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仏教の諏訪信仰

神仏習合とは

諏訪大明神と聞くと何を思いますか?
「神様」や「諏訪大社」を思い浮かべる方が多数だと思います。

しかし、諏訪大明神は仏様でもありました。

平安時代に中国より新たな仏教が日本に伝来しました。

伝教大師最澄の天台宗

弘法大師空海の真言宗

どちらの平安仏教も神さまと融合する「神仏習合」の形となりました。

天台宗は「山王神道」真言宗は「両部神道」という信仰を礎に神と仏が融合する教えを弘めていきます。

それは、平安時代から明治時代まで1000年間も続いた「神さまと仏さま」が共存する日本人の信仰の中心をなすものでした。

お家に神棚とお仏壇がある光景が普通の光景であったように、神社とお寺が併設されている姿もまた普通の光景でした。

神社を管理・運営する役目などを担うお寺「神宮寺」や「神護寺」などの宮寺が整えられていきました。

諏訪に於いても、上社・下社に神宮寺が併設され、お寺と神社がある光景が当たり前の光景でした。

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かつての御神体「鉄塔」に奉納された般若心経。主に鉄塔には法華経が納められた。

諏訪の仏教は、どうやら「法華経」の信仰から始まります。諏訪大明神絵詞にも「法華経」の記述が沢山あったり、かつての御神体であった「鉄塔」には法華経が納められたり、諏訪大明神の本当の姿「本地仏」は法華経を守護する「普賢菩薩」だったりと・・・

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諏訪大明神本地普賢菩薩

諏訪大明神の本当の姿(本地といいます)は「普賢菩薩」という神仏習合の信仰が根付き、諏訪上社の隣に神宮寺普賢堂というお堂が鎌倉時代の1292年頃に作られました。その際に現在の諏訪大明神本地仏として祀られる普賢菩薩様が作られました。

諏訪大明神は多くの歴史上の人物に信仰されてきました。

その一人、「武田家」。武田信玄・武田勝頼は諏訪大明神を深く信仰し「南無諏方南宮法性上下大明神」という旗を戦場で掲げてご加護を願いながら戦ったことは有名な話であり、その旗も現存します。

武田勝頼は諏訪家の血を引く武将で、武田家の最後の統領となります。天正10年(1582)3月3日織田信長軍が勝頼討伐の軍を諏訪へ進め、諏訪上社を焼き討ちにしてしまいます。

その際、諏訪大明神として祀られていた「普賢菩薩」も象座の部分はなんとか難を逃れましたが、菩薩像部分は信長軍により壊されてしまい消失してしまいました。

そして・・・・武田家は滅亡し、信長も本能寺で生涯を閉じた後、1593年に普賢菩薩像を作り直して、再び普賢堂に祀り諏訪大明神として明治時代を迎えます。

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仏法紹隆寺が書き留めた神仏分離の日記

神と仏が分かれた日

明治時代になると、政府が神国日本を目指し、国家神道という政策を進めます。

明治初年 神仏分離令が出され、神と仏を分ける政策が始まりましたが、実際は仏側を破壊する「廃仏毀釈」となってしまい、多くの寺院や仏さまが壊されました。

諏訪でも神宮寺や神宮寺と共にあった一派の寺院が廃寺となります。

仏法紹隆寺は諏訪高島藩の真言宗の筆頭寺として上下神宮寺の総支配となり、神宮寺の存続のために尽力します。

当初、普賢堂・五重塔・鐘楼堂など主要な堂塔が仏法紹隆寺へと引き渡されることになりましたが、神宮寺村の人々の嘆願があり、神宮寺の伽藍を神宮寺村武居城へ移転させるという計画を藩へ提出します。

しかし、藩では神宮寺村では寺院の経営はできないと判断し、仏法紹隆寺が経営するお寺として存続させるという事になります。

この願いも結局は叶えられず、最後に諏訪地域の真言一派へ移転存続させるという案を提出しましたが、最終的に「いったん取り除いた堂塔の再建は認めない」と神祇官という役人の判断が下り、神宮寺の堂塔は姿を消すこととなってしまいました。

実はその時、諏訪大明神本地普賢菩薩は神宮寺村の蔵の中に隠されており、壊されることを免れておりました。

神宮寺村の人々はかつての諏訪大明神の行き先を考えます。そして、神宮寺取り潰しの際に神宮寺村に協力してくれた寺院であり、藩の祈願寺、藩主の祈願寺であった仏法紹隆寺へと移転させようと計画します。

神宮寺村の名主や年寄りといった代表者が仏法紹隆寺へ「本地普賢菩薩を仏法紹隆寺へ納めたい」と申し出ます。

かつての神宮寺の住職「神原図書」も藩主の参詣がある仏法紹隆寺がいいと思うという意見を出し、藩主が賛同して仏法紹隆寺へと移転されることになりました。

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上神宮寺と仏法紹隆寺で本地仏の移管の際に取り交わした証文

そして、明治2年6月15日の夜、ひそかに神宮寺村の土蔵より運び出し、仏法紹隆寺まで移転しました。なぜ、夜だったかというと、「道中に粗暴の者がいるから(道中に壊そうとする者がいるから)」という藩の忠告があったためであり、翌日、お殿様や藩へ報告し、「吹聴勝手次第(民衆へお知らせしてもいいですよ)」という許可がでたのです。

こうして、長い間「諏訪大明神」として諏訪を、そして諏訪の人々を、日本中の人々を見守ってきた普賢菩薩は仏法紹隆寺へと移管されました。

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先ほどの古文書の重要事項をまとめた年表

最後に・・・・

移管の際に詠まれた詩を紹介します。

「むかしより 住みし都をあとにみて 心のとどむ 鹿の鳴き声」

仏法紹隆寺の紹介動画はこちら

仏法紹隆寺のチャンネル(ライブ配信など)はこちら

次回は諏訪大明神本地普賢菩薩の解説をしたいと思います。

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