【本】「空に牡丹」「ハイブリッド」「都立水商!」

大島真寿美「空に牡丹」

明治時代、江戸からそう遠くはない丹賀宇多村の大地主の次男として生まれた静助。この男が、後に何代も語り継がれる男である。
明治のご一新によって、可津倉家は村を治める役割を失ったが、しかしとはいえ、可津倉家は相変わらず村人から頼られていた。肥沃な土地で、よほどのことがない限り飢えることのない土地で、人々は穏やかに暮らしていた。
静助は、そんな村人の中でも輪を掛けて穏やかに生きていた男で、穏やかというよりもぼんやりしていると言った方がはまるほどだ。
そんな中、あるきっかけから静助は、何故か花火に魅せられることになる。杢さんという元花火職人の元で、花火作りを見学する日々が続く。
時代は移り、時は流れ、静助を取り囲む様々な環境も否応無しに変わっていった。家督を継ぐはずの兄が東京で根を下ろしたり、母が始めた商売屋が大繁盛したり、幼なじみの了吉が東京で一旗揚げるんだと意気込んでいたり。どれもこれもが静助の関心の外であり、静助は何をするでもなく、ただ杢さんの花火作りを見たりしながら、ぼんやりと過ごしていた。
様々な要因から、静助が可津倉家の財産を動かせるようになると、静助は花火に莫大な金を注ぎ込んでいく…。

静助は、関心の対象が実に狭い。しかし、狭いが故に、関心を持った対象に対する入れ込みようは凄まじいものがある。百姓ではなく、生活の心配をする必要がなかったという境遇もあるが、静助は本当にただひたすら花火作りに精を出すようになっていく。その執念は、多くの人に理解されないが、しかし、花火という美しいものを、江戸まで行かずとも多くの人に見せたという意味で、静助の行動は受け入れられていく。

静助の花火への情熱が物語の根底にあるが、しかし決してそれだけの物語ではない。明治維新という大きな時代の変化の中で、様々な人間の人生が変転していく。母親が事業を成功させ、兄は道を誤り、親友が東京で一旗上げる。そんな中、変転しない不動の生き方を貫く者として、静助の存在感は増していく。

一瞬で消えていく花火。その一瞬のために二ヶ月を費やす。しかし静助は、そこに人間を見る。人間だって、長生きするかどうかの違いだけで、結局は消える。ぼんやりしているようで、その実、静助も色んなことを考えているのである。

木野龍逸「ハイブリッド」

関わったエンジニア全員が、99%不可能だと思ったプロジェクト。それが、世界初のハイブリッドカーとして自動車の歴史に新たな一石を投じた「プリウス」誕生の物語だ。
基礎技術がほとんど確立されていなかった時点で、社長の厳命が下る。二年後に発売せよ、と。社長はそれを対外的にも発表してしまう。その時点で、車はほとんどまともに走っていなかった。それでも、技術者は、社長の命令通りに車を完成させてしまう。

プリウスがどれほど凄い車だったのかを語るエピソードがある。プリウスが発表された当時、とある自動車技術者はそのシステム解析のために分解して調べたが、「なぜこのシステムが成立するのか理解できない」と感じたという。アメリカでは、プリウスを二年で開発したと言っても、まったく信じてもらえないらしい。そんなわけがない、と。

本書は、そんな破天荒なプリウス開発の舞台裏を描いた作品です。
読めば分かるけれども、プリウス開発には、本当に様々な要因が絡んでいて、その人間模様が実に面白い。社内で「技術の天皇」と呼ばれる和田が副社長に就任したこと、塩見という社内で独自に勝手にハイブリッドカーの研究を続けていた謎の男がいたこと、一次電池と二次電池の違いも分からないような電気の素人が、プリウスの要となる電池を開発したこと。読めば読むほど、よくこんなプロジェクトが成功したなと思うほどのひっちゃかめっちゃかぶりで、自動車や技術開発に興味のない人でも、その人間性に惹かれて読み進めてしまうだろうと思います。

「技術の天皇」である和田は、要所要所で非常に重要なアドバイスをしますが、その内の一つが印象的でした。燃費が半分になるのだから、燃料タンクも半分でいいと考えた技術者に、和田は喝を入れる。「お客さんがどうやって燃費の良さを実感するかっていうと、ガソリンスタンドに行く頻度が短くなるからだ。だから燃料タンクは小さくしたらいかん」と。これは、購入後のお客さんの反応がまさにそうだったようで、和田の慧眼と言えるでしょう。

サポート体制も面白い。故障があれば、開発した技術者自らが修理に出向く。技術者自ら向かうのは合理的だとして、じゃあ何故プリウスに乗って行くのか?それは、もし故障を直せなくても、自分たちが乗ってきたプリウスの中身と入れ替えてしまえばとりあえず動くはずだ、という発想だそう。急ピッチで開発したが故に追いついていない部分を、アフターケアで回収するという部分にも抜かりがなくて見事という感じでした。

不可能は可能になることもある。しかし、それは決して運任せでは出来ない。そんなことを強く思わされました。


室積光「都立水商!」

物語は、都立水商を去ることになった教師・田辺圭介が、お別れのために都立水商の校舎に立ち寄るところから始まる。
思えば、長いようで短い10年だった。
田辺は元々、都立の普通高校の教師だった。校長と教頭と、それぞれ別の理由で対立していたのだが、そのせいもあって、嫌がらせのように、都立水商への配属が決まった。
都立水商は、ある文部省の役人の思い付きから創られた、と言われている。水商売に従事する者を育成する高校だ。田辺のように無理矢理飛ばされた者や、自ら志願した別の高校の教師、また水商売に従事している民間からの講師によって委員が結成され、そこから二年、開校のための準備に追われた。
そうやって始まった都立水商での日々。思えば、いろんなことがあった。問題もそれなりに起きたが、それでも充実の方が勝っていた。
しばらくは、入学生を確保することが難しかったほどで、第一期入学生は、中学時代問題を起こした人間達の吹き溜まりのような場所だった。
開校から10年経った今では、知る人ぞ知る都立水商になった。
実家の書店を継ぐために九州の実家に戻ることになった田辺が、準備期間も含めて計12年間携わった都立水商での思い出を、お別れと共に思い出す、という物語。

水商売をある種の”技術職”と捉え、その知識や技能を学ばせる学校を作る、という発想は、設定として非常に面白い。知識や技能だけではなく、「水商売の世界にモラルを育むために教育をする」という理念がきちんとあり、その理念が教師から生徒にきちんと伝わっている。

基本的には、ドタバタコメディのような作品なのだけど、しかし甘く見てはいけない。僕は本書を読みながら、”教育”について考えさせられた。
教える内容は、”性技”とでも呼べるもので、”教育”を語るのには不適切だと感じる人もいるかもしれない。けどそれは、物語を楽しく読みやすく、また堅苦しくしないための工夫である。本書は、「人間が人間を教育すること」の、一つの理想があるように僕には感じられた。実際に教育の現場にいる方からすれば、そんなのは理想だ、現場ではやってられない、と感じられるようなことかもしれない。けれども、理想を失ったまま教育を語ることも、また難しいと思うのだ。

都立水商が教えているのは、決して知識や技能だけではない。人をもてなす気持ちであるとか、社会の礼儀であるとか、あるいは、職業人としての誇りであるとか、そういうものをきちんと感じ取れるようなカリキュラムを作り上げている。知識だけつめ込ませて競争に勝たせる風潮とか、学んでいることの意味や価値を伝えきれない教師など、教育における様々な現実的な問題が、このおちゃらけたような物語から浮かび上がってくるように感じられる。侮れない作品である。

というような真面目な話はともかくとして、一人の男としては、水商が誕生して欲しいなと思います。水商に通いたいですもん、マジで!水商に通う男子生徒が羨ましすぎます!

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