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【本】少年アヤ「焦心日記」感想・レビュー・解説

【世間の期待に応えたい、応えなければ居場所はない。しかし、そうやって獲得した居場所に安住できることはなかった。当時の私は、ブスのオカマであるという現実を克服し、逆手に取って笑いを取るくらいの余裕が自分にはあると思っていたのです。しかし実際は、改めて人からブスだと笑われるたびに傷ついたし、ブスじゃないと否定してもらってもショックでした。まったく関係のない他人からいきなり「オカマ」と呼ばれるのも苦痛でしたし、要するにまったく覚悟もなく、名乗った記号が放つ意味も把握しないまま、返ってきたリアクションに傷ついたという、なんとも間抜けなお話です。】

自分がどういう人間で、何が好きで、何が辛くて、今何を考えていて、どう行動したくて、何が怖くて、何が楽しくて、どこに向かっているのか…みたいなことを昔はよく考えていた。それらについて考えている時には、自分のことはうまく理解できていなかったような気がするけど、そういう時期を脱して、冷静に振り返ってみると、そんな風に自分を捕まえようとしたのは、自分が「みんな」から外れないようにということだったんだと思う。

【全収入を投げ売ってタクヤを追いかけ、とうとう預金残高十一円になった五月の夕暮れ。私はガタガタ足を震わせながら、このままでは命が危ないと思った。そしてなるべく自分から目を放さないよう、一年間、毎日、日記をつけることにした。】

僕は、「みんな」の中にいるために、結構努力を要した。シンプルに言って、大変だった。「みんな」は、僕にはなかなか理解不能な集合で、それらが楽しいと思うこと、悔しいと思うこと、辛いと思うこと、恥ずかしいと思うことが、どうも僕には理解できないものばかりだった。だから僕は、「みんな」をきちんと捉え、その中に「僕」を適切にはめ込むために、「僕」をちゃんと捉えなければならないと思っていたんだと思う。

その当時は大変だったし、絶対に戻りたいとは思わないけど、でもそういう経験を経たお陰で、僕は、人間や価値観を言葉で捉えやすくなったな、と感じる。

【「こじらせ」って一部だけに起きている現象ではなく、きっとこの国に生きるほとんどの女子たちが患っている自意識の病なんだと思います。社会からの抑圧だとか、役割だとかをクリアしていくにはハードルがいくつも待ち構えており、女子たちはみんなどこかしらにつまずき、引っ掛かり、倒し、時には走るのを止めてしまったり、コースから離脱したりしているのです。そんななか、この「こじらせ」という言葉は、意図せずレールから外れてしまった自分、もしくは自分たちを笑ってみるという発想に基づいて生まれた発明品であり、もしかしたら紫式部や清少納言が活動していたころから待望されていた言葉なのかもしれません。

願わくば「毒母」なんかと同じで、何かを気付かせ、場合によっては啓発させていくためのきっかけになる言葉として定着していって欲しいですが、どうなんでしょう。少なくとも、やっと言葉のついたそれを、特に理由もなく「ケッ」とか言いたがるような、そんなつまんない人たちには負けないでほしいです】

自分が今陥っている状況、行き詰まっている現状、どこにも進んでいけない閉塞、みたいなものを日常の中で感じているからこそ、考えるし、感じるし、そして言葉に変換しようと思う。彼(僕は著者のことを“彼”と呼ぼう)は、「こじらせ」はほとんどの女子が患っている病と書くが、僕は単純には賛同出来ない。何故なら、「ほとんどの女子が患っている病」だとしたら、とっくの昔に名前が与えられていたはずだと思うからです。いや、違うか。「ほとんどの女子が患っている病」であるとすれば、あまりに当たり前すぎて名前が与えられないのではないかと思います。


「こじらせ」という言葉が生まれたからには、そういう言葉を生み出す以外には表現できない、人とは違った感覚を誰かが持っていたはずです。その「こじらせ」が、ほとんどの女子に広がっているとすれば、つまり、「こじらせ」という言葉の意味が急速に拡大した、ということでしょう。「こじらせ」という単語は既に、その言葉が生まれた時に指し示していた範囲を大いに逸脱して、より後半な領域を指し示す言葉になったということだと思います。

大分脱線しましたが、つまりこんな風にして、自分の違和感を突き詰めていくことが避けがたい人というのはいるし、そういう人は考えて感じて苦しんで、そんな風に言語化していきながら自分を捉えようとする。

彼が自らを捉えようとする姿は、本書の核の一つだが、それは「アイドルへの信仰」という形を取って行われる。

【確かに私は、超特急にハマって以降、韓流に対する興味を急激に失っており、かと言って飽きてしまったわけでは決してなく、その原因はやはり、より強くコンプレックスを刺激する存在(タクヤ)が表れてしまったからという他にないのだった。とにかく私の信仰は完全に「理想の自分」という一点のみを動機にしているので、楽曲のクオリティだとか、サービスの質なんて、どうでもいいのです】

彼は超特急(という名前の男性アイドルグループ)を好きなった理由を、「コンプレックス」という言葉で捉えようとする。この記述は、最初はうまく理解できなかったのだけど、この文章を読んでなんとなく理解した。


【タクヤはもう、私が乗り込める艦隊ではなくなってしまった。だってタクヤ、いきなり「ボディーをパンプアップしたい」とか言い始めるんだもん。ムキムキの韓流スターに憧れちゃってるんだもん。そんな筋肉ムキムキのタクヤへは、「理想の自分」を投影できない。そういえば、今まで自己投影してきたアイドルたちも、さんざん乗り回して暴れたあげく、少しでも自分の理想から外れた途端、ポイッと道端に乗り捨ててきたっけ。つくづく、私は神に対して潔癖だ。】

なるほど、彼が崇拝する「タクヤ」というのは、彼が「こうなりたい」と思える理想であり、だからこそ「コンプレックス」という言葉で信仰を表現していたのだ。

とはいえ彼は、「ただ単純にタクヤになりたい」というわけではないのだ。

【マジ恋という沼を這い出し、泥だらけのままタクヤという艦隊に帰還した私ですが、もう快適すぎて死にそう。沼の中では重く、エラー状態になっていたユースケへの恋心が、サクサク送信できてしまうこの感じ。これこれ、これが無敵の艦隊・タクヤの乗り心地。タクヤとしてなら、誰にも怒られず、警察にも捕まらず、堂々とユースケとのデートを楽しめるし、花火にだって行けるし、神社の裏で同じかき氷を食べることだって出来る。私はまた、無敵になったのだ】

この文章は、理解しにくいという人もいるだろうから、引用していない部分の情報を補いつつ説明してみる。

まず彼は、超特急の中で「タクヤ」と「ユースケ」という二人が好きである。超特急ファンの間では、「ユータク」というカップリング(ボーイズラブ的な用語である)が有名らしく、彼もそのカップリングで楽しんでいる。「ユータク」に萌えているファンは、「タクヤ」と「ユースケ」が仲良さそうにしていたり、逆に喧嘩っぽくなっていたりする雰囲気を察知して、(何があったんだろう?)と妄想したりするようだ(この辺は、僕が持っている拙いBL的な知識を入れ込みながら書いてみた)。

で、彼が「タクヤ」になりたい理由は、「タクヤ」そのものへの憧れというよりは、「タクヤ」としての自分で「ユースケ」と関わりたい、という欲求があるのだという。「マジ恋」というのは、「アイドルにマジで恋してしまうこと」を指すが、その主体は自分自身、つまり「自分がユースケを好きになる」という意味だ。この状態は「重く、エラー状態」だったわけで、結構辛かった。でも、「タクヤという艦隊に帰還」、つまり、「タクヤになりきった自分の視点でユースケを見る」というそれまでの在り方に戻った途端、「恋心が、サクサク送信できてしまう」という状態になった、ということだ。


つまり、繰り返すが、彼の「タクヤ」への憧れというのは、「タクヤ」そのものへの憧れというよりは、「タクヤになってユースケに愛されたい」という欲望なわけで、なかなか複雑なわけです。

アイドルを好きになる自分をそこまで冷静に分析できるなんて、もの凄く客観性があると僕は思うのですが、自分ではそういう認識ではないようです。

【友人から「自分と向き合うって苦しくないか」と訊かれた。しかし、本当に向き合っていたらそもそもアイドル依存なんかしないわけで、もし私に客観性があるとしたら、それは何もないところから必死にひねり出した、インチキで粗悪なものであるに違いありません。そうして自分を縛っておかないと、どこまでも飛んでいってしまいそうで怖い】

なるほど、言っていることは分からないでもない気がするが、しかしやはり彼には、「アイドルに心底没頭している自分」と「そんな自分を冷静に客観的に見ている自分」が共存しているように思える。

【アイドルの前でお化粧が崩れるくらいなら、熱中症で倒れたほうがマシ。ぐるりと会場を囲む建物は、コロセウムを思わせた。
通りがかった人たちは、熱中症のリスクを負ってまでアイドルを狂信する私たちの姿に、必ずといって良いほど苦笑するが、端から見て異様であればあるほど、私たちの信心はピンと張りつめて、ステージに延びていく。アイドルたちだって命懸けだ。お互い命を削って、ファンは残高まで削って、フラフラになりながら魂をぶつけあう。たとえその先でなにかを得られなくても、辿り着くゴールが更地でも、きっと私たちは叫び続けるんだろう。それぞれの信仰のために】

【私もいつか来るべき時(超特急総選挙)が来たら、全収入を捧げられるようになりたい、なるべき、いや、ならなければ、と思った。だから、やっぱり私、恋愛とか言ってブレてる場合じゃない。担当の男性編集者を見て勃起している場合でもない。なぜなら私という個人のつまらない人生より、アイドルの人生のほうがよっぽど美しくて刹那的で貴重だからです】

そんな風にアイドルに全精力を傾けながら、彼は「何も得られないこと」をきちんと理解している。

【私がしているのは、アイドル本人やコンテンツに対するものではなく、アイドルに投影した自分自身の欲望の狂信。つまり私が映写機で、アイドルは真っ白なスクリーンのようなもの。実体は自分のなかにしかなく、いくらそれをアイドルに求めても満たされることはない。】

凄いな。正直、これほど客観的に自分のやっていることを理解しながら、それでも、刹那的になのかもしれないけど、「信仰」と呼べるほどアイドルに没頭できる瞬間を得られるというのは、凄まじい気がする。

本書はもちろん、アイドルの話ばかりではない。彼が生きていく中で引っかかってしまうこと、躓いてしまうこと、辛いこと、楽しいこと、虚しいこと、分かり合えないこと…そういうことを、ねっとりしつつ麗しい文章で切り取っていくのだ。

【仕事先で「オカマなのにどうして女装しないんですか!?」なんて言われてしまい、つくづく「オカマ」ってジェンダー化してるよなーと思いました。きっと私より上の世代のオカマたちは、とにかくオカマという生き物・生き方がこの世に存在しているということを叫ぶのに必死で、おかげでこうして私も堂々と世間を闊歩出来ているのだと思いますが、世間は過剰にキャラクター化されたそれをとりあえず認識することしか出来ず、「色々なオカマがいる」と想像するまでには至らなかったのかも。だとしたら、それを広く認知させることが私たち世代の役目なのかもしれませんが、圧倒的マジョリティである男ジェンダーや女ジェンダーが苦戦しているところを見ると、やはり前途多難という感じがします】

【赤ちゃんと触れ合ったときの幸福感は、感じれば感じるほど惨めになるので、ここ数年意識的に不快なものとして処理していたのですが、その瞬間油断していたこともあり、ついうっかり「ああ幸せだ」なんて思ってしまった】


【古びたおもちゃ屋さんに入ってみたところ、ものすごい宝の山で、急いでお金をおろしにコンビニへ走ったのですが、ATMのミラーで見た自分の目が爛々と輝いていてゾッとした。何かに似てると思ったら、去年遭遇して一目惚れしてしまった露出狂の目だった】

【中くらいの人間に限って、自分より下だと認定した者に対する拒絶反応が強い。自力で上には昇っていけないから、下の人間を「作る」ことで上に立つしかないからなのだと思いますが、それにしても嫌悪感丸出しなあの表情の下には、どこか怯えがある気がする。もしかして、踏みつけた人間から、足を引っ張られる恐怖なのだろうか。】

自身や世間を捉える視点が鋭く、さらにそれを、絶妙な“醜さ”をブレンドした可憐な文章で綴るので、なんとなく陶酔するような感覚に襲われる。日記の後半は、事実なんだか分からないような、ポエムチックな文章が続くようになってしまい、個人的にはそこだけ不満が残るのだけど(でも、そういう部分を読んで、もしかしてこの本は、本当の日記ではなくて、小説なのか?と思ったりした。もし本書が小説であるなら、それはそれで驚愕する)、全体的には、過剰な自意識に埋もれるようにして窒息死寸前の人間が、息も絶え絶えなんとか呼吸しながらこの日常の中で生き延びていく様が丁寧に綴られていて、非常に面白く作品でした。


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