サラスパから「生活」について考えた

※今回の記事は、ある「ZINE」をベースに思考を展開したものであり、その「ZINE」の内容を基本前提としているので、大体の人には議論が唐突に感じられると思います。

「『丁寧な生活』『無◯良品的な暮らし』に対する違和感の正体」こそが、行われているやり取りの本質なのだろうと思う。つまり、「何故それらに対して違和感を抱いてしまうのだろうか?」という問いが中心にあるということだ。同じような問いについて僕も考えてみた。

僕はインスタグラムなどのSNSをほぼやっていないが、確かに「丁寧な生活」という言葉は、「インスタ映えする暮らし」とほぼ同義に感じられてしまう。実際に自分の目で見たことはないが、SNS上にどんな写真がアップされているか、大体イメージできるほどだ。

そして確かに僕も、そういう生活に対しては違和感を覚えてしまう。

彼らのやり取りを踏まえた上で、僕もその理由について考えてみたが、「生活を構成するモノが持つ『機能』をどのように捉えているか」に問題の核があるのではないかと感じた。

例えば「本」を取り上げてみよう。「本」は「読むもの」という機能も持つし、「飾るもの」という機能も持つ。あるいは僕のように「本を詰めたダンボールをいくつも並べてベッドにする」ことだって可能だ。

さて、書店員だった僕としては、「本」が持つ第一義の機能は「読むもの」であってほしいと思う。「ベッドにする」のは当然邪道だとして、「飾るもの」というのも副次的な機能であってほしいと望んでしまうのだ。しかし、「本」に限らずどんなモノでも、「そのモノが持つどの機能を第一義的なものと捉えるか」は個人の自由である。僕がどれだけ「本は何よりも読むものだ」と考えていたとしても、「本は何よりも飾るものだ」という考えを否定する権利はない。

また、どんなモノにもそこに「機能」を注ぐ「作成者」(本の場合なら、編集者や装丁家などがそれに当たる)が存在するが、その「作成者」が意図しない「機能」を最優先する人がいてもいいと思っている。「本は何よりもストレス発散のために破るものだ」と考える人がいるとして、やはりその人の考えを否定するものではないだろう。

さて、この考えを前提とした上で、モノが持つ「機能」を2種類に分けたい。「ビジュアル的な機能」と「ビジュアル以外の機能」の2つだ。「ビジュアル」を軸に分ける理由は、「SNSなどで『生活』を他者に見せる」という風潮にこそ問題の本質があると思うからである。

僕の考えでは、主にSNSを通じて発信される「丁寧な生活」「無◯良品的な暮らし」に対する違和感は、このように表現できるのではないかと思う。つまり、

【「ビジュアル的な機能」に”しか”価値を認めていないのではないか?】

という疑惑である。

ここで1つ前提を付け加えたい。それが、「『生活』を構成するモノには、『ビジュアル的な機能』と『ビジュアル以外の機能』が共に含まれている」である。

人目に触れることが前提の「ファッション」の場合なら、「ビジュアル的な機能」しか存在しないモノ(アクセサリーなどはその一例だろう)は当然存在する。一方で「生活」の場合は、そもそも「人目に触れることが前提」という感覚はまだあまりないはずだ(VRがもっと当然のように普及し、ヴァーチャルの世界で他人の家に当たり前に入り込めるような未来が来るなら、その前提もきっと変わるだろうが)。だからこそ、「生活」を構成するモノには「ビジュアル的な機能」だけを有するものは多くはないと思うし、今回の議論では無視していいだろう。

そしてその上で、SNSを通じて発信される「丁寧な生活」「無◯良品的な暮らし」に対して、「この人は『ビジュアル的な機能』にしか価値を感じていないのではないか?」と考えてしまい、それが違和感として残るのではないかと思った。

「ZINE」の中に、「みんなパジャマきたままダラダラして、ベッドで課題して、みたいなのが生活じゃないの」という発言がある。まさにこの文章には、「他人に見せられないような生活こそ『生活』と呼ぶに相応しいのではないか」という感覚があるだろう。

この文章を先程の僕の思考に当てはめて改めて考えてみた時に、こんな風に捉えられるように思う。つまり、

【「『ビジュアル的な機能』を重視しない振る舞い」によって、「『ビジュアル以外の機能』に価値を抱いていること」を示せる】

みたいな感覚があるのではないかと。

「ビジュアル以外の機能」に価値を抱いているか否かは、実は判断が難しい。例えば「ハイブランドのバッグを持っている若い女性」に対してなんとなく違和感を覚えてしまうのは、「その女性が『ビジュアル的な機能』にしか価値を置いていない」と直感的に感じてしまうからだ。しかしもしかしたら、「ハイブランドのバッグは、確かに値段は高いけれど、ブランドが続く限り修理しながら長持ちさせることができるし、自分の子どもや孫にも使ってもらえるかもしれない」という側面を重視して買っているかもしれない。しかしそのような「『ビジュアル以外の機能』を重視して選んでいる姿勢」は、外から見てすぐに分かるわけではないだろう。

だから非常に逆説的ではあるが、「『ビジュアル的な機能』を重視していない振る舞い」によって、「『ビジュアル以外の機能』を重視している姿勢」を示すことができる、という発想が生まれることは自然だと思う。

別に僕は「ビジュアル的な機能」が「生活」に不要だと思っているわけではない。僕にはあまりそのような感覚はないが、見た目を整えることによって気持ちが晴れやかになるのであれば、それは「『生活』に必要な機能」と言っていいだろう。一方で、それがどんなモノであっても、何も意識しなければ「ビジュアル的な機能」の方が目立ってしまい、結果として「『ビジュアル的な機能』しか重視していない」ように見られてしまうことも確かだと思う。それが現状の、SNSに充満する「丁寧な生活」「無◯良品的な暮らし」と言っていいだろう。

そして、その現状に違和感を抱けば抱くほど、その対極にこそ「生活」の価値があるのだという姿勢を示したくなる。しかし先述した通り、「ビジュアル的な機能」は伝わりやすい一方で、「ビジュアル以外の機能」はパッとは伝わらない。本来であれば、「『ビジュアル的な機能』しか重視していない」という見え方に対抗するには「『ビジュアル以外の機能』を重視している」と主張すべきなのだが、それが非常にやりにくいのだ。

だからこそ、「『ビジュアル以外の機能』を重視しているという主張」の代わりに、「『ビジュアル的な機能』を重視していない振る舞い」が代用される余地が出てくることになる。

まとめるとこうなるだろう。

SNSに充満する「丁寧な生活」「無◯良品的な暮らし」への違和感の本質は、「『ビジュアル的な機能』しか重視していない」ように見えることだ。「ビジュアル的な機能」を否定したいのではなく、「『ビジュアル的な機能』“しか”重視していないように見える姿勢」に違和感を抱いている。ただ、「丁寧な生活」「無◯良品的な暮らし」を発信している人が「ビジュアル以外を機能」を重視していないのかどうかは分からない。「ビジュアル的な機能」は理解しやすく誰にでも伝わるから目に付きやすいだけで、「『ビジュアル的な機能』のアピール」が目立つからと言って、「ビジュアル以外の機能」を重視していない証明にはならないからだ。

しかし、「『ビジュアル的な機能』しか重視していない」のだと受け取り、反論したい気持ちも生まれるだろう。ただその反論は容易ではない。本質的には、「私は『ビジュアル以外の機能』を重視しています」という主張をすべきだが、どうしたってその主張においても「ビジュアル的な機能」が全面に出てしまい得る。「子どもを映した写真だと見せかけて、実は車を自慢している」という受け取られ方が当たり前にされてしまうように、「『ビジュアル以外の機能』を重視しているつもりの主張が、結局『ビジュアル的な機能』をアピールしているように受け取られる」なんてことは十分にあり得る。

となると、「『ビジュアル以外の機能』を重視している」と主張するための誤解されない最善のアピール方法は、「私は『ビジュアル的な機能』を重視していません」と主張することになるだろう。

そしてこのような思考が、「みんなパジャマきたままダラダラして、ベッドで課題して、みたいなのが生活じゃないの」という発言の裏にあるのだと僕は感じる。実際に「私は『ビジュアル的な機能』を重視していません」と主張するような機会はあまりないだろうが、「丁寧な生活」「無◯良品的な暮らし」に違和感を抱いている場合に、その違和感を的確に表現するために、「私は『ビジュアル的な機能』を重視していません」という実例が必要だと感じられる、ということだと思うのだ。

そして、この思考にこそ、「生活」を議論する上での難しさがある。というのも、本来は「ビジュアル以外の機能」が議論の中心に来るべきなのに、どうしても「ビジュアル的な機能」についての議論が避けられなくなってしまうからだ。

「ZINE」の中には「モノを選ぶ基準について考えることが大事だ」という話が出てくるが、まさにこの「基準」は「ビジュアル以外の機能」について言及しているだろう。「ビジュアル的な機能」を選ぶ「基準」は、結局その人の審美眼次第であり、「モノを選ぶ基準について考えることが大事だ」という文脈には当てはまらない。だから「基準」を考えるべきは「ビジュアル以外の機能」についてのはずである。

しかし、「丁寧な生活」「無◯良品的な暮らし」への違和感を示すために「ビジュアル的な機能」を重視していないかのような主張が必要とされてしまう。そしてそれ故に、話題の中心が「ビジュアル以外の機能」にはなりきれず、常に話題の周縁に「ビジュアル的な機能」が残滓としてこびりついてしまうのだ。だからこそ議論や思考がまとまりきらないように僕には感じられた。

「ビジュアル以外の機能」もきちんと重視しているのであれば、語義通りの「丁寧な生活」と呼んでいいと僕は思う。「本」の例に戻るなら、どれだけインスタグラムで「おしゃれな本」を飾った部屋の写真をアップしていようが、その人がその本を読んでもいるなら(あるいは読むつもりがあるなら)、それは「丁寧な生活」と呼んでいいと僕は感じる。ただ、もしその人がその本をただ飾っているだけで読むつもりがないなのであれば、僕は「丁寧な生活」とは呼びたくないと感じてしまう。

みたいなことを考えた。

あと「生活」について考える中で、別の難しさがあるとも感じた。それは一言で「創発」という言葉で表現できる。

「創発」とは「部分の総和が全体に一致せず、部分の総和を超えたような特性を持ちうること」を指す言葉だ。

例えば「脳」について考えよう。「脳」を構成するシナプスや脳髄などの「部分」を人工的に再現することは将来的に不可能ではないだろう。ただ、じゃあそれら人工的に作った「部分」を組み合わせた時に、その「脳」が「意識」を生み出すかは分からない。現状、人間の「意識」がどのように生まれているのかは解明されていないはずだが、まさに「意識」は「部分の総和が全体に一致しない」という「創発」的な仕組みだと思う。

そして「生活」にも似たような部分があると感じた。食器や壁紙など、「生活を構成するモノ」を「部分」と捉えた時、果たしてその「モノ」の総和を「生活」と呼べるだろうか、と考えてしまったのだ。まったく同じ「モノ」を揃えた部屋でも、「誰がそこに住むか」で「生活」の形は変わってくるだろうし、同じ人の生活でも20代と30代ではまた変わってくるだろう。

もちろん、「そこに住む人」も「部分」の1つと捉えるなら「部分の総和が全体」ということにはなるが、しかし「そこに住む人」も「部分」と捉えて「生活」を考えるとすれば、全員が同じ土俵に立って「生活」について議論することなど不可能だろうとも思う。

だから、「生活を構成するモノ」の総和として「生活」を考えるという思考そのものが議論のエラーを生み出しているようにも感じられてしまったのだ。

またもう1つ、「生活」を語る上での難しさを感じた。

例えば「旅行をする」「外食をする」などの場合、「普段とは違う」ということに価値を見出すことが多いだろう。海の近くに住んでいる人なら遠出の旅行では山を選ぶかもしれないし、外食する際も「家ではなかなか食べられないもの」を選ぶのは自然なことだ。

しかし、同じようなスタンスで「生活」について考えることはできない。何故なら、「生活」こそが「普段」だからだ。

旅行や外食は、「普段の生活」を基準にして良し悪しを判断することができる。じゃあ、「普段の生活」は一体何を基準にして良し悪しを判断すればいいのだろうか? 「生活」こそが「普段」である以上、「普段とは違う」ことに価値を置くことはできない。

つまりこれは、「良い生活」「生活を良くする」などと言う時の基準が、他のもの以上に統一されにくいことを意味する。旅行や外食の場合も「普段の生活」を基準に据えない人もいるとは思うが、「普段とはどれだけ違うことができるか」という基準はやはり分かりやすいだろうし、ある程度の方向性は一致するはずだ。しかし「生活」の場合は、それと同じ理屈が通じないために、「良し悪しを判断するための基準」も多種多様になってしまう。

だからこそ議論が進みにくいという側面もあるだろう。

みたいなことを考えた。

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