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サマソニ2022問題から見る邦楽の社会的主張の是非

フジロックのときも記事書いたけど、サマソニでも一悶着あるとは思わんだ。

今回のサマソニは3年ぶりの開催。
先述の記事によると

出演者の男女比が半々でないフェスには出ない、と明言したThe 1975がヘッドライナーとして世界初公開の新曲を披露した。リナ・サワヤマがLGBTQの権利に言及し、素晴らしいパフォーマンスを見せた。

素敵やん?
特にクィア・ミュージック(友人の藤嶋さんの言葉を借りてこう呼ばせていただく)に注目している自分にとってリナ氏のパフォーマンスは素晴らしいと心から思う。

この記事は続いて、要約すると
・ヌとホルモンが差別とも取れる言動を取った
・日本の大衆音楽はたいてい社会的主張が感じ取れない
・果たしてそのような音楽を聴く意味、意義はあるのだろうか?
ということが書いてある。
それを受け、ツイッター上では賛否両論。というかはちゃめちゃによく見る「音楽に社会的主張は必要ない/必要ある」論がまたもや白熱する形になっている。

毎回僕は「必要ある」とツイッターで呟くに留まっていたが、まあ良い機会なのでちゃんとまとめようと思う

まず記事への思い

話を広げすぎてわけわからんことになったらアレなのでまず序章として、話題になってる記事に注目して意見を述べたいと思う。

・ヌとホルモンの言動
具体的に言うと
king gnuはマネスキンのベーシストのニップレス衣装をネタにした。ヌのドラマーがTシャツの上からテープで乳首にバッテンを書いて「マネスキンです」ってやったらしい。
マキシマムザホルモンはリンダリンダズのカタコト日本語をマネしてMCをした…
とのことらしい。
両者とも文面通りのことをしていたのなら個人的にはクソダサいと言わざるを得ない。もちろん自分は現地には行っていないので、文面通りならばの話ならだが。
ただ、調べてみるとヌとホルモンには違いがあった。
そもそもヌはマネスキンと交友があり、両者笑顔で肩を組んだ写真を投稿している。
ホルモンには本人たちからのカウンターアクションはない。(8月21日時点)
暗にヌは「互いに認め合った上でのイジリですよ」という表明をしているように思える。
そもそもステージ上で他者をイジるなし、という気持ちはあるが、本当にどっちか、と言われれば、ホルモンの方が悪者っぽいような気がしてくる。
ていうか、ヌに関して個人的にファンなので、そこまで頭悪いことはしないんじゃないか、してしまったとしてもアフターケアとしてちゃんと弾が用意されてたんじゃないかという気がする。
ホルモンに関しては…まあやりそうだなという印象はある…
ホルモンも音楽が嫌いなわけじゃないけど…

・マネスキンとリンダリンダズのスタンス
マネスキンもリンダリンダズも両者とも社会的主張がゴンゴンアリアリのバンドである。
マネスキンは女性が性的搾取される世界ファック、を謳ってるし、リンダリンダズも「好きになった男子がアジア系差別しててマジファック」みたいな曲書いてた。
この主張のおかげで、それを茶化してるヌとホルモンの言動が稚拙に見えて、この記事で論を白熱しているように思える。
つってどっちにしろ他者をネタにすんなやと思うが。
ツイッター上で見た意見で「英語のスピーチをネタのように話すゆりやんレトリィバァは許されて、カタコト日本語をネタのように話すホルモンが許されないのはなぜか」に関するアンサーはここにあるような気がする。
つまり、ゆりやんは「英語話者のマネ」というボヤっとした対象だったが、ホルモンは「差別意識と戦う女性のマネ」という対象がはっきりとしているところにあったというわけだ。

・潜在的差別意識を持つ"邦ロック"バンド
そりゃ「あなたは差別意識があってそんなパフォーマンスをしましたか?」と聞かれて「はい」とは答えないだろう(むしろ明確なヘイト意識があってそのようなパフォーマンスをした方が個人的に擁護できる。単純に考えに芯があってかっこいいと思う。内容の是非はさて置いて)
そういう意味で「潜在的差別意識」なのだが、ここに関してはちゃんと「あなたたちの(自分たちの)していることは差別です」と認識することが大切だと思う。
僕自身男性同性愛者で、きっとこの読者にもフォロワーのTLに流れるのだから男性同性愛者がいると思う。
僕たちには「あたし"こっち"の人大丈夫だから」に「あっ大丈夫なんだ」と素直に思える人は少ないのではないだろうか。
ヌもホルモンも「別に直接disってないし悪意はないじゃないか」と言っても、その持ち上げ方がゼノフォビア(外国人嫌悪)やジェンダー差別に少なからずとも繋がってるのではないだろうか。

・差別するアーティストは"音楽"という文化を素通りしている
つまりはこの記事では
差別するアーティスト≒文化を素通りしている"邦ロック"
を聴いていては、音楽を聴いているとは言えないのではないか、という主張に繋がるわけである。
この部分"だけ"見るなら、僕はそう思わない。
「差別を認容するアーティストを聴くことは、音楽という文化を吸収しているとは言えない」の部分にだけNOを唱える。
先述でも述べたが、その差別的行動に"主張"があるなら内容の是非は別にして、意義はあると考える。
認める気はないが、主張がない意義がないとは言えないと思う。
アレよアレ。LGBTQ問題に関して「多様性を認めるなら差別も認められるべきだ」という意見は、気持ちよく認容はしないが主張の一つとして封殺するべきではない、と言えば多少分かりやすくなるだろうか。個人的にはそう思う。
ただ、あくまで"主張"であるならの話に限るが。

・反論
まず主語デカすぎクソワロタである。

A~Dが存在していると仮定して、AとDがクロだったので、間のCとBもクロと考えられる…っていう解釈でいいのかな?
でもEnvyとかSYRUPとかなんかMCで言ったりしてなかったっけ?Awichとか。
アジカンなんてずっと言ってるし。
記事の著者の意図を差し置いて、「邦ロック」という代名詞が広すぎて「いやいやいやそうじゃないし」なんて気分を起こす。てかこの人の記事でも書いてるしな。

洋楽vs邦楽で洋楽ヨイショしてるだけじゃないか説

このように反論しているが、たしかに記事中で
「もちろん国内にも素晴らしい人はいる。ただやはり国内の大半は〜」
と述べている。
まあこういう書き方したら、まるで海外の大半は素晴らしいままだよって書いてるようにも見える。
「こいつが邦楽嫌いなだけじゃね?」と一瞬思ったが電気グルーヴとceroの意図をしっかり汲んでいるようにも見えるのでその反論は暴論すぎる。
よって、ドローな印象。

さて次から本題。なげかった〜。

邦楽に社会的主張はないのか

まずはここから。果たして"世に蔓延る邦ロック"(蔑称としてこう言わせてもらう)に社会的主張はないのだろうか。
リプで僕のフォロワーとも話したが、意外とある印象だなと感じた。
巧妙に隠していたり、隠し味程度に潜ませていたり、もしくは書いている自分たちでも気づいていないかもしれない。
愛や恋、悲しみや後悔や怒りのような個人的主張はもちろん"他者との繋がり"によって生まれている。
そして他者との繋がりとはつまり社会であるから、こじつければどういう個人的主張も社会的主張に繋がりそうな気もする。
「踊れ〜!!!!!!」ってな感じの曲もつまりは普段の社会からの抑圧からの解放、つまり現代への反骨精神が産んだもの、と考えられたりする。
ケロケロボイスだってこじつければ主張が生んだ技法かもしれない。
人間臭さは表現活動に必要なのか、有機的成分は民衆に求められているのか。その疑問の形の一つがオートチューンのケロケロボイスを産んだのかもしれない。

もちろん、アーティスト側がハッキリと明言したわけではない。こじつけだ。
ただ、深く考えれば「この音楽は社会的主張は皆無だ」とは言いづらい、ということの例だ。

いきなり、"あまり匂わないもの"から考え始めたが、そもそも"プンプンに匂わせている"ものも結構ある。
僕が好きなのはpeople in the boxの『市民』

まあそもそもピープルはめちゃくちゃ暗喩を使って想像もし得ない題材を皮肉ってたりするバンドなのだが
この『市民』は同調圧力や右へ倣えの国民性を強く皮肉っている。(と思う)
同バンドの『ニムロッド』は空爆を想像させ戦争の厳しさを歌っている。(かもしれない)

"邦ロック"の範疇からは外れるかもしれないが、先ほど言った通りenvyとか宇多田ヒカルとかAwichとか…国内アーティストにゼロなんてことはない。
宇多田ヒカルなんて大衆性も確立しているが、その"音楽"のメッセージ性の強さに果たして気づききっているだろうかなんて不安もなくもない。

「自分は社会的メッセージを掲げているアーティストは苦手」と言う人は一度自分のプレイリストと睨めっこしてほしい。
本当にその曲は無味無臭だろうか。

音楽に社会的主張は必要ないのか

「音楽は文字通り音を楽しめばそれでよいのではないか」「政治や社会的主張は不必要だ」
この問題だが、あくまで僕は
政治&社会的主張は全くもって必要と答える。
そして、音楽には文化を辿ればなんらかの主張に結びつけることができる。
しかし、だからといって無味無臭の音楽は聴く意味はない、とは言いたくない。

これらが自分の意見である。

政治&社会的主張は要らない、と感じているのは現代社会の「変わらなさ」にあぐらをかいて座っているだけ。極端な、マジで極端な言い方をすれば、表現活動の怠惰だ。マジで極端な言い方だけど。
個人的であれなんであれ主張が表現活動の源になる。そして先ほど言った通り人との繋がりが根源である以上、それは社会的主張になり得る。
たとえミスチルだってスピッツだって政治&社会的主張になり得る。
それを観客側が「要らない」と掃き捨てるのは表現活動を求めていながらその原動力の否定というダブスタな気もする。
そもそも"音楽"というのは多くの政治活動の上、成り立ってきた。
政治活動がなければロックもヒップホップもメタルも産まれなかった。
「音楽に政治的思想は必要ない」と主張しておきながら「政治活動の上成り立った音楽を欲する」という変な構図を、否定派は産んでいるように思う。
よって音楽である以上、なにかの政治活動や主張の上、現代の演奏が成り立っていると感じていてほしい。

ただ、文化は生き物のように変容する。
もし民衆が無味無臭を望んで、無味無臭と言える音楽が生まれていくなら、それは一つのムーブメントであり一つの文化である。
よって、無味無臭は無価値かということはないと思う。
無味無臭というのが持ち味、ということが言い切れるかもしれない。

自覚の無さと"邦楽"

始めの記事で言った「洋楽vs邦楽」の考え方に戻ろう。
自分は、洋楽と比べたときに邦楽は「共通認識の薄さ」があると思う。
なんだろう…「音楽という表現活動に国民性として誇りを持っていない」と言語化すれば正しいだろうか。

他国をめちゃくちゃ調査したわけでもないし、ましてや僕は日本国内から出たことがないので肌で感じたこともない。
が、「音楽に政治&社会的主張がない」or「〜が要らない」と言っている日本はレアケースな気がする。
それは文化としての成り立ち、バックグラウンドを理解しようとしないまま聴いてきた賜物なのではないかという気がするのだ。

『邦楽』というのは日本で確立した文化のはずだし、バブル期からのシティポップなんかは特有な文化な気もする。
なのに、なんとなく海外ヨイショしがちな人が多く『邦楽』がジャンルとして確立してない感あるのは、文化の理解の無さ、そして「主張がない、要らない」に繋がっていっているような気がする。

音楽という文化の文脈を理解していくことで、この「主張がない、いらない」問題はみんなある程度落とし所を決めていけると思う。

つまりはまあ…

もし義務教育として、洋楽との比較や『邦楽』の文脈なんかを深く探求していったら
もしかしたら政治的主張、社会的主張、そして個人的主張の良いバランスが文化の中で確立し、ダサくねえバンドが出てくるのではないだろうか。

あとがき

8月21日、冒頭の記事を読んだその日に下書きをして、リリースをしたのが9月7日という遅さ。
誠に申し訳ない。
もっと書かないとな…
もっと音楽に関するコラム、書いていこうと思います。

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