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ぼくは能書きマニア

わたしは、食品の能書きを見るのが好きだ。

何が使われているのか、かならず確認してしまう。元来はあまりそういうことを意識するタイプではなかったのだが、ある時を境に能書きマニアになってしまった。

こんなものなんで入れるのだろう?

メーカーの立場になればわかることも、ある。例えば食中毒を出せばえらいことになる。保健所によって原因と発生源が特定される。理由にもよるだろうが、そうなれば営業停止は免れないだろう。なによりもその後の営業や販売にに大きなマイナスの影響が出てしまうことは必至だ。

それなら、リスクがあろうとなかろうと、他国が使用の禁止をしていようがいまいが、厚労省が認めてさえいれば危険とされている保存料や添加物でも使ってしまうだろう。

あとで後遺症が出ても特定が難しいし、国のガイドラインさえ越えていなければ罪に問われることはない。実際、何年も経ってから症状が出ても、原因を特定するのは非常に難しい。だったら、目先のリスクの目潰しておこう、という発想になるのは理解できる。

だからといって、肯定するつもりはない。発想が理解できる、というだけの話だ。だから、日本の加工食品は売れればいい、という意図が丸見えな商品が実に多い。

そんなことを考えながら能書きを見たときに、この食品を食べて自分の体はどう反応するのだろう。そう考えたときに寒気を感じたのだ。

まず、食べ物が体内に吸収できるサイズというのはどのくらいだろう。

とても小さい。

としか言えない。でも言えるのは人間が自分の意思でそのサイズまで小さくことはできない。これは間違いない。例えば、咀嚼を続けてそんなサイズまで小さくすることはできるだろうか。無理。たとえ実験的にできたとしても毎日は無理。

そもそも役割的に咀嚼はそこまで小さくすることが求められてはいない。ある程度。ざっくりとサイズを小さくしてくれればいいよ、て感じでしょ。まあ、食道を通るサイズにすればいいぐらいか。途中で詰まったら困るからね。

で、胃袋で消化液を使って溶かす。でも胃では栄養を吸収しない。大腸に送られ、そこで更に細かくされ必要なものは腸壁から吸収されて必要なところへ運ばれる。

もんだいはここ。大腸ではどうやって栄養素の単位まで小さくして、いるものといらないものを区別するのだろう。なんで、必須とされている栄養素がとれなくても死なないんだろう。人間自身にそんな対応力があるのだろうか。

じつは腸内細菌がその役割のほとんどをになっているのではないかということが、近年わかってきたわけだ。彼らが一生懸命分解したり再合成したりして、人間に必要な、というか宿主に必要な栄養素をつくり出して、体内へ送り込んでいるのだ。

そう、体内に吸収されるぐらいの大きさまで細かくしているの腸内細菌だった。例えば大豆。この小さな一粒がそのままでは体内に吸収できないのは、誰にでもわかる。大豆は堅いから。

いや、そうじゃない。粒が大きすぎるのだ。では、粒を小さくしたきなこはどうだろう?あるいは大豆プロテイン。どうだろう、これでもまだ大きい。更に細かくしてアミノ酸の結合を断ち切って、ペプチドと呼ばれる極小サイズまで細かくしていかなければならない。

こんなことわたしにはできない。腸内細菌でないとできない。というのは現代人ならほとんどの人が知っているだろう。でも、彼らはあらゆるものを分解することができるのだろうか。化学薬品や食品添加物はどうなるんだろう。

そんな、宿主が無神経に口に入れたものをけなげに分解していることを想像すると、がんばれ、と応援したくなるし、変なものを口にすると、自分がかわいそうになる。人工甘味料なんか自分の腹に入れたらどうなるんだ。

とまあ、そんなことを考えたことを境に能書きマニアになったのだった。

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