主張に合う文章を見つけ出してくるものだよなあ、ということだ。もちろん、実際には、「この文章について何か書きたい」というのが先にあって、それについて「◯◯の☓☓力」と言ったネーミングをしていっただけなんだろうとは思う。しかしそうだとしても、本やブログやCMに至るまで、様々なものの中から、なるほどこの文章からそういう「☓☓力」を引き出しますか、と感心させられた。著者はあとがきで、

【一番ワクワクするのは、「新しい文体」に出会えたときです。もう、顔が赤くなるほどうれしい。“文体ウォッチング”は、子どもの頃からの私の大切な趣味なのです】

と書いていて、確かに息を吸うように“文体ウォッチング”が出来なければ、この本は書けないだろうなぁ、と思った。

本書を読んで「文体」や「文章力」が身につくかと言われたら、僕はちょっと怪しいと思う。文章を書く、というのは、そう簡単なものではない。こういうような「分析」の及ばない部分、あるいは、要素間の繋ぎ目的な部分にこそ、本当に重要なことが隠されていると思うし、そういうものは、要素に分解した時点で解けてしまうと思うからだ。しかし、「こんな文章から、こんな特長を見つけ出しました!」というエッセイと捉えれば、見事な作品だなと思う。


さて、せっかく「文章術」の本なのだから、普段やることはないが、今回僕が書いたこの感想について、自分なりの分析をしてみようと思う。

まず意識したのは、冒頭の「創発」という単語だ。ここで<良心的釣りモデル>を意識している。「最初に意味不明な言葉を放り込む」というこのやり方で、僕は2種類の違和感を用意したつもりだ。

1つは、「創発」という単語の意味が分からない、という違和感。なんだそれ?どういう意味?というひっかかりを持ってもらえればいい。

もう1つは、「創発」という単語の意味は知っているけど、それがこの本とどう関係するわけ?という違和感。明らかに、「文章術」の本の感想の書き出しとしては違和感のある言葉だろう。

そんな風に冒頭で惹きつけてから、「創発」という単語の説明に入る。そして「創発」の説明をし、著者の言葉を引用することで「僕の独りよがりな受け取り方ではない」ことを示しつつ、<配役固定モデル>を意識している。「言いたいことのセンターを決める」というこのやり方で、「文章を書くことは創発的行為であり、要素に分解しても捉えきれない」という結論に向かっていく。

その後の「象」の話、さらには「誤解されているかもしれない」という話は、<フォロー先行モデル>を意識している。「アンチに対するフォローを入れておく」というこのやり方で、二重に防御している。

まずその前の段落で、「創発こそ押さえておかなければならないポイント」とかなり強い主張をしているので、さらにその主張を補足するような要素を入れることで、その主張の強さへの批判を和らげようとしている。

さらにその後、「文章術の本として評価していないだけで、エッセイとしては非常に面白い」という話を入れ込むことで、予想されうる批判に先に対処しようとする。

そしてその次の段落からは、<長調短調モデル>を意識。「心の流れをスイッチする」というこのやり方で、それまでの「マイナス」の主張から一転、「プラス」の主張をすることによる効果を狙っている。

そして最後に、冒頭の「創発」の話、そして「エッセイとしては面白い」という話を繋げて結論として、文章を閉じている。

という構成である。

僕は正直、文章を書く時に、全体の構成を考えたり、ここではこういう効果を狙ってこういう表現を使おう、なんてことはまったく考えていない。基本的には、手が動く限りキーボードを叩き続けて、もう書くことないな、と思った時点で止めるだけだ。だから、ここで書いた分析も、本書の「◯◯力」を自分が書いた文章に無理やり当てはめてみせたに過ぎない。ただまあ、いつも無意識に文章を書いている割には、案外どういう効果を狙って書いているのかというのを説明できるもんだなぁ、と思った。


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