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僕はニュータイプでもオールドタイプでもなく、強化人間だ

ナラティブという言葉をよく聞く。これは現実の記憶と完全に一致するわけではない(そもそもそんなのは不可能)。この物語としてのナラティブというのは、いつでも解釈が変わるし上書きがされる。

だから、必ずしも一貫性があるとはかぎらない。たとえば、ずっと「親にひどい目にあった」とこだわっていた人が、数年後に「ああ、そういうこともあったっけ」となることがある。僕もひきこもり支援のボランティアさんに指摘されたことがあった。

僕はひきこもり当事者雑誌「ひきポス」に関わっている。そこで書かれる記事の多くは、ナラティブだと思う。書き手が自分の人生を物語る。

たまにひきポスのことでこんなことを言われたりする。「親や教師などの話も聞かないと客観性がない」とか。この人は裁判でもしたいのだろうか。あるいは、定量化を求められたりすることもある。それはどこかの学者に頼んでほしい。

親が仮に客観性にこだわって周囲の証言をもとに「自分は悪くない」と主張したとしよう。おそらく親子関係は悪化すると思う。親からすれば、冤罪で責められているような気持ちになるのはわかる。でも、ここは司法取引のように考えたほうがいいんじゃないだろうか。どこかで落としどころをみつけたほうが双方の利益になる。

人は真実の物語を語ることはできる。でも、真実そのものを語るってことは無理なんだ。真実の物語とは、主観的事実と言ったほうがわかりやすいかもしれない。でも、その主観は、物語る人の状態や状況でいくらでも変化するという曖昧さを内包する。良くも悪くも。

本棚を整理していたらアルバムを見つけて自分の昔の写真をみつけた。

物心ついてから生きづらさを抱えていたとかひきこもり心性をもっていたとかよく聞くけど、僕はちがう。生まれながらのひきこもりではない。もし、いじめなどがなければ人生を謳歌していたんじゃないかとすら思う。ウェーイ系だと思う。そして、ひきこもりを叩く側になった可能性が高いはずだ。

ひきこもりをニュータイプとしたら(で、大多数の人はオールドタイプ)、僕は強化人間にちかい。人為的にニュータイプにさせられたタイプ。つまり、ナチュラルに生きづらいわけではなかった。でも、ニュータイプにさせられてしまった。

こういうタイプは、ニュータイプのいる人たちの集まりに行っても居心地が悪かったりする。アイデンティティ・クライシスに陥る。中途半端だから。これもハイブリッドでラッキーという解釈に変化する可能性もあるんだけどね。ナラティブ的に。

※写真をみると全然ヒキっぽくない。このころは、全然生きづらさなんてまったく感じてなかった。ひきこもっていなければ、サッカー日本代表に選ばれたような気がする。ちなみに姉はスポーツ万能でマラドーナに直接指導を受けた経験がある。

記事の内容がよかったぜという方だけでなく、喜捨して徳を積みたいという方にも喜んでいただけるシステムになっております。この機会にぜひ(^_^)v