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【本】佐藤究「QJKJQ」感想・レビュー・解説

久々に興奮させられる作品だった。
これが新人のデビュー作とは、信じがたい。


『「正当な物理的暴力行使の独占を要求する共同体」市野桐清はわたしにかまわず話し続ける。「それは何のことか?国家のことだ。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの言葉だ」』

そう、僕たちは「国家」という幻想を共有している。
普段、あまりそういうことを意識することはない。「国家」などというものについて考えることはないからだ。考えなくても生きていける。

しかし、実際には「国家」などというものは存在しない。

それは、「国境線」などというものが実際には存在しないのと同じような意味だ。ここが国境だ、というような場所に言っても、僕らはそこに実際の「線」を見るわけではない。線でなくてもいい。何か、国と国とを分かつようなもの(それこそ、トランプ大統領が作ろうとしている国境の壁のようなもの)があるわけではない。「国境線」というのは、僕らの頭の中にしかないのだ。

それは、つまり妄想、ということだ。しかしそれが妄想であったとしても、大多数の人間がそれを承認していれば、それは「現実」と呼ばれる。

「国家」も同じようなものだ。「リンゴ」のように何か実体を持つわけではない。もちろん、実体の有無で存在非存在を判断するのはおかしい。例えば、「虹」は実体があるとは言えないだろう。しかし、現象としては確実に存在するといえるだろう。

では、存在非存在を分ける要素は何なのか?何故「国家」は存在しないと言えるのか?

これは僕なりの定義だが、僕は、「人間がいなくてもそこにあるもの」は「存在している」と言っていいと思う。「リンゴ」も「虹」も、人間がいるかどうかに関わらず、そこにあるだろう。

では、「国家」は?「国家」は、人間がいなくても存在しうるだろうか?

いや、しないだろう。人間がいなくなれば、「国家」など簡単に消滅してしまう。それは、太平洋に浮かぶ細長い島が「日本」でなくなるとか、そういう話ではない。「国家」という概念そのものが消滅してしまうということだ。

つまり、「国家」というのは、人間の幻想によって支えられている、ということだ。

こういうものは、他にもある。有名なのは「貨幣」だ。「貨幣」には硬貨や紙幣といった実体がある。しかし、実体があっても、「貨幣」は人間の想像の産物なのだ。何故か。こんな風に考えてみればいい。タイムマシンが存在するとして、僕らが使っている千円札を持って江戸時代に行って買い物できるかやってみよう。まず無理だろう。実体100%に対して価値があるならば、千円札は江戸時代でも使えるはずだ。使えないのは、「貨幣」というのが実体だけではなく、人間の幻想によっても成り立っているものだからだ。皆がそれに価値がある、と思い込んでいるからこそ、「貨幣」は「貨幣」としての価値を持ちうるのだ。

普段「国家」や「貨幣」などについて考えることはないが、考えてみるとそれが幻想であることが分かる。となれば、僕らが普段真剣に考えていない様々な事柄が、実は幻想であってもおかしくはない。僕だって、「国家」や「貨幣」が幻想によって成り立っているなどと、自分の思考によってたどり着いたのではないと思う。何か本を読むなりして、なるほど言われてみれば確かにそうだな、と思ったということだ。

また、幻想によって生み出される現実は、人間という共同体すべてにおける大多数である必要はない。ある集団における大多数によっても生み出され得ると思う。

例えば宇宙論の世界ではかつて、「エーテル」という物質の実在が信じられていた。これは、宇宙空間すべてを満たしている物質、として考えられていた。当時、光は何もない空間(=真空)を進むことは出来ないと考えられていた。だから、真空に思える宇宙にも、きっと何かで満たされているはずだ、と物理学者は考えた。それは観測されてはいなかったが、実在するはずだ、という多数の物理学者の幻想によって、「エーテル」という物質が仮定されたのだ。

結局、エーテルは実在しないことが証明された。それを証明した実験は、物理の教科書に載るほど有名だし、また「何もないはずの空間を何故光は進めるのか」という疑問の答えを見出したのは、あのアインシュタインである。

さて、僕は何が言いたいのか。仮にエーテルの不在が実験によって証明されていなかったとしよう。そうしたら僕らは、物理学者たちがそう考えている、という理由によって、エーテルという物質の存在を信じることになるだろう。エーテルは誰も観測したことがない物質だが、エーテルは実在するはずだ、という物理学者たちの幻想がその実在を強く意識させることになった。そして、エーテルが実在することを前提に、科学が進んでいた可能性はゼロではない。その場合ロケットや人工衛星の設計は今とは違ったものになったのではないか。

地球上の全人口に対する物理学者の数は非常に少ないだろうが、その少ない人数が幻想を抱くことによっても、現実に大きな影響を及ぼす可能性があるのだ。

そういうことが、僕らの現実に起こっていないとは、誰にも言い切れないだろう。

この作品は、ある「もしも」を描き出す。もしも、ある少数の人間たちが抱く幻想によって、僕らの生きる現実が「改変」されているとしたら…。いや、これでは表現として正確ではない。僕らの生きる現実の「意味合い」が「改変」されているとしたら…。

恐らく、本書で描かれていることは、現実にはあり得ないだろう。でも、もしかしたら…という僅かな可能性を捨てきれない。それぐらい、あり得そうに感じさせるのだ。

現実が解体されていくかのような経験を味わった者たちの物語である。

内容に入ろうと思います。
市野亜李亜。高校生。17歳。普段からスマホの電源はつけず、防犯カメラから身を隠すようにして生活している。何故か。殺人鬼だからだ。人気のない寂しい路地で声を掛けてきた男。男の車に乗ってドライブ。キスを受け入れて、ベストの内ポケットから取り出したペーパーナイフで男を切り裂く。家に帰ると、母に言われる。「どうして部屋でやらなかったの?」と。
家には<専用部屋>がある。人を殺す専用の部屋だ。母はそこに若い男を連れ込んで、シャフトで殴って殺す。兄は若い女性を連れ込んで、あごの力で喉を噛み切る。父が人を殺している姿は、一度しか見たことがない。しかし、その光景はあまりに衝撃的なものだった。抜いた血を口から飲ませて殺していたのだ。
そう、私の家族は全員猟奇殺人鬼だ。そういう秘密を抱えながら、普通の家族のように生活している。
ある日、驚きの光景を見つけてしまう。さらに、理解できない状況。父親の視線の変化から、長い間気づかずにいた秘密を知るや、父親を問い詰めた。答えは、理解できないものだった。
『誰でも目の前のものを見ずに生きている。現実を他人に教えられても信じない。それで結局、自分で向き合うこととなる』
家から離れ、現実を知ろうとする。しかし、その第一歩で早速つまづいてしまう。自分の住民票の写しを見ることが出来ない…。
というような話です。

凄い物語でした!久々にこんなとんでもない物語を読んだな、という感じです。しかも、これが新人のデビュー作というのは、ちょっと破格過ぎるだろう、と思います。びっくりしました。

正直、本書を読んだ人間なら誰でも感じるだろうけど、本書の内容については詳しく触れたくない。1/3を過ぎた辺りからの果てしない混沌、混沌を分け入って少しずつ集める情報、そして認めたくない現実。これらの衝撃的な展開を是非味わって欲しいなと思うからです。

だから、この感想の冒頭で書く話も、僕なりにはかなり気を遣ったつもりです。読み終わった人なら、僕が際どい部分を避けながらなんとかこの作品の本質的な部分を拾い上げようとしているのを感じ取ってくれるかもしれません。

もちろん僕は、本書の「現実が解体されていく感じ」も凄く好きなんですけど、それ以上に感心したのが、本書の中で「アカデミー」と呼ばれているものについてです。詳しくは書かないのだけど、僕はこの実在を100%否定出来ないなと思います。もちろん、理性的に考えれば、あり得ません。ただ、本書で繰り出される「アカデミー」の存在理由については、理解できるとは言わないまでも、そういう論理的には成り立つと思うし、賛同する人がいても不思議ではない、と感じます。もしそれを理念として掲げる人物がどこかの時代に存在したとすれば、後は様々な現実的な要素を照らし合わせながら可能か否かという話になるでしょう。人間が人類史の中で行ってきた様々な事柄を考え合わせれば、決して不可能ではないように僕には感じられます。だからこそ、あり得ないと思いつつ、完全には否定できないなと思えてしまいます。

もちろん、現実の世界で「アカデミー」が実在するのかどうか、という論点と同時に、物語の中に「アカデミー」を登場させていいのか、という問題も、また別の問いとして存在しうるとは思います。どういうことなのか、というのは本書を読めば(あるいは巻末の選評を読めば)きっと理解できると思うのでここでは書かないのだけど、僕はあまりその点は気になりませんでした。「アカデミー」を登場させるかどうかの是非よりも、登場させて場合にどう料理するかの部分が大事だと思うし、その調理法は非常に見事なものだったと思うからです。これが下手な料理人によるものであれば感じ方も変わったでしょうが、作者の「アカデミー」を取り扱う様が絶妙だったと僕は感じるので、全体としてよくまとまっていたな、と感じました。

巻末に載っていた江戸川乱歩賞の選評も読みましたけど、僕は辻村深月の評が好きだ。本作が持つ魅力と欠点を、実に巧く描き出していると思う。もちろん、応募時点での原稿から手が加わっているだろうから、辻村深月の指摘が本書に対してどこまで的確であるのか、本書しか読んでいない僕らには分からないのだけど、なるほどと感じさせる評でした。

実は僕は、この著者の二作目である「Ank」という作品から先に読みました。こちらもまた常軌を逸した素晴らしさを持つ作品です。是非読んでみてください。しかしホントに、凄い新人作家が現れたものだよなぁ、と思います。

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