脱オタしたい喪女 後編

脱オタしたい喪女 前編

の続きです。読んでない方はそちらの方からよろしくお願いします。



オタ活からの脱却として私は就活を始めた。
アラサー…もはや20代と30代の境界線を跨ごうとしている人間が初めて正社員を目指している。

前回書いたように資格は何個か持っているので書くことには正直困らなかった。同人活動…というのもかなり大げさだがオタ活をしてるうちに文章というのは散々書いているので文を書くことが苦になるというのは無かった。

正直、この時点でまだ私は社会、いや人生というのをナめていたと思う。

事実書類選考はなんだかんだで通るのだ。女だからか、資格を持っているからか、そこは今となってはわからない。


だがいざ面接となるとどうしようもなかった。いつもここで私はふるい落とされるのだ。

私は致命的に人に話せることがなかった。
もちろん就活に失敗して経歴に長い空白があるのは当然響く。
だが正直ここでふるい落とされるのは覚悟の上ではあった。中身と経歴が空っぽであるという事は甘んじて受け入れられた。

何が辛いか、私は対外的なことに一生懸命に取り組んだことが無いのだ。時間、金、労力、その全てを自分に費やしてきた。ベクトルの矢印の向きが全て内側。

そんな人間と共に誰が働きたいと思うか。
その事実と正当さに苦しくなった。

オタ活の内容を面接官に話せたらどれだけいいかと悔やんだ。

馬鹿馬鹿しい考えだと言われかねないが
「私はサークル活動としてBL同人小説を作成して売買したことあります」
と言ってそれが絶対的な評価点にならないかと本気で思った。

もう一つ、私の甘さをここで言語化すると「対外的なことへの投資の見返りが返ってこない、その辛さを知らならかった」ということだ。

「趣味」の範囲内でやる同人活動、同人誌の売買ならば「自己満足」で言い訳できる。

だがこと「就職」となるとどうしようもない。
分かりやすい一例を挙げるならその会社への「交通費」はもし落とされてしまったら全てパァになるのだ。
私はその辛さを就活にて初めて知った、辛くて仕方なかった。

だがなお続けるしかなかった。もしここで諦めたら
「中身、経歴共に空っぽ」
「ベクトルの矢印が全て内側の自己中」
「社会の厳しさを知らない」
というレッテルが焼印として身に染み付いてしまう。それだけは避けたかった。


それをしばらく続けていくうちに私はあしたのジョーのラストシーンよろしく灰になっていた。このまま本当に灰になれればどれだけいいだろうかと思った。

辛い心境の中私は久し振りにTwitterを開いた。

そこではいつもと変わらぬ光景があった。女オタ、腐女子たちがいつも通り自分の趣味に生きて個人主義を拗らせていた。
私は安堵を覚えると共に以前のような嫌悪感、疑問を思い出してしまった。

精神衛生上見ていてもあまりよろしくないのでスマートフォンの電源を切った。それよりも私は一刻も面接を通るための口述を考えなくてはいけないのだ。

その時ふと頭の中に黒い考えがよぎった。
私は以前周りの女オタ達を見てこう思ったわけだ。

人に愛される努力はするくせして何故人を愛する努力をしない?

自分の努力を認めて欲しいくせして何故人の努力を認めない?

自分の苦しみを認めて欲しいのに何故人の苦しみを認めない?

人に愛される努力すら投げ出したくせして何故自分を認めてもらいたがる?

言い出したらキリがないがこんな疑問が彼女たちから思い浮かんだ。


「あ、あ、あ…………」

私は本気で嗚咽した。

上で並べたこと、要は
「人にリソースを使わなかった、誠実に向き合わなかった人間に誰が向き合う?」
ということである。

それはそのはず世の中の出来事や人との交流はどこかしらでトレードオフが成り立っている。
「義理と人情」と呼ばれるものですらこの理屈が適用される。

社会や人にリソースを使わなかった、誠実に向き合わなかった人間に誰が向き合う?

皮肉なものだ、かつて私が人に対して向けた思いを今度は社会が私に向けている。

まるで今まで社会に対して無頓着だったことを帳尻を合わせるかのように詰めてくる。

絶望した。どうしようもないと思った。

もしここで「それでも私のようなクズ人間に対して向き合うのが社会の務めじゃないのか」と開き直れたらどれだけ楽だと思ったか。

だが出来ない。ありとあらゆるブーメランが私に今返ってきている。
私はズタボロだった。

どうしようもなさに襲われそれでも行動をやめるわけにはいかず、泣きながら履歴書の欄を埋めるのであった。


ある日、父が私に声をかけてきた。
どうやら就活をしている私を気にかけて出来ることがあるなら手伝うと言うのだ。

父は地方の生産工場の管理職だった。曰く人事権と言えるほど立派なものではないがある程度顔は効く、そして事務員の枠が空いているとのことだ。

父曰く、私のその時の顔は「鳩が豆鉄砲を食ったような顔」だったらしい。
思わず言い返した。
「私は今の今まで、自分にしか金を使ってこなかった。家族のかの字も気にかけたことなんてなかった。それなのに何故気にかけるんだ」

細かいところは覚えていないが確かこう言ったと思う。

父はそれに対して「娘だから」と言った。

私は耳を疑った、様々な思いが頭を駆け巡ったが私の疑問を「娘だから」という一言で片付けたのだ。

まるで糸の切れた操り人形のように力が抜けた。

今まで嫌悪していた、私の傲慢な個人主義を生きるためにどうしても目をつむらなくてはいけなかった「家族」という存在がここに来て救いの手を差し伸べて来たのだ。

社会、そして家族にすらリソースを割かず、誠実に向き合わなかった人間が、その家族に救われようとしているのだ。


私はその日泣きながら父と共に履歴書を書いた。
大雑把に経過を端折るが私はこの流れで父の工場の事務職として働くことになった。初めての正社員登用である。


こうして私は真っ当な(というのもかなりおこがましいが)社会人になれた。

オタ活も距離感を考えて少しずつ良い付き合いができている思う。

しかし今でもあの恐怖を時折思い出す時がある。

物事へ投資したのに明確な見返りがない

人にリソースを割かなかった人間が何故人からのリソースを期待しているんだ

未だに心の隅の弱いところを刺してくる。
ここで傲慢に開き直れたらどれだけ楽か。
だがこの辛さに対して人というのは常に労力を注ぎ込まなくてはいけないのだ。
きっとソレらは永続的に要求してくるだろう。それでもやらなくてはいけない。


オタクよ、腐女子よ、いや、そうでもない人よ、自分にだけ金を使うのは楽しいだろう。今を楽しむための理屈を作り出すのは気持ちがいいだろう。

けどそれは「未来への投資を投げている」ということとイコールであると気づいてほしい。

少なくともその金銭的、心身的リソースがこの先も間違いなく有り余るであろうなら止めるつもりもない。それならば問題はないであろうさ。

ただ、少なからずとも私はもう手遅れ側の人間だ。

私の屍を超えていけ