僕は、母さんにとって本当に家族だったのだろうか
「リトル・フォレスト」(原作)を読んだことがある。主人公のいち子が上司に仕事をもっとてきぱきやるように言われているシーンがある。
いち子は心の中でつぶやく。
「あんたなんて家のこと全部嫁さんにやらせてるんでしょ。帰ったら家は暖かくしてあって夕ご飯もできていて家では疲れたーって言ってりゃいいんでしょ。洗濯物がたまっていたら文句を言うだけでしょ。どんなに疲れていても私は全部自分でやんなきゃなんないのよ。金を稼ぐのも家の仕事も分担してくれるひとはいないのよ。
中略
自分がしたくないこと家族にやらせるくせに忙しぶってエラソーにしてんじゃないわよ。私は何でも一人でやってんの。家族に甘えてるあんたたちに私の苦労がわかるわけない。仕事を分け合える家族がいないのがどんなに……」(第1巻P59~61)
そこでいち子の脳裏に母親の顔が浮かんだ。「私は母さんにとって本当に家族だったろうか」と自問自答する。
いまの自分はいち子そのものだ。昔は、母に全てを任せていた。母は仕事もして家事もしてそのほかの雑多な用事も引き受けていた。
そのころ、オレはゴミカスヒキニートで時間がありあまっていたくせに母の手伝いをしようとすらしなかった。母が死んでようやく気がついた。
いや、母が生きていたときにも気づいていたはずなんだ。見て見ぬふりをしていただけ。家族というのものに甘えていただけ。そんなの家族じゃないのに……。
「リトルフォレスト」の映画版では、いち子役が橋本愛。実は、Blu-ray盤をもっている。主役の子がテニススクールで知り合った女の子に似ているんだ。フラれたけど。テニスだけにラブゲームだと思ったんだけどな。
この映画には、物語がない。物語性がないものはつまらないと思っているんだけど、安心するんだ。
ああ、オレがつまらないと切り捨てているものって安心なのかなといま気づいたような気がする。もちろん、その安心感って人を鈍感にさせるものでもある。
主演の橋本愛の演技が上手いというわけではないんだけど自然。この映画に出てくる田舎の生活が不自然だからそう思うのかもしれない。泥臭さがなくて都会の人間が描いているようなファンタジー。
でも、いまの自分には都会と田舎のいいとこ取りが心地良い。
「言葉はあてにならないけれど、わたしの体が感じたことなら信じられる」というセリフがずっと自分の心につきささっている。
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