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「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の感想とうつ映画たらしめる理由

ダンサー・イン・ザ・ダークという映画は衝撃的なバッドエンドからか、評価が極端に賛否両論ある。
 確かに主人公が向かう先にあるのは光ではなく闇であり、人間の暗くえぐみのある部分が強く表現されている。

今回はそんなダンサー・イン・ザ・ダークを見た感想を書きます。

 

ダンサー・イン・ザ・ダークのあらすじ

アメリカに住む移民セルマは、息子ジーンと2人暮らし。貧乏だが工場での労働は、友人に囲まれて日々楽しいものだった。だが、セルマは先天性の病気で徐々に視力が失われつつあり、今年中には失明する運命にあった。ジーンもまた、彼女からの遺伝により13歳で手術をしなければいずれ失明してしまうため、必死で手術費用を貯めていた。
ある日、ジーンの手術費用として貯めていた金を親切だったはずのビルに盗まれてしまう。セルマはビルに金を返すよう迫り、もみ合っているうちに拳銃が暴発し、ビルは死んでしまった。セルマは殺人犯として逮捕され、裁判にかけられる。セルマはこのまま真実を語らなければ、死刑となってしまう。しかしセルマは真実を語らず死刑宣告を受ける。
死刑執行前、セルマは恐怖からジーンの名前を叫び、死の恐怖を女性看守に訴える。死刑の見届けをしていた友人のキャシーはセルマに、ジーンはもうメガネが必要なくなり、手術に成功したことを知らせる。安心したセルマは落ち着き、笑顔になりながら「最後から二番目の歌」を歌った。しかし、歌の途中で死刑が執行されてしまう。
セルマが真実を語らなかった理由は「自分よりもジーンが大事だったから」であり、ビルを殺してでもジーンのためなら構わなかったためであった。
(wikipedia 引用)


目の見えないセルマの生き様

「目が見えないのかい?」と聞いたジェフに対してセルマが言った「見るべきものがある? 何もかも見た今、もう見るものはない」というセリフが脳裏に残っている。

このセリフを言えたのには理由がある。

病気によって少しずつ見えなくなっていったセルマは失明することに対して心の準備ができていて、見えなくなったことに対して感情を表に出すことはなかった。
そのセルマの振る舞いは完璧で、目が見えなくなることに恐怖を感じていなかったのではないかとさえ感じさせられる。 

しかし、ジーン(セルマの息子)の目が見えなくなることには相当な恐怖感を持っていて、ジーンの病気の進行を人生をかけてでも阻止しようとした。
彼女の生きがいは自分の中には存在し得ず、ジーンの将来にのみあった。

自分が傷つくよりも、最愛の人が傷つくことの方が何倍も苦しい。
そんな思いを強く感じる。

「息子以外のことはどうでもいい」という盲信的な愛は、セルマの印象を愚かで純粋な人物というものに引っ張っていった。
その「愚かさ」「純粋さ」というものには、まっすぐな強さを感じた。大切なものを守ろうとする人間としての力強さがセルマにはあった。

 

目の見えないセルマが見ようとしたもの

目の見えないセルマにとって、厳しい仕事をしてお金を貯めなければならないという現実はとても過酷だった。
辛いけど逃げられない、まさに「目を背けられない現実」を、セルマは目で見ることができない。

そんなセルマが見たものは、彼女が好きなミュージカルだった。
セルマはいつもミュージカルの妄想をしては、その中で踊っていた。そんな幻想の中で、セルマは色々なものを見た。

見えないからこそ何かを見ようとした。
何も見えないからこそ、自分自身で見るべきものを創った。

 

セルマが死刑を受け入れた理由

揺るがない事実として、セルマはビルを殺した。だからこそ、セルマも人間に殺さるという運命を課された。

唯一断ち切った運命は、息子が見えなくなるという運命。
セルマ自身が「自分の運命」も「息子の運命」も決めたのは、彼女の持つ強さの表れ。

最終的にセルマが自ら死を選んだ理由は、セルマの人生最大の目標であった息子の手術が成功したから。手術が成功したということは、彼女の生きる意味を全うしたということでもあった。

 

セルマの処刑シーン 

処刑のシーンで、セルマは「最後から二番目の歌」を歌った。
彼女の人生最後の舞台で「最後ではない歌」を歌ったのには強い意味を感じる。 

完結を迎えぬまま幕を閉じたことには、2通りの意味があると思う。
1つ目は、死後の世界が待っているという予兆。
2つ目は、「生」に対して未練があり、終われせたくなかったということ。

映画には必ず、解釈の正解がある。
それは映画監督の意図。映画監督がどのような意図を持って、「最後から二番目の歌」を選曲したか聞いてみたいな。


生に執着するセルマ

処刑場まで107歩を歩くシーンで、一歩一歩近づいてゆく死への恐怖と、生に対する執着が描かれている。

死を受け入れながらも「生」に未練を見せたセルマは美しかった。
生きるという選択肢も持っていながらも、自分の命を捨てて息子の目が良くなることを選んだセルマは本当に強い人間だった。

恐怖することも、耐えられず泣き崩れることも「弱さ」ではない。
怖くて怖くて仕方なくても、やるべきことをやった「強さ」があった。強いというのは、いくら弱音を吐いても、最後にやり遂げることを言うのだと思う。それを教えてくれたのがセルマだった。

 

セルマの生き方と山口絵里子さんが似てる

「裸でも生きる」という本を書いた山口絵里子さんの生き様がセルマに似ている。

バングラデシュで独力でカバン工場を立ち上げ、マザーハウスという会社の代表取締役をしている人であり、『裸でも生きる ~25歳女性起業家の号泣戦記~』の著者でもある人。

彼女のすごいところは「自分の弱さと戦う強さ」があるところ。
バングラデシュで工場を立ち上げるまでにぶつかった困難や恐怖に対して、山口さんはめちゃくちゃ怖がるし、辞めたいとも、嫌だとも言う。

でも辞めない。 

なぜならそれがやりたいことであり、やらなければならないと思っているから。
強さというものは「物怖じしない」「どんどん前へ進んでいく」「いつでも平気」というものではない。恐怖に折れない強さ。それこそが本当の強さ。


さいごに

善人として描かれている主人公が処刑されて終わる映画が「ダンサー・イン・ザ・ダーク」。

処刑シーンは、言葉を失うほど残酷に描かれている。
これがうつ映画と呼ばれる理由なのだと思う。

しかし、視聴者が感じるほどセルマは不幸だったのだろうか?

セルマは自分自身が信じる正しい行い、息子を守りきった。
最愛なもののために死ぬということは、幸せであったのかもしれない。

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