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【本】落合陽一「これからの世界をつくる仲間たちへ」感想・レビュー・解説

本書をこれから読もうという人に、本書を読む際の注意をまず書いておこうと思う。

本書を読んで、著者の提示する「目指すべき生き方」を辿れる人間は、ほとんどいないだろう。
しかし勘違いしないで欲しいのは、だからと言って本書を読む価値がない、というわけではないということだ。むしろ、本書を読んで著者の提示する「目指すべき生き方」を盲目的に突き進むのは、少し怖いようにも思う。

本書を読む価値はどこにあるのか。


それは、「諦めがつくこと」と「少なくとも間違った方向に行かないで済むこと」の二点にあると思う。

「諦めがつく」というのは、文字通り、未来の展望を諦める、ということだ。本書では、近い将来社会はこうなっていくだろう、という著者なりの予測が描かれる。そしてそれは、一言で言えば、「人間がコンピュータに使わる社会」だ。著者は「共存」という言葉を使うし、そういう社会が当然の世の中になれば「共存」という表現が適切になっていくだろうが、まだそうなっていない僕らの世代からすれば、それは「使われる」という表現で間違っていないと思う。

『そのためこれからは、人間が「人工知能のインターフェイス」として働くことが多くなるでしょう』

人間は、コンピュータが調べたり考えたりすることを、最終的にアウトプットするためのインターフェイスに過ぎなくなる。著者はそう予測します。恐らくそうなるんだろう、という想像が、僕も出来るように思います。

本書で「これからの世界をつくる仲間たちへ」向けられたメッセージというのは、そういうコンピュータに使われる人材から逃れて、「クリエイティブ・クラス」を目指そう、というものです。どうしたらそうなれるのか、という著者なりの提言が書かれていますが、しかし、この「クリエイティブ・クラス」になれる人間は、本当に限られた人たちだけになるでしょう。恐らく、世の中のほとんどの人間は、その「クリエイティブ・クラス」に属せないまま、コンピュータに使われる存在として生きることになるでしょう。

僕は本書は、「クリエイティブ・クラス」を目指すための指南書であると同時に、コンピュータに使われる生き方を受け入れるという未来をソフトランディングに受け入れる処方箋でもあると感じました。多くの人にとっては、こちらの効用の方が大きいのではないか。僕はそんな風に感じました。

もう一点の「少なくとも間違った方向に行かないで済むこと」というのは、「クリエイティブ・クラス」にはなれないまでも、自分の人生をより悪化させるような方向を避けるための思考を手に入れられるのではないか、ということです。

『正直、いまの中学生や高校生には、とりあえず「意識高い系にだけはなるな」と言いたいぐらいです』

「意識高い系」をわざわざ定義することはしませんが、大体イメージできると思います。著者は、そういう意識高い系こそ、これからの社会で真っ先に淘汰されていくのだ、と書きます。僕も、それはその通りだな、と思います。

『ですから若い世代は、いま自分がどんな時代に生きているのかを過去と比較して知ることも大事です。昔は何ができなくて、いまは何ができるのかを知らなければ、解決すべき問題を発見することも、そこに文脈をつけることもできません。生まれたときからパソコンもインターネットもスマートフォンもあると、「昔は何ができなかったのか」を直観的には理解しにくいものですが、それがわからないと、20年後、30年後にまた別の時代が訪れることも想像できないのです』

未来がどうなるかばかり考えていると、視野が狭くなる。特に、著者が指摘するように、いわゆるデジタルネイティブ世代は、インターネットがなかった時代のことが分からない。分からないから比較が出来ない。そこにどれだけの激変があったのか、僕は直観的に分かるし、だからこそ、未来にもさらなる激変がやってくるのだろうと推測出来るけど、デジタルネイティブ世代はそれが出来ない可能性が高い。だからこそ、未来のことばかり考えるのではなく、過去を知ることで、まずは間違った方向に進まないようにする。

著者の様々なメッセージは、一方では読者をとても熱くする。まるで魔法に掛けられたかのように、自分にも世界が変えられるのではないか、自分に出来る範囲で何か世界と関われるのではないか。そんな風に思わされる。
しかし一方では、著者が提示する未来の社会像があまりにもハード過ぎて(そして、そういう未来がやってくるのだろうと僕は信じられるので)、そういう世界で自分が「クリエイティブ・クラス」として残れる気がしない、という気持ちにもさせられる。

まず「諦め」、そして「間違った方向に進まない」ために本書を読む。そういう態度も有効ではないかと思う。そしてその「諦め」と「間違った方向に進まない」をとりあえず一旦受け入れた後で、「クリエイティブ・クラス」を目指すために自分に何が出来るのかを妄想する。そういう本であると捉えておかないと、この本は、多くの人にとって遠い存在になってしまうようにも思う。特に、未来に希望を抱かせてくれるような大きな物語が共有しえなくなってしまった今の時代には。

著者のように、そして著者が提示する「クリエイティブ・クラス」のように生きられなくてもいい。そういう生き方が出来なかったら失敗なわけじゃない。まずそういう大前提を自分の内側にきちんと用意した上で本書を読んだ方がいいのではないか、と僕は感じる。


本書は主に、「現代」「未来」「能力」という三つの観点から人間社会を切り取っていく。

「現代」とは、現代の人間社会がどうなっているのか、という現状確認。「未来」は、コンピュータとインターネットが生み出す人類の未来がどうなっていくのか、という提示。そして「能力」とは、そんな未来の人間社会の中で「クリエイティブ・クラス」として生き残るために必要な能力とその身につけ方の提示だ。

『21世紀が来て16年、今世紀のすでに6分の1を消費したいま、僕はやっと「ほんとうの21世紀」がやってきたような気がしています。ここで「ほんとうの21世紀」という言葉を使った意味は、前世紀の人類を支配していたパラダイム、映像によって育まれてきた共通の幻想を基軸としたパラダイムがようやく抜け落ちてきた、または変化してきたなという実感があるからです』


著者は、映像という文化が統一的な考え方、モノの見方を布教することで、これまでの人間社会が動いてきたと指摘し、それがインターネットの登場によってどんどん切り崩されている現状を確認する。

『イデオロギー単位の大きな戦いから、一人一人が作り上げていく「個別の文脈」にあらゆることが分化していく。その中で唯一全体を保持する共通概念、コンピュータテクノロジー』

統一的な考え方が解体され、人間の思考や価値観はどこまでも分化する。分化し続けるだけでは「社会」という単位ではまとまれないが、それを「社会」という形に繋ぎ止めるものが、それまではただのツールでしかなかったコンピュータ。今では、コンピュータは単なるツールではなく、人間には不可能な形で分裂した価値観を繋ぎ止める、「社会」というものの構成になくてはならない存在となった。

『コンピュータという大きなものの文化的性質を知らずに生きていくことは、貧困の側に回り、それが再生産されていく温床になりかねません』

『ところが、彼らに将来の指針を与える立場にある親の世代が、いまコンピュータやインターネットのもたらす技術的変化や文化的変化によって具体的に何が起こるのか、それがどういう意味を持つのかを理解していません。そのため多くの親が、子供に見当違いの教育を与えているような気がします』

さて、コンピュータはどんな未来を生み出していくのか。本書の中には、ホワイトカラーの仕事をすべて奪うとか、著者自身の具体的な研究がどういう未来を生むかなど、具体的な話も色々出てきますが、それらを一々挙げていてはキリがないので、非常に大きな捉え方をしている部分を抜き出しましょう。

『そこを鍛えなければ、どんなに英語を学んでも、プログラミングを学んでも、シンギュラリティやマルチラリティ以降の世界に通用する人間にはなれないでしょう。それは、「コンピュータと人間が相互に補完しあってそれ以前の人類を超えていく時代」だからです』

『コンピュータは電化製品ではなく、我々の第二の身体であり、脳であり、そして知的処理を行うもの、たんぱく質の遺伝子を持たない集合型の生物です』

著者は人間とコンピュータの関係を、人間とミトコンドリアの関係に喩えます。進化の過程でミトコンドリアという他の生命体を取り入れ共存している人類。人間がコンピュータという“ミトコンドリア”を取り込んで共存するのか、あるいは、コンピュータが人間という“ミトコンドリア”を取り込んで共存するのか、著者の中ではまだ答えは出ていないそうですが、いずれそういう関係になるのは間違いない、と著者は言います。

さて、そんな風に「現代」と「未来」を確認した上で、ではどんな「能力」を身につけ、どんな生き方を目指すべきなのか、という点が本書のメインになっていきます。

ここでは様々なことが触れられていきますが、著者がざっくりまとめた部分があるのでまずそれを引用します。

『重要なのは、「言語化する能力」「論理力」「思考体力」「世界70億人を相手にすること」「経済感覚」「世界は人間が回しているという意識」、そして「専門性」です。これらの武器を身につければ、「自分」という個人に価値が生まれるので、どこでも活躍の場を見つけることができます』

この中で、僕の琴線に引っかかった「言語化する能力&思考体力」と「専門性」について書こうと思う。

『また、ネットで知った知識をそのまま人に話しているようではダメ。思考体力の基本は「解釈力」です。知識を他の知識とひたすら結びつけておくこと。
したがって大事なのは、検索で知った答えを自分なりに解釈して、そこに書かれていない深いストーリーを語ることができるかどうか。自分の生きてきた人生とその答えはどうやって接続されていくのか。それを考えることで思考が深まり、形式知が暗黙知になっていくのです。
そういう能力は、考えたことの意味を「言葉で説明する」努力をすることで養われます。僕の東京大学大学院時代の指導教官である暦本純一先生(スマホなどで使われているマルチタッチのアイディアを世界で最初に作った人です)も「言語化は最高の思考ツールだ」と言っていました』

これは、僕にはとても理解できる話だ。
何故なら、このブログで僕がずっとやり続けていることだからだ。

僕は、どんな本の感想を、どんなテンションで書くかによっても大分左右されるが、このブログは、「考えるために文章を書く、という目的のために続けている」という意識がずっとある。

僕がこのブログに、「思考した事柄を文章として出力している」のではない。僕は、「文章を書くという作業をしながら思考を深めている」のだ。だから、文章を書く前に、今から書こうとしている文章の構成を考えることはない。とりあえず、書き始める。何でもいいから、キーボードを叩いて文章を出力してみる。キーボードを打ちながら思考し、同時にそれを出力していく。初めからそんなことが出来たわけではないのだけど、毎日毎日、ブログ用の文章を書くための時間に制限がある中で(毎日仕事をして、本を読んで、感想を書くというサイクルを続けていると、感想を書くのにそこまで時間を割けない)、いつの間にか、「思考しながら文章を出力する」「文章を出力しながら思考する」というスタイルが出来上がっていった。


僕は、頭の中だけで思考を深めるのが苦手だ。何も書かず、どんな出力もしないまま、ただ頭の中だけで思考をこねくり回していても、どうもその思考を深めることが出来ない。それが得意な人もいるだろうけど、僕には無理だ。僕は、頭の中にあるモヤモヤした何かを、とりあえず無理やりにでも文字化、文章化してみることでしか思考を深められない。人と話しながらでも出来なくはないのだけど、そもそも会話というのは、文章を出力する以上の早さが求められるし、さらに、口調や敬語や話を聞いているよというアピールなど、思考そのもの以外の部分に対してもリソースを持っていかれるので、効率がいいわけではない。適切に議論を深められる、話し方に気を使わなくても平気な相手となら、文章を出力する以上の思考のやり取りを期待できるのだけど、大抵そう上手くはいかない。

僕は、決して頻繁にではないのだけど、無理やり文章を出力することで、「あぁそうか、俺ってこんなことを考えていたんだ」と気づく瞬間がある。これは、非常に面白い。僕が、「思考したことを出力する」ということをやっていたとしたら、こういう瞬間は絶対に訪れない。文章を出力しながら同時に考えるというスタイルだからこそ起こりうる瞬間なのだ。

『これからの時代、コミュニケーションで大事なのは、語学的な正しさではなく、「ロジックの正しさ」です』

『したがって外国人との会話も、まずはその内容を自分の母語できちんとロジカルに話せることが大事です』

言語化や思考体力と密接に関わってくるのがロジックで、本書でもその重要さは繰り返し語られる。この点においても、ブログで文章を書くというのは大いに役立っていると思う。一応人に見せる前提の文章を書いている、という自覚があるので、読んだ人間に一応伝わるような論理性のある文章を書こうという意識はある。これが、FacebookやLINEなど限定的な人しか見ない場で書くとか、あるいは誰にも見せないでノートなどに文章を書く場合との違いで、他者の目を意識し続けることで、ある程度以上論理力は磨かれるのではないか、と僕は考えています。

僕は、気のせいかもしれませんが、ブログで文章を書くようになって以来、自分のコミュニケーション能力が上がった、という自覚があります。対面でのやり取りではなく、ただひたすら人に見られる前提の文章を書き続けることが何故コミュニケーション能力の向上に繋がるのか。僕なりの解釈では、僕の「書きながら思考する」というスタイルは、まさに喋る時と同じだから、ということではないかと思っています。常に考え、常に出力する。その経験が、実際の対面のやり取りの経験が少なくても、コミュニケーション能力を向上させてくれたのではないか、と思います。

さて、一方の「専門性」という意味では、僕はとても弱い。

『だから、いまの小中学生が将来「コンピュータに駆逐されない自律的な仕事」をできるようになるのは、何でも水準以上にこなせるジェネラリストではなく、専門性を持つスペシャリストになることが必要です』

『「知識資本主義」の社会では知識が資本になるわけですが、それはどんな知識でもいいというわけではありません。誰もが共有できるマニュアルのような「形式知」は、勝つためのリソースにはならない。誰も盗むことのできない知識、すなわち「暗黙知」を持つ者が、それを自らの資本として戦うことができるのです』


『一般教養と違って、テクニカルな専門性というのはインターネットをクリックするだけで学習できるようなものではありません。みんながアクセスする知識に、専門性はないのです』

僕は、どちらかと言えば割となんでも出来るジェネラリストです。何をやらせても、割と平均以上のパフォーマンスを出しますが、突出した何かはない。人にはまあ真似できないだろう何かを持っている可能性があるとすれば、それはまさにこのブログ、つまり、どんな本を読んでも数千字の感想を毎回書き、それを十数年も続けている、ということぐらいでしょうか。それにしたって、確かに突出した才能である可能性はあるけど、特に何にも活かせないような能力(本書では、「土器を作れる能力」みたいに呼んでいます)だろうから、「専門性」と主張できるようなものではないだろう。

「専門性」を語る上で、そしてコンピュータに駆逐されない仕事をするために重要なキーワードが「モチベーション」です。

『コンピュータには「これがやりたい」という動機がありません。目的を与えれば人間には太刀打ちできないスピードと精度でそれを処理しますが、それは「やりたくてやっている」わけではないでしょう。今のところ、人間社会をどうしたいか、何を実現したいかといったようなモチベーションは、常に人間の側にある。だから、それさえしっかり持っていれば、いまはコンピュータを「使う」側にいられるのです』

著者はそういう人間の究極を「秀才」でも「天才」でもなく「変態」と呼ぶ。そしてこれからの社会は、こういう「変態」こそが変えていくのだ、と。著者も自分自身のことを「天才」ではなく「変態」と称しています。

僕はこういう「変態」的な部分がない。基本的に、仕事や趣味に関係なく、特にやりたいことがない。自分の内側から、これがやりたい!と熱くなれるようなものがない。やる気が出ないから手を出してみない、という人間ではなく、僕はなんとなく色々チャレンジしてみるし、人から勧められたこともとりあえず手を出してみる人間だ。それでも、自分を強く惹きつけて離さないものに出会ったことはほとんどない。だから、その点についてはもう割と諦めている。これからもきっと、そういう対象に出会うことはないだろう。

「能力」に関して重要なのは、「その能力の価値」を考えることだ。

『しかし大事なのは、成功したクリエイティブ・クラスをそのまま目標にすることではなく、その人が「なぜ、いまの時代に価値を持っているのか」を考えることです』

『それについて僕がよく学生たちに言うのは、「その新しい価値がいまの世界にある価値を変えていく理由に、文脈がつくか」どうかが大切だということです』

この「能力」に関する話は、正直、著者より上の年齢(著者は今29歳)の人にはなかなか厳しい話だろう。著者も、本書は中高生向けに伝えたいメッセージがあって書いた、と書いている。ただ、前述したように、デジタルネイティブ世代には、それ以前の世界を直観的に理解できない、という欠点がある。そういう意味で言えば、コンピュータ以前の世界を知っている者が、努力によって本書に挙げられている「能力」を身につけることで、デジタルネイティブ世代と戦える可能性はゼロではないかもしれない。

あるいは著者は、チームで問題解決を目指す重要さも説く。チームを前提にすれば、コンピュータ以前の世界を知る世代が問題を発見し、デジタルネイティブ世代が解決策を模索する、そんな「共存」も可能だろう。生まれながらにコンピュータが存在しなかった世代だからといって、まだ諦めるべきではないかもしれない。

未来がどうなっていくのか。確実に予測出来る人間はいないだろう。これまで以上に難しい世の中になっていくことは間違いない。しかし、これまでのパラダイムの中で生きづらかった人たちが喜びを見いだせる世の中になるかもしれないし、逆に、これまでのパラダイムの中で人生を謳歌していた世代が脱落していく世の中になるかもしれない。本書は、そういう未来の姿を垣間見せてくれる。

著者は8歳の時に、祖父にねだって40万円もするコンピュータを買ってもらって遊び倒したそうだ。ある意味でそれは著者にとって、計り知れない「教育」となった。今では、40万円も出さなくても、著者が与えられたのと近い環境を用意することが出来る時代になっている。そういう世の中で、子供にどんな教育を与えるべきか。親世代にとってそんなリアルな問いに対する答えを模索する一つの指針として、本書は読まれてもいいのかもしれないと思う。

これからどんどん、親世代のパラダイムが子供世代には通用しない社会がやってくる。僕達自身がどう生きるのか、そして子供をどう生き延びさせるのか。ちゃんと考え始める時期が来ているのだろうと思う。


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