禁酒論(あと一週間で酒断ち四十九日)


6月22日に体調を崩し、1週間の入院を経て、約6週間がたった。その間、お酒を呑んでいない。一滴も。

お酒を呑み始めてからというもの、ここまでお酒を呑まない期間が続いたのは初めてである。一人で家で呑むほど、お酒が好きなわけではないが、仲の良い4人ぐらいで呑みに行くのはとても楽しいので、週に3~4回は飲酒していた。
お酒を呑まない期間が続くと、お酒を呑まない状態で、お酒を呑んでいる人を見る機会が多くなる。正直、ひどい下痢を繰り返していた苦痛を思い出すと、お酒を呑みたいという気持ちが湧かないが、なんとなく蚊帳の外にいる気持ちになる。

内田樹は、共同体を立ち上げる儀礼として、お酒を呑みかわすことを挙げている。(他に、たばこを分け合うこと、キスとすることなど)
なぜ、お酒を呑みかわすことが共同体を立ち上げることになるのかというと、お酒を呑むことが「『自分のものであって、自分のものでないもの』を確認し合うことで、コモンウェルスを共同的に分かち合うこと、それによって一種の『幻想的な共―身体』の形成に参加すること」であるからである。これだけでは、全然意味がわからない。

例えば、お酒の手酌は忌避される。お酒は人から注がれたものしか呑むことが出来ないのは、暗黙のルールである。人々は、お酒という、「自分のものでありながら、自分のものではないもの」を、交換して、共有することで、コミュニケーションを生み出し、瞬時に共身体(内輪感といったほうがわかりやすいか)を立ち上げる。お酒を呑みかわし、本能的になった人々が自分の腹の内を交換するために、仮説されるテントのように、人々は手始めにお酒を交換するのである。このメカニズムの背景には、極めて人類学的な仕組みがある。

大学の講義でかじった程度だが、マルセル・モースは、『贈与論』において、トロブリアンドの島々で太古から行われている物々交換の文化について、「交換するもの」よりも、「交換をすること」に重要度があることを論じた。人々が交流をする時、交換をするものは何でもよい。
自然界に、完全に等価なものはないため(そもそもあるものの価値は人によって大きく異なる)、交換が発生する時、必ず非対称性が生まれる。つまり、貸しと借りの関係が生まれる。貸し借りがあるときの、背徳感が次の交換を駆動させる。ちなみに、この背徳感をある種の呪いの概念としてトロブリアンドの人は「ハウ」と呼び、現代社会において、「ババ」という実体に置き換えたゲームがババ抜きである。集団でカードの交換を行い、最後に「モノ」を誰とも交換できずに所有してしまった人が負けというのは、蓄財が美徳となった社会では、異常な感覚だが、人類学的には正常だ。
交換するものは、何でもよく、交換することが大事なことは、好きな女の子に本やCDを貸す時、返してもらうために、次に会う約束を取り付けられることが共通認識となる(CDがなくなりつつある時代に、この感覚はなくなってしまうかもしれないが)ことを考えるとわかりやすい。


随分と脱線したが、お酒の手酌が忌避されるのは、それが交換の拒否であり、コミュニケーションの拒否であるからである。手酌をすることは、「私だけで満ち足りているので、あなたと話すことはありません」という宣言に等しい。禁酒中の飲み会で辛いのは、意図しなくても、お酒の交換を拒否してしまい、交換のサークルから外れることで味わう疎外感と、背徳感だけが残る気持ち悪さである。この気持ち悪さと二日酔いの気持ち悪さを比較考量すると、実は二日酔いの方が楽なのかもしれない。

お酒にフォーカスして話してきたが、共同体を立ち上げることにおいて、お酒やキスやタバコなど、それを嗜んでいない人が嗜んでいる人に抱く嫌悪感の強さに比例して、共同体の凝集性は高まるのでないか。キスというのは唾液を媒介としたバクテリアの交換であり、種の強化のための異種混合という側面があると聞いたことがある。おっさんの唾が飛ぶことをひどく忌避する女の子も、好きな人とは積極的に唾液の交換をしたがるのは、面白いコントラストである。唾液というものは体外に出た瞬間に汚いものとされるのは、ある種の人類学的な両義性があるからなのだろう。

さらに、お酒とたばこはどちらも医学的な意味においては身体に悪い。健康を害するものの権化として挙げられているこの二つのものが共同体を立ち上げる媒介の最たるものになることは、何か意味がありそうである。先ほど、「交換するもの」よりも「交換すること」の重要性が高いことを話したが、そこにヒントがあるのでないか。こうした考え方が妥当かは不明だが、「交換するもの」の無益さ、さらに言えば害悪を追求したとき、相対的に「交換すること」の意味合いが増すからではないかと思う。「交換すること」を分子としたとき、分母となる「交換するもの」が小さいほど、この分数は大きくなる。辛い時期を一緒に乗り越えたことが、仲間との絆を深めるという一般的な認識はここから来るものでないのか。


お酒を呑めないというだけで、これほど話が膨らむとは思わなかったが、いろいろ書いているうちに二郎をスト缶で流し込みたくなってきたので、筆をおく。この理論をもってすれば、これを一緒にやってくれる人とはずいぶん仲良くなれそうだ。
※健康面を考えると、いつできるようになるかは未定。

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