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【本】中脇初枝「世界の果てのこどもたち」感想・レビュー・解説

戦争に関する本を読む度に僕が思うことがある。それは、「この中で僕は、『生きたい』と思えるだろうか」ということだ。


当然のことだけど、ノンフィクションであろうと小説であろうと、戦争に関する本で主人公たる人物は、生き残った人物(あるいは、結果的には死んでしまうとしても、最後の最後まで生き残ろうとした人物)だ。そして、戦時中・戦後の世界は、ただ運だけでどうにか生き残れるような世界ではなかっただろう。生き残った人たちは皆、「生きよう」とか「死んでたまるか」とか、そういう思いを持ち続けていたはずだと思う。そうじゃなければたぶん、生き残れない世界だったはずだ。


そこまで考えて、僕はふと立ち止まる。僕は、その状況にあって、強く「生きたい」と願うことが出来るのだろうか、と。


僕はこの、平和で恵まれた現代日本に生きていてさえ、「生きているのがめんどくさい」と思ってしまうような人間だ。生きる気力がどこからも湧かない状態のまま、ただぼんやりと生きている。そういう状態でもどうにか生きていけるのは、そういう世の中だからだ。必至に「生きたい」と思わなくても、ただなんとなく適当に体を動かしていれば、少なくとも生きることぐらいは出来てしまう世の中に生きているからだ。

『(キャラメルをくれた)おばさんがいなくなるのを見送ってから、茉莉は学院の階段で食べようと歩き出した。そこへ別のおばさんが来て、茉莉の前に立ちふさがった。
おばさんは一言も話さず、茉莉が握らせてもらったばかりの小さな手の指を、その太い指で一本一本開かせ、キャラメルを奪った。そして、傍らにいた自分のこどもに、それをやった。』

善悪はともかく、人々は皆生きるために必至だ。それが犯罪であろうと、他人を不幸にする行為であろうと、生きていくためには仕方ないという覚悟を持った人がたくさんいる。僕はそれを、「凄い」と感じてしまう。

それは、僕が正義だからとか、善だからとかではない。悪に手を染めたくないとか、キレイ事に収まっていたいとか、そういうことではまったくない。僕はただ、それほどまでに「生きたい」という感覚を、今の今まで理解できたことがない、というだけのことだ。

もちろん、外的な要因だけで見れば、多くの人が僕と同じだろう。恐らく大抵の人は、死を意識するような経験をしたことはないだろうし、他人を蹴落としてまで生きてやるという行動を取ったこともないと思う。


けど、僕はなんとなく、大抵の人は「生きたい」と思うに違いない、と思っている。理由は分からないけど、たぶんそうなのだろうと思う。悪に手を染めるか、他人を蹴落とすかどうか、そういうことはともかく、たぶんみんな「生きたい」と思うのだろう。そしてきっと、そこまで強く「生きたい」と思えないだろう僕は、多くの人の「生きたい」という思いの強さに負けて、早い内に死んでしまうのだろうな、という気がしている。


例えば満州で、例えば空襲に襲われた横浜で、例えば戦後の朝鮮人街で、それぞれ苦難を強いられた少女たちは、一体、その惨憺たる現状を前に、どこから「生きたい」という気持ちを搾り出せるのか。目の前で死体が散乱していたり、家族を失ったり、いつ他国民に襲われるか分からない緊張感だったり、病気が蔓延してるのに薬もないというような状況で、一体何を生の原動力にしているのか。

もちろんそれは、本書に限らず、戦争に関する本の中で少しは語られる。けれども、僕のような人間から見ると、その描かれ方は、「みんな当然生きたいって思うよね、そうだよね」という前提で描かれているような気がしてしまうのだ。これは別に、批判したいわけではない。単純に、疑問なだけだ。

今僕は、少しずつ「戦争」の気配を感じている。


歴史には詳しくないのだけど、恐らく学校で習うような「歴史」では、「ここが転換点だった」というような、歴史上の大きな出来事をいくつも教わるのだろうと思う。そして同時に、色んな人が、「もしここで◯◯出来ていたら、××は起こらなかっただろう」というようなif論に花を咲かせる。


僕自身はそういう話には興味はなくて、僕が興味があるのは、その「転換点」に生きた人たちは、リアルタイムで「今」を「転換点」だと認識できていたのか、ということだ。

そして常に僕の結論は、「そんなことはありえないはずだ」となる。「転換点」を生きた人々には、その日々は、いつもの日常だったはずだ。何かが大きく変わったのかもしれないし、印象的な出来事が展開されたかもしれないけど、それでもそれらが「歴史の転換点」だとは認識できないのではないか。


僕が最近思うことは、僕らは今「歴史の転換点」に生きているのではないか、ということだ。もちろん、ここまでに書いてきたように、それが「歴史の転換点」であるかどうか、最終的には今を生きる僕らには分かりようがない。永遠に確証の得られない話ではあるのだけど、でも僕にはそう思えてしまう。例えば100年後には、「2015年にもし◯◯出来ていたら、××にはならなかっただろうにね」と言われているんだろうな、とそんなことを考える。

恐らく、第二次世界大戦に突入する時も、その当時を生きていた人には「転換点」は意識されなかっただろうし、だからこそ僕らもきっと、実感的には「いつの間にか戦争に突入していた」ということがあり得る。政治にも歴史にも詳しくないから、何がどうという説明は何も出来ないけど、それでも、世の中が「戦争」の方向に動いている気配を強く感じる。

『もう二度と、戦争はしないことになったのよ』

女性に参政権が与えられ、初めて選挙で投票したという女性教師が、誇らしげにそう語る場面がある。そう、「二度と戦争をしないこと」は、誇らしげに語るようなことであったのだ。

しかし、既に僕らはそれを、「当たり前のこと」だと捉えてしまっている。いや、それは当然と言えば当然だ。なにせ、すべての前提である憲法に、そう書かれているのだから。しかし今、その憲法に手をつけようとしている。「当たり前のこと」が書き換えられてしまう。それは僕らを、一体どこへ連れ去っていくのだろうか。

内容に入ろうと思います。


三人の少女が、戦時下の満州で邂逅する。


珠子は、高知県から満州へと、開拓民の一団として入植した。高知県の千畑村の村長が、口減らしの目的もあって、国が推奨する開拓民の希望者を募っていた。一杯食べられるし、兵隊に取られることもないという話で、土地を持たない小作人は否応なしに応じるしかないような状況だった。珠子には、満州であろうとどうだろうと大差はなかった。いつも一緒にいた家族が一緒にいて、走り回れる環境があれば。


美子(ミジャ)は、朝鮮中部の平花面に住んでいたが、日本人に土地を収奪され、食うに困るような状況だった。そんな折、満州ではたらふく食べることが出来ると聞きつけ、家族で移り住むことになった。珠子と美子は、お互いが異国人だという認識もないまま友達になった。


茉莉は、横浜の三春台で何不自由なく育った女の子だ。裕福な家庭に育ち、誰からも愛されている女の子。そんな茉莉は、貿易関係の仕事をしている父親について満州にやってきた。「満人を見てみたかった」という理由で、その滞在の間同い年ぐらいである珠子と美子が茉莉の相手をすることになった。


この三人が満州で会っていたのは、ほんの僅かな期間。しかしそれでもこの時、この三人は、生涯忘れることのない体験をする。


短期の滞在の予定だった茉莉はともかく、美子も戦争の激化を理由に朝鮮に戻り、三人は離れ離れになる。三人はそれぞれの場所で終戦を迎え、それぞれ厳しい環境の中で、どうにか生き抜いていく。珠子は中国残留孤児として中国人として育てられる。美子は朝鮮を脱して日本で在日として生きていく。茉莉は肉親をすべて失い、空襲で惨状と化した横浜でどうにか生き延びる。


というような話です。


物語のエンジンが駆動し始めるまでにちょっと時間が掛かった印象がありましたが、エンジンが掛りだしてからは圧巻という感じの作品でした。冒頭、三人の少女の現状や有り様を描くのに全体の1/4ほどを使っている。つまらないわけでは決してないが、この部分はやはり物語の導入であるので、物語的に起伏があるわけではない。

しかしそこを越え、各人が終戦を迎えて以降の物語に突入すると、彼女たちが背負わなければならなかったもの、克服しなければならなかったもののあまりの重さに、息が詰まるような気分になる。


この物語は、少女の視点で戦争が語られる、という点が非常に面白い。しかもその三少女は、満州で瞬間的な接点があるという関係で、出自も境遇もみなバラバラである。その三少女の生き様から、戦争を多方面から描き出していて、読み応えがある。


少女の目から戦争を描く、という特徴を感じるのは、例えばこんなシーンだ。

『空襲を受け、東京の空が真っ赤になったのを、茉莉は朝比奈の父の背中から見た。ぐっすり眠っていたところを起こされたので、うとうとしていた茉莉だったが、その光景にはっきりと目がさめた。
夜空には、何本も何本もの光の線が引かれては、消えていった。
無数の焼夷弾が無数の線を引きながら落ちていく。
あとからあとから。
際限もなく。
それは息をのむほどに美しかった。』

大人が描写する場合、「それは息をのむほどに美しかった」とはなかなか書けない。大人は、その光景が意味するものを考えてしまい、その光景を光景として受け取ることは出来ないからだ。しかし、茉莉はまだ少女で、その光景を純粋に「美しいもの」として捉えることが出来る。
このシーンも印象的だった。

『「かあさんは朝鮮人の格好はできんよ」
珠子はそのとき初めて、美子が朝鮮人だと知った。けれども、珠子はそもそも自分が日本人だということを知らなかった。
「ほしたら、たまこは何人?」
珠子の問いに、母親も父親も、手をうってわらいころげた。』

『そして、美子はそのとき初めて太極旗を見た。
「これなに?」
美子が聞くと、父親も母親も愕然とした。
「朝鮮の旗じゃないか」
父の言葉に美子は驚いた。
「朝鮮にも旗があったの?」
言葉を失う父と母に、美子はなおも訊いた。
「朝鮮って国だったの?」』

本書では、国とは何か、国籍とは何かという問いかけも常にされる。中国で残留孤児として育てられる珠子。日本で在日として生きていく美子。国と国を、人と人とを分断する目に見えぬ存在が底流する物語の中で、この珠子と美子の問いは非常に鮮明な輝きを放っている。

大人が、それがために血を流しさえするほど重大に考えているものを、子供はあっさりとまたいで見せる。人は生きていく中で、いつの間にか様々な「前提」に囚われていくのだということを痛感させられた。


少女たちは、絶望的な環境の中で、どうにか生きていく。その中で彼女たちが大事に思うこと、捨てられないこと、捨ててしまったもの、そういう様々なものが描かれていく。

そして、その辛く厳しい日常の中で、満州での一瞬の邂逅を思い返す場面がある。それは少女たちの中に残った根のようなもので、その出会いの中で生み出されたものが、彼女たちの一部として溶け込んでいる。


強くなければ生きられなかった時代。少女たちは、たくましく生きていく。その強さは、僕には眩しい。彼女たちが、苦難をどう乗り越えていくのか。三者三様の人生を丁寧に描き出す物語は圧巻だ。


もう一つ。本筋と直接には関係ない部分で、印象に残ったシーンがある。幼い美子を、朝鮮人だとからかう日本人の男の子を、同じ朝鮮学校にかよっていた朋寿が石で殴って追い払ってくれたことがある。二人が大人になって後、この時のことを回想する場面がある。

『別のやり方はなかったかと思ってる。ずっと思ってる。殴るんじゃなくて、なにか別のやり方。やればやられる。憎まれる。考え方がちがう。やり方がちがう、それで共和国は侵攻した。韓国はやり返した。そして祖国は分断したままだ。そうじゃなくて、そういう連鎖を断ち切るやり方。だからぼくは美子に会うのが怖かった。あんなやり方しかできなかった自分は、嫌われて当然だと思ってたから』
『人を守るって怖いことだと思う。ぼくは今も別のやり方を探してる。今度同じことがあったとき、まだぼくはどうしたらいいのかわからない』


今日本に対して「戦争」の気配を感じるのも、こういうやり方の問題が背景にあるような気がしている。何かがあった時に対抗する手段として「戦争」というやり方を手にしようとしているのだろうけど、そうではないやり方はないのか。これは、政治の世界だけで考えていてもダメで、たぶんそれぞれ個人が、個人レベルで考える・実行出来ることから少しずつやっていくしかないのだろう。

「戦争の悲惨さ」を伝える物語ではある。しかしそれ以上に、少女たちの生き様が輝いている。与えられた環境の中で、どうやって精一杯生きるか。これは、どんな時代であっても通じるテーマだろう。以前と比べれば遥かに豊かになった国生きている僕たちも、個々で見ていけば、必ずしも皆豊かなわけではない。そもそも、豊かさの基準も人それぞれだ。他人から羨まれるような環境にいても、豊かさを感じられない人も多くいるはずだ。


この物語は、今いる環境でどうにかやっていくのだという覚悟みたいなものを与えてくれる。他人と比較しても仕方がないし、人生が好転するわけでもない。「戦争」とはまた違った形の、複雑に拡散してしまった困難さの中で、その辛さを共有しにくい時代に生きている僕たちに、指針を与えてくれる物語です。是非読んでみてください。


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